○ 乗蓮寺(東京大仏)
○ 旧藤堂家染井屋敷石造物(板橋区文化財)
乗蓮寺は、昭和46(1971)年に板橋区仲宿から現在の赤塚に移転した寺院で、赤塚城の二の丸跡に建っています。
「江戸名所図会 乗蓮寺 相生杉 女男松 板橋駅」
境内には「相生杉(あいおいすぎ)」と「女男の松(めおのまつ)」があり、縁結びの寺ともいわれていました。
江戸市中に向かう馬の背には板橋区域の特産大根の一つだった「徳丸大根」(と思う)が、江戸市中からの帰りの馬の背には下肥桶があります。
徳丸大根は徳丸村の御用畑で栽培されていました。
板橋宿に「乗蓮寺」が見えます。(板橋区立郷土資料館資料より)
<閻魔堂>
「江戸東京四十四閻魔」の第三十四番です。
正門の手前に閻魔堂があります。
中央に閻魔大王、隣に奪衣婆、その前に十王が並んでいます。
<正門>
(説明板)
「乗蓮寺
ご本尊は阿弥陀如来。浄土宗で赤塚山慶学院と称しています。応永年間(一三九四〜一四二八)に了賢無的が山中村(現仲町)で人々に教化したことに始まり、後に板橋の
中宿(現仲宿)に移転したと伝えられています。
天正十九年(一五九一)に徳川家康から十石の朱印地を与えられて以来、代々の将軍から朱印状を与えられました。また寛保三年(一七四三)に将軍吉宗が鷹狩りの際に雨宿りしたのが縁となり、それ以降将軍の鷹狩りの際の小休所、御膳所となりました。
高速道路の建設に伴う国道十七号線の拡張工事により、昭和四六年から七年の歳月をかけて現在の地に移転しましたが、その際に天災戦災等の無縁仏の供養や恒久平和を祈願して青銅製の東京大仏が建立されました。
境内には、板橋の領主板橋信濃守忠康の墓や天保飢饉供養塔、藤堂家ゆかりの石像があります。
平成十三年 板橋区教育委員会」
<山門(仁王門)>
山門表の左右に「金剛力士蔵(仁王像)」
山門裏の左右に「多聞天尊像」「広目天尊像」
「板橋十景
平成15年2月に区制施行70周年を記念して区民応募により
「板橋十景」を選定しました。(板橋区)
1.赤塚溜池公園周辺(赤塚5丁目)
2.板橋(本町)
3.いたばし花火大会(荒川河川敷)
4.志村一里塚(志村1丁目)
5.石神井川の桜並木(石神井川沿い)
6.松月院(赤塚8丁目)
7.田遊び(徳丸北野神社/徳丸6丁目)
田遊び(赤塚諏訪神社/大門)
8.高島平団地とけやき並木(高島平2・3丁目)
9.東京大仏(乗蓮寺)
10.南蔵院のしだれ桜(蓮沼町)」
<いたばしの史跡観光案内〔赤塚散歩道〕>
<鐘楼>
<布袋尊/赤塚山由緒>
北村西望作の福寿観音です。
<七福神>
<句碑>
わかりません。
<赤塚城二の丸跡/妙見祠> 板橋区史跡
「板橋区 史跡 赤塚城二の丸跡」
赤塚城の守護神として千葉氏に崇められた妙見祠です。
<天保飢饉の供養塔> 板橋区文化財
天保8(18337)年銘の天保飢饉の供養塔です。
(説明板)
「天保飢饉の供養塔
天保の飢饉は、享保・天明の両飢饉と並び江戸時代三大飢饉の1つに数えられています。天保四年(一八三三)から同七年にかけて全国的な天候不順による凶作、疫病の流行によって大勢の餓死者や行路病死者(行き倒れ)が出ました。
幕府は、白米や銭を支給するとともに、同八年(一八三七)には、新宿・品川・千住・板橋の四宿に救助小屋を設けてその救済に努めましたが、亡くなる者は跡を絶ちませんでした。
この供養塔は、当時板橋宿の中宿にあった乗蓮寺の住職撮誉上人が、宿内の死者を寺内に埋葬し、その菩提を弔うために建立したものです。正面と左右の面には、江戸中期の浄土宗の高僧祐天上人筆の「南無阿弥陀佛」の名号が、また台座には同八年三月から十一月の間に亡くなった四二三人(男三三三人、女四九人、子供四一人)の戒名が刻まれています。
昭和六十一年度に板橋区の文化財(歴史資料)に登録されました。
平成十七年三月 板橋区教育委員会」
