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 両国駅

  ○ 両国駅広小路
  ○ 両国駅
  ○ 両国江戸NOREN
  ○ 斎藤緑雨居住の地



両国駅広小路 墨田区横網1-3

 両国駅広小路の石標があります。

   



両国駅 墨田区横網1-3-20

  
 

 <力相撲>

  駅構内への入口に「力相撲」像があります。

    
 

 <錦絵>

  駅構内に2枚の錦絵が掲示されています。

  「両国大相撲繁栄之図」(歌川国郷)

   
 

 「東都両国ばし夏景色」(橋本貞秀)

   
 

 「東都両国ばし夏景色」(橋本貞秀 国立国会図書館蔵)

   



両国江戸NOREN 墨田区横網1-3-20
 

<両国観光案内所>

 両国観光案内所があります。色々な飲食店も入っています。

  
 

<土俵>

 両国国技館と同サイズの土俵があります。

    



斎藤緑雨居住の地 墨田区両国2-19

 両国駅西口を出たところに説明板「斎藤緑雨居住の地」があります。
 斎藤緑雨は、森鴎外と幸田露伴との作品合評「三人冗語」で、樋口一葉「たけくらべ」を世に送り出しました。

(説明板)
「斎藤緑雨居住の地  墨田区両国二丁目十九番
 明治時代の作家斎藤緑雨は慶応三年(一八六七)に伊勢国神戸(三重県鈴鹿市) に父斎藤利光、母のぶの長男(本名は賢)として生まれました。明治九年(一八七六)一家で上京し、深川、本所千歳町に居住の後、父が藤堂高潔伯爵のお抱え医師となったことから、本所緑町(現緑二丁目)の藤堂家邸内に移り住みました。上京後の緑雨は、土屋小学校(現千歳に旧在)や江東小学校(両国小学校の前身)などで学びました。緑雨は「日記帳」の中で「読書と数学はいつも高点」、「習字と画学は、いつも落第点にちかかり」と回想しています。十二、三歳頃から上田萬年らと回覧雑誌を始め、十四歳頃からは詩文を新聞に投稿するようになりました。
 明治十七年、十七歳の時には父とともに俳句を師事した其角堂永機の紹介で仮名垣魯文の門に入り、その縁で「今日新聞」の校正や記事収集の手伝いを始めました。この頃、社主に伴われて出かけた柳橋や新橋での見聞が江戸通人趣味につながったといわれています。翌年には坪内逍遥との親交が始まり、居住地の緑町にちなんだ緑雨のペンネームを使用するようになります。処女作は江東みどりのペンネームで明治十九年に発表した「善悪押絵羽子板」で、五年後には柳橋を舞台とした「油地獄」と「かくれんぼ」で小説家としての地位を確立しました。また、文芸批評でも旺盛な執筆活動を展開し、森鴎外と幸田露伴との作品合評「三人冗語」では、樋口一葉「たけくらべ」を世に送り出しました。晩年には「眼前口頭」などの新聞連載で緑雨特有のアフォリズム(警句)を表現しました。居住地を転々とした緑雨は、病気がちとなり明治三十六年十月、本所横網町一丁目十七番地(現横網一丁目・両国二丁目の一部)の金沢タケ方に寄寓することになりました。緑雨はその家の奥の六畳で臥しがちだったようです。翌年、親友馬場狐蝶に樋口家から預かっていた一葉の遺稿と日記を託し、四月十三日に三十七歳の生涯を閉じました。
親友幸田露伴は緑雨の生涯に思いを馳せ、「春暁院緑雨醒客」と戒名をつけました。
  平成二十七年三月  墨田区教育委員会」

   


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