Discover 江戸旧蹟を歩く
 
 東京大学

 【工学部】
  ○ ジョサイア・コンドル像
  ○ チャールズ・ウェスト胸像
  ○ 古市公威像
  ○ 三好晋六郎像
  ○ ペンシルロケット
  ○ 日本初の人工衛星「おおすみ」
  ○ 工学部一号館工学部列品館 国登録有形文化財


○ジョサイア・コンドル像 文京区本郷7-3-1 東京大学工学部前庭

 工学部1号館前庭に「ジョサイア・コンドル像」が建っています。新海竹太郎の作。

     

 台座基部の邪鬼を右手に葉巻を手にしたコンドルが踏みつけています。
 これはコンドルの耐震技術を顕彰しているようです。
 日本文化に造詣が深かったコンドルなので、弟子たちが庚申塔をイメージしたのかも?
 東京大学ある銅像の中では、ジョサイア・コンドル博士像と上野英三郎博士像が唯一の立像です。
 邪鬼の下に三猿がいたら庚申塔ですね。

  

(プレート文)
「ジョサイア・コンドル
 Josiah Comder 1852〜1920
 ロンドンに生まれ、建築学を学び、1876年に野本政府と5年間の雇用契約を結んで、翌77年に来日した。工部大学校造家学の教師となり、最初の教え子として辰野金吾や片山東熊らを輩出。建築教育に従事する傍ら、上野博物館、鹿鳴館、東京大学法文科校舎など、本格的な西洋建築を相次いで設計した。86年に工科大学造家学科講師に転じ、88年に辞任、建築事務所を構えて設計の仕事に力を注いだ。わが国の建築学に確固たる出発点を与えたことは不滅の業績といえる。来日後すべての設計活動を日本で行い、1920年に没した。」

  
 

「博士銅像除幕式 コンドル博士遺作集」(コンドル博士記念表彰会 昭和7年)

 コンドル博士功績記念表彰会が建立、大正12(1923)年4月14日に除幕式が行われました。
 式辞を述べているのは東京帝国大学総長の古在曲直です。
 銅像の後ろの建物は、辰野金吾設計の当初の工科大学本館です。

 


○チャールズ・ウェスト胸像 東京大学工学部前庭

 機械工学と造船学を教授したウェスト博士の胸像があります。明治43(1910)年の建立です。
 胸像は沼田一雅の作で、台座と敷地の設計はコンドルが担当しました。
 ウエストはコンドルとともに教鞭をとり、2人の親交は深いものがありました。

   

 柱礎の四面に機械学科にちなむ青銅のパネル(機械、造船所)が嵌められています。
 
     

(プレート文)
「チャールズ・ウェスト
 Charles Dickinson West 1847〜1908
 ダブリンに生まれ、ダブリン大学トリニティ・カレッジで機械工学を修め、1869年に卒業したあと、5年余りイギリスのベルケンヘット製鉄場で働いた。造船の知識をこの時に得ている。ヘンリー・ダイアーの機械工学の後任として、82年に来日し、機械工学とともに造船学も教えた。わが国の機械工学を未熟な状態から急速に発展させることに尽力した。そのまま日本に留まり、1908年に没した。」

  
 

「ウエストの像台座 コンドル博士遺作集」(コンドル博士記念表彰会 昭和7年)

 台座はコンドルの設計です。

  

 「チャールス・ディー・ウエスト 機械工学教授 肖像」(東京帝国大学 小川一真 明治33年)

  


古市公威像 正門脇

 古市公威は、帝国大学創立時の初代工科大学長です。
 昭和12(1937)年6月5日除幕式。堀進二の作。銅像は等身の一・五倍ある大きな像です。

    
 

「古市公威」(故古市男爵記念事業会編 昭和12年)

 除幕式には約400人が参列しています。

   除幕式          台座銘文       銅像               銅像全景
     

(説明板)
「古市公威 1854〜1934
 1854年、姫路藩士の子として江戸に生まれる。75年、東京開成学校から文部省最初の留学生として渡欧、76年にパリの名門工学校エコール・サントラルに入学し、土木工学を軸に工学全般を修める。80年に帰国後、内務技師として河川改修、築港などのプロジェクトに関わりながら、東京大学理学部講師を兼任。86年、帝国大学創立と同時に初代工科大学長に就任し、日本近代の工学教育の礎を築いた。88年には日本初の工学博士号を授与される。98年に退官するが、技術者としても初代内務土木技監、初代土木学会長など要職を多く務め、新生明治日本の近代化に欠かせない役割を果たした。1934年没。」

  
 

「古市公威肖像」(国立国会図書館「近代日本人の肖像」)
 嘉永7年閏7月12日〜昭和9年1月28日(1854年9月4日〜1934年1月28日)
 土木工学者。父は姫路藩士古市孝。開成所、大学南校に学び、明治8(1875)年文部省最初の留学生としてフランスに留学。
 明治13年に帰国後、内務省土木局に勤務。明治19年帝国大学工科大学教授兼学長になる。明治21年工学博士。明治23年内務省土木局長。
 日本の土木工学、土木行政の近代化に尽力した。大正3(1914)年土木学会初代会長となり、その後理化学研究所長、学術研究会議会長、万国工業会議会長等を歴任。
 作家三島由紀夫の本名「公威」は、古市公威の名をとって命名したといわれています。

  昭和3年75歳
  


三好晋六郎像

 工学部5号館奥にある工学部船舶試験水槽室(昭和12(1937)年の築)前に、「三好晋六郎像」があります。
 三好晋六郎は造船学者。像は大正3(1914)年の建立で、武石弘三郎の作です。

(説明板)
「三好晋六郎 1857?1910
 1879年に工部大学校機械工学科を卒業し、直ちにイギリスに留学した。82年に造船学科が新設され、83年に帰国し助教授となり、造船学第一講座を担当した。86年に初代の日本人教授となり、後の発展の礎を築いた。学問が未分化のこの期にあっては船舶の設計製図が中心課題であったが、97年、汽船神奈川丸外5隻の速力試験成績を発表、設計上有益な資料として注目された。」

    

 「三好晋六郎肖像」(東京帝国大学 小川一真 明治33年)

  


【工学部前庭モニュメント】

ペンシルロケット>

 ペンシルロケットは、東京大学生産技術研究所の糸川英夫教授が中心となって開発を行なった、全長23cmの超小型ロケットです。
 1955年4月12日に発射試験に成功しました。日本の宇宙開発の先駆けとなったロケットです。

   
 

<日本初の人工衛星「おおすみ」>

 人工衛星「おおすみ」は、東京大学宇宙航空研究所が、1970年2月11日に打ち上げた日本最初の人工衛星です。

   


工学部一号館 国登録有形文化財

 現在の建物は昭和10(1935)年に建てられたものですが、当初の建物は辰野金吾による設計です。

  
 

「明治二十一年新築の工科大学校舎」(古市公威 故古市男爵記念事業会編 昭和12年)

 辰野金吾による設計の明治21年新築の工科大学校舎です。東京駅に雰囲気が似ていますね。

 (参考)「辰野金吾まとめ

  
 

工学部列品館 国登録有形文化財

 大正14(1925)年の建築です。

  


戻る