<手水舎>
倶利迦羅剣と龍の吐水口です。
<弁天池/弁天堂>
黄金の弁天堂です。
<本堂>
<東京大仏>
東京大仏は、昭和52(1977)年に建立されました。
昭和57(1982)年に東京都が選定する新東京百景に選ばれています。
青銅製の大仏では建立当時3番目、現在は4番目の大きさです。
歴史は浅いですが、東京大仏は定着し、通りの名前も「東京大仏通り」です。
(説明板)
「東京大仏
この大仏さま(阿弥陀如来)は、当山住職二十三世正譽隆道が、昭和四十九年八十八才にて発願、完成まで約三年の歳月と延べ三千五百人の手によって昭和五十二年四月完成をみました。
千葉氏の居城であったこゝ赤塚城二の丸址に乗蓮寺を建立するにあたり、千葉氏一族、戦没者、そして有縁無縁の霊をとむらい、世界の平和と万民救済の願いがこめられております。
奈良、鎌倉の大仏に次ぐ東京大仏です。
合掌して南無阿弥陀仏と十遍となえましょう。
材質 青銅(ブロンズ)製
重量 32トン
座高 8.2メートル(頭部3メートル)
蓮台 2.3メートル
基壇 地上2メートル、地下1メートル」
<板橋信濃守忠康墓(付石灯籠)> 板橋区文化財
文禄2(1593)年に亡くなった板橋信濃守忠康の墓です。
墓石の脇にある石燈籠は万延元(1860)年に、十三代の板橋政道が奉納したものです。
(説明板)
「板橋信濃守忠康墓(付石灯籠)
板橋氏は、平安末期より豊島郡を支配した武蔵豊島氏の一族であり、その末裔にあたる信濃守忠康は、『寛永諸家系図伝』によると、天正年間(十六世紀末)には、北条氏直に仕えていたといわれています。
忠康の子である忠政は、北条氏滅亡後に徳川家康に仕え、子孫は旗本として幕末まで続きました。また、同じく忠康の子で、忠政の弟である蓮源社本誉利覚は、浄土宗の赤坂浄土寺の住職となっており、その関係から歴代の旗本板橋氏は浄土寺を菩提寺としています。
その中で、文禄二年(一五九三)十一月に二十一日に亡くなった忠康だけは、本貫地である下板橋宿にあった乗蓮寺を菩提寺としています。
寛政四年(一七九二)に、先祖忠康の二百回忌が旗本板橋盛壽・盛種によって乗蓮寺で営まれ、その際に墓石が再建されています。なお、その顛末は、区文化財の「乗蓮寺文書」で確認できます。
なお、墓石の脇にある石灯籠は万延元年(一八六〇)に十三代の板橋政道が奉納したものです。
平成十年度に区登録有形文化財となりました。
平成二十年三月 板橋区教育委員会」
<「説教浄瑠璃」五代目・若太夫の墓> 板橋区文化財
「説教家元五代目 若太夫墓」
(説明板)
「説教浄瑠璃五代目若太夫墓
これは、「説経浄瑠璃」五代目家元若太夫・本名諏訪仙之助〔文化八年(一八一一)〜明治十年(一八七七)〕の墓石です。
「説経浄瑠璃」は、仏教布教の一手段である「節談説経」から派生し、寛永年間(一六二四〜四四)頃からは三味線を伴奏とした「語り物」として流行しました。一時は衰えましたが、寛政年間(一七八九〜一八○一)頃に、
米商人とされる初代薩摩若太夫によって再興されました。その五代目に当たるのが、下板橋宿中宿に居住するとともに同地を拠点として活躍した五代目若太夫です。
若太夫は、最盛期には多摩地域や埼玉県域に五十八人もの弟子を抱えていたとされ、「説経節史上の功績者」
とも評されています。現在、都指定無形文化財(芸能)である三代目若松若太夫(小峰孝男)と、その師匠二代目若松若太夫(故・松崎寛)の芸能上の祖に当たります。
五代目若太夫は没後、旧下板橋宿にあった浄土宗乗蓮寺に葬られましたが、昭和四十六年からの乗蓮寺の赤塚移転にともない、墓石も当地に移設されました。
蓮華の上に六角柱という珍しい形状の墓石には、「恵生芳願信士」という若太夫の戒名と辞世の句「何所となく 行先広し 穐の風」、さらには妻ゑんの戒名、娘千代、孫はつ、古石という人物による追悼の句がそれぞれの面に刻まれています。
