Discover 江戸旧蹟を歩く
 
 ○ 太宗寺

   ・江戸六地蔵
   ・閻魔堂(江戸三閻魔)
   ・不動堂
   ・切支丹灯籠
   ・内藤正勝の墓
   ・新宿ミニ博物館


○太宗寺 新宿区新宿2-9-2

江戸六地蔵> 東京都文化財

 太宗寺の江戸六地蔵は、三番目として正徳2(1712)年に建立されました。
 昭和27(1952)年からの区画整理で、新宿通りに面していた太宗寺の入口は一本北側の不動通りとなり、
 江戸六地蔵は、昭和32(1957))年に現在の位置に遷座しています。

    

   

<東京都標柱>

 (表)「都重宝 銅造地蔵菩薩坐像」
 (裏)「昭和四十五年八月三日指定
     昭和四十七年三月三十日建設
     東京都教育委員会」

   

(説明板)
「東京都指定有形文化財(彫刻) 銅像地蔵菩薩坐像
   所在地 新宿区新宿二‐九‐二
   指定 大正一○年三月
 江戸六地蔵の由来は、本像内部に奉納されていた判本『江戸六地蔵建立之略縁起』によれば、江戸深川の地蔵坊正元が不治の病にかかり、病気平癒を両親とともに地蔵菩薩に祈願したところ無事治癒したことから、京都の六地蔵に倣って、宝永三年(一七○六)建立の願を発し、人々の浄財を集め、江戸市中六ヶ所に地蔵菩薩をそれぞれ一躯ずつ建立したと伝えられています。各像の全身及び蓮台には、勧進者、その造立年代などが陰刻されており、神田鍋町鋳物師太田駿河守正儀によって鋳造されたことがわかります。六地蔵のうち、深川にあった永代寺の地蔵菩薩(第六番)は、廃仏毀釈で取り壊されて、五躯が残っています。
 六地蔵のうち、霞関山本覚院太宗寺の地蔵は、三番目として正徳二年(一七一二)に建立されました。像高は六地蔵の中では一番小ぶりで二六七cmです。本体には、かつて鍍金が施されていました。
 江戸時代中期の鋳造像としては大作であり、かつ遺例の少ないものであることから文化財に指定されました。
  平成二三年三月 建設 東京都教育委員会」

    

<夏目漱石と江戸六地蔵>

 夏目漱石は、新宿の名主であった塩原昌之助に養子に出されました。
 (漱石の居住地 内藤新宿北町裏16 明治元年11月〜2年3月、内藤新宿仲町 明治4年6・7月頃〜6年3月)
 自伝的小説「道草」に、その時の思い出として、江戸六地蔵のことが書かれています。
 幼少期の夏目漱石は、この地蔵によじ登って遊んでいます。
 映画「セーラー服と機関銃」(1981年)で薬師丸ひろ子もこの地蔵に登っています。

「道草 三十八(抜粋)」
 彼は時々表二階へ上って、細い格子の間から下を見下した。鈴を鳴らしたり、腹掛を掛けたりした馬が何匹も続いて彼の眼の前を過ぎた。路を隔てた真ん向うには大きな唐金の仏様があった。その仏様は胡坐をかいて蓮台の上に坐っていた。太い錫杖を担いでいた、それから頭に笠を被っていた。
 健三は時々薄暗い土間へ下りて、其所からすぐ向側の石段を下りるために、馬の通る往来を横切った。彼はこうしてよく仏様へ攀じ上った。着物の襞へ足を掛けたり、錫杖の柄へ捉まったりして、後から肩に手が届くか、または笠に自分の頭が触れると、その先はもうどうする事も出来ずにまた下りて来た。」


○境内

<圓光大師霊場石標>

 圓光大師(浄土宗開祖の法然上人)二十五ヶ所霊場の第十二番の札所碑です。

 (正面)「圓光大師霊場」
 (左面)「第十二番」
 (右面)「太宗寺」

   

<百度石>

 明治38(1905)年7月銘の百度石です。

   


閻魔堂

 江戸三閻魔の一つです。「江戸東京四十四閻魔」の第五番です。

     

