・日本羊毛工業発祥の地
・千住製絨所跡煉瓦塀(荒川工業高校)
・千住製絨所跡煉瓦塀(ライフ南千住店)
○荒川遊園煉瓦塀(別頁)
荒川総合スポーツセンター前に、日本羊毛工業発祥の地モニュメント、井上省三君碑、井上省三像があります。
かつて、絹の富岡、ウールの千住といわれていた官営工場がありました。
<日本羊毛工業発祥の地>
すべり台のような形の紡績の機械のモニュメントがあり、中央に説明があります。
(説明)
「日本羊毛工業発祥の地
明治12年(1879)この地に官営の千住製絨所が設立された。
それまで輸入に頼っていた羊毛製品の国産化を意図して建てられたもので、初代所長にはドイツで毛織物の技術を学んだ井上省三(1845〜1886)を迎え、ここに日本の羊毛工業が始まった。
昭和20年に操業が停止するまでの70年間、大規模な毛織物の製造が行われ日本の羊毛工業の発展に寄与した。
地域の人々から「ラシャ場」と呼ばれた赤煉瓦洋風建築のこの工場は、荒川区が近代工業地帯として発展するきっかけとなった。」
<井上省三君碑>
モニュメントの左に大きな石碑「井上省三君碑」があります。
(説明板)
「あらかわの史跡・文化財
井上省三君碑
この碑は、官営工場千住製絨所初代所長井上省三の功績を後世に伝えるものである。
省三は、長州(現山口県)出身で、木戸孝允に従って上京、後にドイツに留学し毛織物の技術を修得した。明治十二年の千住製絨所の開業、日本羊毛工業の発展に尽力したが、同十九年に四十二歳の若さで死去。同二十一年に製絨所の職員・職工の有志が、省三の偉業をしのびこの碑を建立した。
上部の題字と撰文は、省三と同郷で、交遊のあった、後の外務大臣青木周蔵と東京農林学校(後の東大農学部)教授松野(石間)による。 荒川区教育委員会」
(裏面)「平成四年度設置」
<井上省三像>
胸像の台座の両脇に、羊の頭像が据えられています。
漢文の碑文によると、井上省三没後50年に際し、昭和11年12月14日に、熱海と千住に像を建てたとあります。
※井上省三の墓所がある熱海の海蔵寺にも井上省三像があります(未訪問)。
荒川総合スポーツセンター前から、若宮八幡通り(奥州古道)を進みます。(参考:若宮八幡)
右手の荒川工業高校の西に煉瓦塀が続いています。
入口をふさいだ西門があり、関東大震災後の大正13年に、非常時の避難路確保のために新設されたものです。
ライフ南千住店柱林蔵の煉瓦塀が荒川区文化財に指定されていますが、こちらも令和3年に文化財に指定です。
煉瓦は色々なところのものが使用されているようですが、小菅の煉瓦工場のものが含まれているとのこと。
(小菅の煉瓦工場については、こちらで記載済です。)
(説明板)
説明板に東京スタジアムの名残が垣間見えます。
「あらかわの史跡・文化財
千住製絨所跡
この付近一帯には、明治十二年(一八七九)に創業された官営の羊毛工場である千住製絨所があった。
工場建設用地として強固な基盤を持ち、水利がよいことから、隅田川沿いの北豊島郡千住南組字西耕地(現南千住6-38〜40、45付近)が選定された。敷地面積8,300余坪、建坪1,769坪の広大なものであった。明治二十一年(一八八八)に陸軍省管轄となり、事業拡大とともに、現荒川スポーツセンターあたりまで敷地面積が拡張された。
構内には生産工場にとどまらず、研究施設や福利施設などが整備され、近代工場の中でも先進的なものであった。
戦後民間に払い下げられ、昭和三十七年、敷地の一部は野球場「東京スタジアム」となり、人々に親しまれてきた。
一部残る煉瓦塀が往時を偲ばせる。 荒川区教育委員会」
ライフ南千住店駐輪場に、千住製絨所跡煉瓦塀が保存されており、荒川区の説明板がありあす。
(説明板)
「荒川区登録有形文化財(歴史資料)
旧千住製絨所煉瓦塀
この煉瓦塀は、明治十二年(一八七九)に創業を開始した官営工場、千住製絨所の敷地を取り囲んでいた東側の塀です。塀の長さは北側九・九メートル、南側八・四メートルで、正門の袖柱の一部と、塀を保護するために設けられた車止めの一部が残っています。建設年代は、明治四十四年(一九一一)から大正三年(一九一四)頃と推定されます。
千住製絨所は、ラシャ場とも呼ばれ、殖産興業、富国強兵政策の一貫として軍服用絨(毛織物)の本格的な国産化のために設けられた施設です。軍服用絨を製造するだけでなく、民間工場に技術を伝授する役割も果していました。初代所長は、ドイツで毛織物の技術を学んだ井上省三です。荒川総合スポーツセンター西側に井上省三の胸像が保存されています。
当初の工場は、荒川(現隅田川)沿いに建設されましたが、次第に周辺の田園地帯を取り込んで拡張を重ね、大正時代には、敷地面積は三万二千四百六坪になりました。千住間道を南限とし、現在の荒川総合スポーツセンター、南千住野球場、南千住警察署、都営住宅、都立荒川工業高校、東京都水道局東部第二支所などが旧敷地に該当します。
千住製絨所の登場は、南千住地域の近代化に大きな影響を与えました。明治時代、汐入の二つの紡績工場(南千住八丁目)、石浜神社付近のガス会社(南千住三丁目)など大規模な工場が進出し、また隅田川貨物駅なども設置され、南千住は工業と商業の町へと変貌していきました。内務省、農商務省、陸軍省と所管が代わり、戦後、昭和二十四年(一九四九)には、大和毛織株式会社に払い下げられましたが、昭和三十六年(一九六一)に工場が閉鎖され、八十年余りの羊毛工場の歴史に幕を閉じました。構内にあった工場の建物等は現存していないため、この煉瓦塀が千住製絨所に関する数少ない建造物であり、歴史的価値の高い文化財です。
平成二十二年一月、この煉瓦塀は日本紙通商株式会社より荒川区教育委員会に寄贈され、株式会社ライフコーポレーションのご協力を得て、荒川区の近代化遺産の文化財として保存され、地域の歴史を刻んだモニュメントとしての新たなスタートを切ることとなりました。保存に当たりご協力いただきました日本紙通商株式会社、株式会社ライフコーポレーションはじめ、関係各位に感謝申し上げます。
平成二十二年十月 荒川区教育委員会」
★「千住製絨所正門」
昭和初期ころの千住製絨所正門を撮影。
画面左側が現存する煉瓦塀と考えられる。
★「大日本千住製絨裏面之図」 明治時代 江崎礼二/撮影
創建当初の千住製絨所の北東から撮影。
荷物運搬用として荒川(現隅田川)から引いた堀があった。
★東京真画名所図解「千住ラシャ製造場」 明治17年から明治22年 井上安治/画
創建当初の千住製絨所を南東から描いた。
松原大門の松並木と水辺の植物ハンノキの奥にある、
水田に囲まれた千住製絨所の様子。
「千住ラシャ製造場」(井上安治 国立国会図書館蔵)
説明板に掲載の井上安治「千住ラシャ製造場」です。