当墓石は、下板橋宿を拠点としていた若太夫の活動によって、「説経浄瑠璃」が幕末維新期に周辺地域へと伝播していく状況を裏付ける重要な歴史資料であるということから、平成二十二年度に区の登録有形文化財となりました。
平成二十三年八月 板橋区教育委員会」
<日本回国供養塔>
正徳5(1715)年銘の日本回国供養塔です。
<阿弥陀如来座像>
正面「南無阿弥陀仏」
津藩藤堂家・江戸下屋敷(染井屋敷)に置かれていた石造物です。
(説明板)
「乗蓮寺所蔵旧藤堂家染井屋敷石造物
乗蓮境内にある九点の石造物(鉄拐仙人像・婆々像・天邪鬼像・大黒像・恵比寿像・文殊像・布袋像・役行者像・十三重塔)は、もとは現在の豊島区駒込付近に所在していた
津藩藤堂家江戸下屋敷(染井屋敷)に置かれていたものです。石造物のいくつかは、文政元年(一八一八)に作成された「藤堂和泉守殿染井下屋敷図」に呼称・特徴などが付されて描かれており、また天保十三年(一八四二)成立の「虎丘堂集書」に、「不思議な形」「形異状」な珍品であると記録されるなど、江戸時代から特色ある石造物として知られていました。
また、明治二十二年(一八八九)に発刊された「江戸会誌」収録の「染井藤堂邸の石像」と題するレポートにも、邸内に残っていた古石像十一躯が一所に集められていたとあります。その後、同地は仙人塚とも鉄拐堂とも呼称され、とくに足の病気平癒を願う人々の信仰対象となりました。
戦後、これらの石像は鉄拐堂に隣接する個人宅に置かれていましたが、
昭和四十二年(一九六七)に当時板橋区仲宿に所在していた乗蓮寺のもとへと移されました。そして、その数年後に実施された乗蓮寺の赤塚への移転にともなって、現在の場所に移設されました。
これらの石造物は、江戸期に大名屋敷内に所在していたことを文献史料から裏付けることができる希有な資料であり、平成二十三年に板橋区登録文化財となりました。
令和二年十二月 板橋区教育委員会」
<大黒/恵比寿>
恵比寿像の竿は失われたようです。
<文殊菩薩>
<奪衣婆>
<役行者>
<天邪鬼(がまんの鬼)>
<鉄拐仙人>
<十三重塔>
<倶利迦羅剣と龍> 再掲
「藤堂家下邸庭園図」には石像として描かれているので、こちらはレプリカでしょう。
「藤堂家下邸庭園図」(文政元(1818)年)
石造物が呼称が付されて描かれています。一部抜粋です。
(参考)
豊島区駒込に津藩藤堂家下屋敷の裏門(豊島区文化財)が曳屋により移築し保存されています(こちらで記載)。
「江戸切絵図 染井王子巣鴨邊絵図」
現在の染井通り沿に、藤堂和泉守の屋敷が見えます。
(参考)津藩藤堂家関連
・藤堂高虎は寛永4(1627)年その屋敷跡に、徳川家康を祭神とする上野東照社(後に東照宮)を創建しました。→こちら
・「花の山昔は虎のすみかなり」→こちら
・上野動物園内に藤堂家墓所と藤堂高虎の墓があります(非公開)。→こちら
・藤堂高虎が創建した寒松院は東照宮の別当寺として開基されました。→こちら
・藤堂家下屋敷(江戸切絵図)→こちら
・藤堂家下屋敷の裏門→こちら
・藤堂家は、藩祖高虎以来、築城土木、水利の技術に長じており、幕府から神田上水の改修工事を命じられています。
かつて津藩の武士であった松尾芭蕉は、工事監督としてこの改修工事に当たりました。→こちら
・藤堂家上屋敷(千代田区神田和泉町1番地:現、三井記念病院)
昭和通りに架かる和泉橋は、藤堂家に由来します。→こちら
・藤堂家上屋敷には一時期、養育院がありました。→こちら
・根津神社社殿前の青銅燈籠は、宝永7(1710)年に、藤堂和泉守高敏(津藩第5代藩主)が奉納したものです。→こちら
・明治時代の作家斎藤緑雨は、父が藤堂高潔伯爵のお抱え医師で、本所緑町(現緑二丁目)の藤堂家邸内に住んでいました。→こちら