<閻魔像> 新宿区文化財

 ボタンを押すと、暗闇から閻魔像が一分間浮かび上がります。
 関東大震災で破損し、製作当初の部分は首から上だけで、文化11(1814)年に安置されたとされています。
 体は昭和8(1933)年に現在の閻魔堂が再建された際に製作されたようです。

   

(説明板)
「太宗寺の文化財A
 新宿区指定有形民族文化財
 閻魔像  指定年月日 昭和六十一年三月七日
 木造彩色、総高五五○cmにも及ぶ巨像で、目をむき大きな口をあけて見据える姿は拝観者を恐れさせ、子どものしつけのため参拝されたりしました。
 文化十一年(一八一四)に安置されたとされ、製作もその頃のことと推定されます。しかし、数度の火災による度重なる補修を受けたため、製作当初の部分は頭部を残すだけとなっています。
 江戸時代より「内藤新宿のお閻魔さん」として庶民の信仰をあつめ、かつては薮入り(一月と七月の十六日に商家の奉公人が休暇をもらい家に帰ること)に閻魔大王の縁日が出て賑わいました。
 また、弘化四年(一八四七)三月五日には泥酔者が閻魔像の目を取る事件が起り、錦絵になるなど江戸中の評判になりました。
 なお、閻魔堂正面にかかる「閻魔殿」の額は、中国清朝の官吏秋氏が嘉永三年(一八五○)に奉納したものです。
 現在は、お盆の七月十五日・十六日に御開扉されています。」

  

「四ツ谷新宿太宗寺(えんま大王八仏師)」(歌川国輝 弘化4(1847)年3月)ボストン美術館)

 弘化4(1847)年3月5日に、泥酔者が閻魔像の目を取る事件が起り、
 錦絵になるなど江戸中の評判になりました。

  

<奪衣婆像> 新宿区文化財

 一分間浮かび上がる「奪衣婆」。
 明治3(1870)年製作の「奪衣婆」で、正受院の「奪衣婆」人気にあやかって置かれたのかと思います?

   

(説明板)
「新宿区指定有形民俗文化財
 奪衣婆像(だつえばぞう)  指定年月日 昭和六十一年三月七日
 閻魔堂内左手に安置されている坐像です。
 木造彩色で総高は二四○cm、明治三年(一八七○)の製作と伝えられます。
 奪衣婆は、閻魔大王に仕え、三途の川を渡る亡者から衣服をはぎ取り罪の軽重を計ったとされています。この像でも、右手には亡者からはぎ取った衣が握られています。
 また、衣を剥ぐところから、内藤新宿の妓楼の商売神として「しょうづかのばあさん」と呼ばれ信仰されました。」

  

<句歌碑>

 表裏に三句歌が刻まれています。
 (「温故知しん!じゅく散歩」を参照しました。)

 (表面)
  「雪見れば 降休ても 居さりけり」乙芽
  「明日や流がるる水も銀河 わなはばき一木にのこり朝朗」十世湖十
 (裏面)
  「飛く句千代 能なるもちよの松かな」八拾翁清遊

   

<竹本呂角斎辞世歌碑>

 明治3(1870)年、竹本呂角斎の辞世の句
 「ふみなしも 跡なく消えて行先は 法里の光をあかしにして」が刻まれています。
 (「温故知しん!じゅく散歩」を参照しました。)

    

<力石>

 見つけにくいところに力石があります。

     


○稲荷社/地蔵堂

 不動堂の左手に「稲荷社」と「地蔵堂」があります。

  

<稲荷社>

   

<塩かけ地蔵尊>

 地蔵堂には「塩かけ地蔵尊」が鎮座しています。
 頭以外は塩で埋まり雪だるま状態です。
 地蔵堂は平成23年改修とあります。

    
 


不動堂

 戦災で本堂や庫裡は焼失しましたが、不動堂と閻魔堂は焼失を免れました。
 不動堂には「三日月不動像」(新宿区文化財)と「新宿山の手七福神・布袋尊像」が祀られています。

    

    

