○ 品川宿
○ 八ツ山橋
○ 品川宿入口の歩道広場
○ 品川宿傍示杭
○ 品川第二踏切
○ 道標「一番 東海道八ツ山口」
○ 問答河岸跡
○ 磯の清水
○ 土蔵相模跡
○ 品海公園
○ 品川宿本陣跡
品川宿は当初、目黒川をはさんで「北品川宿」「南品川宿」の二宿で構成されていましたが、
享保7(1722)年、その北に「徒歩(かち)新宿」が加わりました。
従来の南北の両品川宿を、新宿に対して本宿ともいいました。
「江戸名所図会 品川駅」
「東海道五拾三次 品川・日之出」(広重)
西に向かう大名行列は、最初の宿場である品川宿を通るころには日の出を迎えます。
八ツ山の崖下に、品川宿入口を示す「榜示杭」が見えます。
行列が行き過ぎる様子が茶屋に姿を現す人々の姿でわかります。
「品川」(東海道:広重画五拾三次現状写真対照 大正7年)
広重の絵と同じ場所を撮った大正時代の写真です。
八ツ山は切り崩され鉄道が走っています。左手に八ツ山橋が見えます。
「江戸名所之内 品川の駅海上」(広重)
旅籠屋が建ち並んでいます。
街道に面している所が2階で、2階に見える所が3階です。
「江戸名所百人美女 品川歩行新宿」(豊国・国久)
飯盛女が右手に御簾紙を持っています。
こま絵には旅籠屋の3階が描かれ(海からは3階建に見えますが街道からは2階建に見える)、満月が見えます。
「東京名所三十六戯撰」(昇齋一景 明治5(1872)年)
階段で転んで三階から落ちてきた男が、はずみで飯盛女の顔面をキックしています。
女が持っていたとっくりが転がり酒がこぼれています。
女は蹴られたはずみで、後ろにいた子どもに手があたり、子どもが落とした壺が床にひっくりかえっています。
海には品川台場が見えます。
川柳「三階に居る潮干狩り母案じ」があるように、旅籠屋は三階建で、この絵も男が落ちてきているのは三階からです。
「東京開化狂画名所 品川妓楼 客人のとまどひ」(月岡芳年 都立図書館蔵)
旅籠屋の3階での光景で、部屋を間違えた客が、屏風を押し倒してしまったようです。
明治となっても旅籠屋はさほど変わらなかったようです。
八ツ山橋は、明治5(1872)年10月の新橋・横浜間の鉄道開通に先立ち、5月の品川・横浜間の仮営業に際して1月に架けられていた跨線橋です。
現在の橋は昭和60(1985)年に架け替えられた4代目となります。
欄干に「旧東海道」とあります。
「17 しながわ百景 八ツ山橋」に選定されています。
<ゴジラ上陸地点>
ここは、ゴジラ上陸地点です。ゴジラが上陸して八ツ山橋を破壊しました。
「東京蒸気車鉄道一覧之図」(孟斎芳虎 明治4(1871)年 国立国会図書館蔵)
一覧之図から八ツ山橋部分を抜粋しています。
高輪築堤を経て品川停車場に至り、八ツ山橋をくぐり、八ツ山・御殿山の切通しを抜けた蒸気車が見えます。
「東京八ツ山下海岸蒸気車鉄道之図」(三代広重 明治4(1871)年頃 都立図書館蔵)
海上にお台場が連なっています。品川燈台も描かれています。
右下に八ツ山橋が見え、この先が品川宿です。東海道は賑やかです。
「東京明細圖會 品川鐵道」(三代広重 国立国会図書館蔵)
これから八ツ山橋をくぐって、品川停車場、その先の海上の築堤に向かう品川鉄道です。
タイトルが品川鉄道とあるので、まだ新橋〜品川間は開通していない時かもしれません。
海上には品川台場が見えます。
「品川蒸気車鉄道之図」(国政 国立国会図書館蔵)
品川停車場を出発した蒸気機関車が八ツ山橋をくぐって、八ツ山、御殿山を削った切通しに向かう光景が描かれています。
タイトルが品川蒸気車鉄道とあるので、まだ新橋〜品川間は開通していない時かもしれません。
機関車の煙で品川宿は隠れています。
「東京名所図会 八ツ山下の鉄道」(三代広重 国立国会図書館蔵)
八ツ山橋と蒸気機関車が描かれています。
八ツ山橋の左手が品川宿ですが、八ツ山橋手前の東海道に傍示杭があります。「従是〜」が見えます。
「東京名勝 高輪蒸気車鉄道之全図」(芳年 明治4年 国立国会図書館蔵)
品川停車場を出発し、八ツ山橋をくぐり、切通しに向かう蒸気車です。
切通しにも橋が見えます。御殿山橋なのでしょうかね。
「品川停車場 東京市芝区」(日本写真帖 明治45年 国立国会図書館蔵)
品川停車場は、現在の品川駅より南、八ツ山橋の北の海岸である芝区高輪南町(現:港区港南)にありました。
明治29年に建築の駅舎が写っています。
「絵本江戸土産 月の岬」(広重 国立国会図書館蔵)
八ツ山から高輪、芝浦の海岸線を望んで描いています。
歩道に設けられたレストスペースです。
<東海道品川宿まち歩きマップ>
ゴジラ上陸地点も記載されています。
<八ツ山の東司>
公衆トイレです。
<五十三次石柱>
