平成7(1995)年、ゼームス坂病院があった敷地の一角に、品川郷土の会によって、高村智恵子詩碑が建立されています。
碑には光太郎直筆の「レモン哀歌」の詩が刻まれています。
<案内板「高村智恵子記念詩碑(レモン哀歌の碑)」>
<高村智恵子詩碑>
プレート文は「高村智恵子詩碑」、木札は「高村智恵子ゆかりの地 文学詩碑」となっています。
(プレート文)
「高村智恵子詩碑
この地は、詩人高村光太郎氏の愛妻智恵子氏が、晩年、療養生活を送っていたゼームス坂病院があったところです。また智恵子氏は昭和十三年十月五日、五十三歳のときにこの病院の一室でお亡くなりになりました。
品川郷土の会では、この貴重な文化的史跡を永く後世に残すため、詩碑を建立することにし、高村光太郎氏が、智恵子氏との永劫の別れを哀惜して詠まれた、有名な詩「レモン哀歌」を詩碑に刻みました。
碑は推定される智恵子氏の背丈にあわせ、文字は高村光太郎氏直筆の原稿をそのまま拡大して刻みました。
なお、この詩碑の建立にあたって、快く「レモン哀歌」の使用を承諾していただいた高村規氏、また、土地の使用を承諾していただいたゼームス坂病院跡地所有者、東京マックス株式会社に心より感謝いたします。」(※高村規(1933年‐2014年)は、高村豊周の息子で写真家。高村光太郎記念会理事長を長く務めました。)
レモン哀歌 高村光太郎
そんなにもあなたはレモンを待つてゐた
かなしく白くあかるい死の床で
わたしの手からとつた一つのレモンを
あなたのきれいな齒ががりりと噛んだ
トパアズいろの香氣が立つ
その數滴の天のものなるレモンの汁は
ぱつとあなたの意識を正常にした
あなたのく澄んだ眼がかすかに笑ふ
わたしの手を握るあなたの力の健康さよ
あなたの咽喉に嵐はあるが
かういふ命の瀬戸ぎはに
智惠子はもとの智惠子となり
生涯の愛を一瞬にかたむけた
それからひと時
昔山巓でしたやうな深呼吸を一つして
あなたの機關はそれなり止まつた
寫眞の前に挿した櫻の花かげに
すずしく光るレモンを今日も置かう
平成七年六月 品川郷土の会」
(参考)高村智恵子の墓は染井霊園にあります。→こちらで記載
(碑文)
「三越 ゼームス坂マンション
ゼームス邸跡地について
此の処は南品川英国人ジョン・M・ジェームス邸跡地である。
M・ジェームスは慶応二年(一八六三年)二十八歳の時来日した。そして坂本竜馬等とも知り合い、後に日本海軍創設に貢献し明治五年海軍省雇入れ以降幾多の変遷を経て住まいを此の地に構え隣人に慕われつつ明治四十一年七十歳にて没した。
墓は身延山本堂裏山に在り「日本帝国勲二等英国人甲比丹ゼームス之墓」と刻まれている。
その頃のジェームス在りし日を偲ぶ庭の欅も品川区の保存指定樹として樹齢百数十年の姿そのままに苔むす石垣と共に昔の面影を今に止めている。
昭和五十八年十月」
<ゼームス坂通り/品川銀座>