(説明板)
「太宗寺の文化財D
 新宿区指定有形文化財 彫刻
 三日月不動像  指定年月日 昭和五十九年十一月二日
 額の上に銀製の三日月を持つため、通称三日月不動と呼ばれる不動明王の立像です。
 銅造で、像高は一九四cm、火炎光背の総高は二四三cm。江戸時代の作ですが、製作年・作者などは不明です。
 寺伝によれば、この像は高尾山薬王院に奉納するため甲州街道を運搬中、休息のため立寄った太宗寺境内で、磐石の如く動かなくなったため、不動堂を建立し安置したと伝えられています。
 なお、額上の三日月は、「弦月の遍く照らし、大空をかける飛禽の類に至るまで、あまねく済度せん」との誓願によるものといわれます。このため、像の上の屋根には窓が取付けられ、空を望むことができます。

 新宿山の手七福神・布袋尊像
 新宿山の手七福神は、昭和初期に有志により創設されたもので、太宗寺(布袋尊)・鬼王神社(恵比寿神)・永福寺(福禄寿)・厳島神社(弁財天)・法善寺(寿老人)・経王寺(大黒天)・善国寺(毘沙門天)の七ヶ所となっています。
 布袋尊は中国の禅僧がモデルで、豊かな暮らしと円満な家庭の守護神です。」

  

<破損石燈籠>

 不動堂の左手に、下半分だけの破損石燈籠があります。

  

<大震災紀念碑> 新宿区文化財

 不動堂の右手に二碑が並んでいます。
 こちらは、新聞社を発起人に、四谷区内の町会・区議会・商業組合など103の賛助者・賛助団体によって昭和4(1929)年に建立されました。
 揮毫は増上寺第79世法主の道重信教です。

  

<木下吉五郎君碑>

 昭和2(1927)年5月銘。憲政会の東京支部役員を務められたお方のようです。

   


切支丹灯籠 新宿区文化財

 寺務所前に、内藤家墓所から出土した「切支丹灯籠」があります。

     

(説明板)
「太宗寺の文化財B
 新宿区登録有形文化財 歴史資料
 切支丹灯籠  登録年月日 昭和六十年三月一日
 昭和二十七年(一九五二)太宗寺墓地内の内藤家墓所から出土した織部型灯籠の竿部分(脚部)で、現在は上部の笠・火袋部分も復元し補われています。
 石質は白みかげ石で、江戸時代中期の製作と推定されます。
 切支丹灯籠は、江戸時代、幕府のキリスト教弾圧策に対して、隠れキリシタンが密かにに礼拝したとされるもので、織部型灯籠(安土桃山時代〜江戸時代初期の大名・茶人古田織部の好んだ灯籠)の全体の形状は十字架を、また竿部の彫刻はマリア像を象徴したものであると解釈されマリア観音とも呼ばれています。」

  


○本堂

    


内藤正勝の墓(内藤家墓所) 新宿区史跡

 標柱「太宗寺の文化財 順路C
    内藤正勝の墓(内藤家墓所)」 

    

   

 左から内藤家累代の墓塔、五代内藤正勝の墓塔、十三代内藤頼直の墓塔、墓誌と並んでいます。

     

(説明板)
「太宗寺の文化財C
 新宿区指定史跡
 内藤正勝の墓(内藤家墓所)  指定年月日 平成七年二月三日
 江戸時代に信州高遠の藩主をつとめた(元禄四年より幕末まで)譜代大名内藤家の墓所です。
 現在の墓所は、昭和二十七年(一九五二)東京都の区画整理事業に伴い、墓地の西北部にあったものを現在地に改葬したもので、約三百坪・五十七基の墓塔を現存の三基に改葬し、改装記念碑を建立しました。
 墓塔は三基とも法篋院塔で、中央が五代内藤正勝(寛永六年造立)、右側が十三代内藤頼直、左側が内藤家累代の墓塔(ともに明治時代の造立)となっておりこのうち正勝の墓は区指定史跡に指定されています。
 太宗寺は、寛永六年(一六二八)にこの正勝が葬られ、六代重頼が寺地を寄進し起立したものですが、正徳四年(一七一四)七代清枚が葬られて以後ここを歴代の墓所とし、当主のほか一族が葬られました。」

  

<三界萬霊供養塔>

 一般的に三界萬霊塔の中央には地蔵が座していますが、ここは中央が宝篋印塔で珍しいです。

   


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