反対側の歩道には、宿場の名称が刻まれた石柱が並んでいます。
榜示杭は、宿や村など領地の境を示す杭で、この傍示杭は、弘化2(1845)年を想定して復元されています。
(正面)「従是南 品川宿 地内」
(右面)「従是南 御代官築山茂左衛門支配所」
(左面)「弘化二年乙巳 月」
品川第二踏切の西側に「旧東海道」の標識。
品川宿の入口です。
道標は、一番八ツ山口から二十五番鈴ケ森口までと番外の計26本あります。
「一番 東海道八ツ山口」
「左 品川駅」
「右 品川宿」
(
三代将軍徳川家光と沢庵和尚が禅問答をした場所に建つ石碑です(実際の問答河岸はもう少し南に下ったあたりといわれています)。
家光「海近くして東(遠)海寺とはこれ如何に」という問いに、沢庵和尚「大軍を率いても将軍と言うが如し」と答えたと伝わります。
(説明板)
「問答河岸跡」
「昭和六十二年吉日 勲五等 永原徳」
(由来記)
「問答河岸由来記
寛永の昔 徳川三代家光将軍 勇壮活達の明君也 宗彭沢庵禅師に帰依して 品川に萬松山東海寺を建つ 寺域五萬坪寺領五百石 殿閣僧房相連って輪奐美を極む 将軍枉駕年間十数度法を聴き政治を問う 厚遇思う可し 将軍一日天地丸に座乗し品海を渡り目黒河口に繋船して東海寺に詣し 喫茶法話 薄暮に至って江戸城に還らんとす 禅師河畔に立って是れを送る 将軍乗船に臨んで禅師に参問して曰ク 海近くして如何が是れ東海寺と 禅師答而曰ク 大軍を指揮して将軍と言が如しと 将軍一笑 纜を解いて而て還る 時移りて三百年地勢亦変じ河海遠し然れ共 市人傳えて問答河岸と称す 一世の英主 一代の名僧 諧謔談笑の蹟 菊鮨總本店主其煙滅を惜み石に録して永世芳を傳えんとす 亦可しからすや
昭和四十三年仲秋 衆議院議員 宇都宮徳馬書」
問答河岸跡碑碑から、踏切方向を振り返ったところ。
「江戸名所図会 磯の清水」
「江戸切絵図」
○が2つ描かれている「清水井」と「シミズヨコ丁」が見えます。
<道標「二番 東海道品川宿入り口> 品川区北品川1-26-10
「二番 東海道品川宿入り口」
道標の上に磯の清水の説明板がありましたが、撤去されてありません。
<清水横町> 品川区北品川1-24-4
道標「二番 東海道品川宿入り口」から石畳の清水横町を進み、旧東海道に突き当ると、
鮮魚店「魚武」の壁に、説明板「清水横町」が掲示されています。
(説明板)
「東海道の品川通りから二本榎(港区)に至る横町の名称で、享保期(一七一六?三六)に島屋文七という者が往んていたため島屋横町と呼んていた。江戸時代後期になると、「磯の清水」といわれた清泉で旱魃にも涸れることがない井戸があったことから清水横町と呼ばれるようになった。
旧東海道品川宿周辺まちづくり協議会 品川礎会」
(説明板)
「古くからの主要な道として切り絵図にも描かれている清水横町。
現在も変わらないこの横町のたたずまいは、品川宿に残された貴重な歴史遺産だ。
東海品川宿 徒歩新宿」
「ロイヤルガーデン品川」の角に、道標「土蔵相模跡」があります。
道標「三番 歩行新宿 土蔵相模跡」
「左 品川駅」「右 本宿」
○土蔵相模跡 品川区北品川1-22-17
一階にファミリーマートが入った「ニックハイム北品川」の前に説明板「土蔵相模跡」があります。
(説明板)
「土蔵相模
土蔵相模は歩行新宿(北品川一丁目)の食売旅籠屋「相模屋」の俗称で、奥座敷が土蔵造りになっていたことから付けられた名勝である。万延元年(一八六○)大老・井伊直弼を襲撃した桜田門外の変の水戸浪士たちや、文久二年(一八六二)英国公使館を焼打ちした高杉晋作・伊藤俊輔(博文)ら長州半紙の集合場所になるなど、幕末の歴史の舞台となった場所である。
旧東海道品川宿周辺まちづくり協議会 品川礎会」
「其紫袖が浦染 相模様源氏製」(初代国貞(三代豊国))
「名所江戸百景 月の岬」(広重)
描かれた場所は諸説あり、八ツ山からの光景を「相模屋(土蔵相模)」を借りて描いたとする説があります。
「高杉晋作肖像」(近世名士写真 昭和10年)
「伊藤博文肖像」(近世名士写真 昭和10年)
石碑や説明板が色々とあります。
<道標>
「品川宿
川崎宿へ二里半
日本橋より二里」
「しながわ百景
3 旧東海道のにぎわい
101 しながわ宿場まつり」
(説明板)
「「東海道品川宿」
「東海道五十三次」といわれる江戸から京都間の五十三宿の中で、品川宿は諸街道の最初の宿場町である。
旅人は、品川宿を経由して西を目指し、また家路についた事から「東海道の玄関口」として栄え、宿内の家屋は一六〇〇軒、人口七〇〇〇人規模で賑わっていた。
今でも品川宿周辺は、江戸時代と同じ道幅を保ち、かつての宿場町として、活気が息づいている。」
<品川宿の松>
<東海道品川宿の石垣石>