Discover 江戸旧蹟を歩く
 
 内藤新宿

  ○ 内藤新宿
  ○ 四谷大木戸碑
  ○ 水道碑記/四谷大木戸跡碑
  ○ 内藤新宿開設三百年記念碑
  ○ 新宿御苑大木戸門
  ○ 新宿ミニ博物館


内藤新宿

 江戸幕府は、江戸から全国各地への街道を整備しました。なかでも五街道は重要で、道中奉行が管理しました。
 江戸日本橋を出て最初の宿場である、東海道品川宿、甲州道中内藤新宿、中山道板橋宿、日光・奥州道中千住宿は、江戸四宿と呼ばれました。
 地方と江戸の、文化や産品の結節点であると同時に、遊興の地でもありました。

 内藤新宿は、甲州道中の日本橋と高井戸の間にあった宿場です。
 由来は天正18(1590)年、関東総奉行内藤清成が徳川家康から屋敷地を拝領し居住したことによります。
 元禄11(1698)年、宿駅が設置され、高井戸宿に対して新宿と称しました。
 

「江戸名所図会 四谷内藤新驛」

 内藤新宿が描かれています。
 挿絵には「節季候(せきぞろ)の来てハ風雅を師走かな はせを」とあります。
 旅籠屋の前では三人組の「節季候(せきぞろ)」が踊っています。
 節季候は、歳末に二〜三人組で「せきぞろござれや、ハァ、せきぞろめでたいめでたい」とはやして家々を回り、遊芸をして米や銭を請いました。
 旅籠屋の脇の防火用水に「和國屋」と記さています。店頭に見える三人娘が飯盛女でしょうか。

   
 

(参考)「職人尽絵詞」(鍬形?斎)
 100を超す当時の様々な職業や、職人の姿、風俗などが描かれていおり、「節季候(せきぞろ)」が描かれています。

  
 

 旅籠屋の右奥では、「鏡磨ぎ」が鏡を磨いています。
 路上では「餅つき屋」が餅をついています。「大道米搗(つき)」が移動中です。

    
 

「江戸名所図会 四谷大木戸」

 四谷大木戸を行き来する人々と馬々が描かれています。
 石畳の奥が内藤新宿です。
 大木戸石垣の前に4本の「開帳」立札が建っています。

  
 

「江戸切絵図」

 内藤新宿部分の抜粋です。
 「大木戸」「水番玉川御上水」「高札」が見えます。
 宿場は「上町」「仲町」「下町」に分けられています。
 寺は「太宗寺エンマ堂」「三途川老婆正受院」「成覚院」が見えます。

   
 

「絵本江戸土産 四ツ谷大木戸 内藤新宿」

 広重が「四ツ谷大木戸 内藤新宿」を描いています。

  
 

「江戸名所百景 四ツ谷内藤新宿」(広重)

 馬糞が道筋に落ちています。
 「北斎漫画」では馬糞を回収しています。馬の糞も下肥です。
 内藤新宿は甲州街道筋で、馬糞が多く有名でした。
 馬は牛のように反芻しないので繊維分が多く、良い肥料として売れました。
 明治時代は馬車鉄道の馬糞浚いがありました。

    
 

「江戸名所道外尽四十九 内藤志ん宿」(歌川広景 British Museum)

 「名所江戸百景 四ツ谷内藤新宿」のパロディーです。

  
 

「江戸名所百人美女 内藤新宿」(豊国・国久 安政5(1859)年)

 簪を6本も差した飯盛女が描かれていますが、こま絵に内藤新宿が描かれています。
 ここにも馬が見えます。

   
 

「江戸名所百人美女 志ん宿」(豊国・国久 安政5(1859)年)

 御簾紙(みすがみ)を咥えた飯盛女が描かれています。行灯の下に2つの湯呑が見えます。
 こま絵に志ん宿が描かれ四谷大木戸が見えます。ここにも馬が見えます。

   
 

「江戸名所百人美女 四ツ谷」(豊国・国久 安政5(1859)年)

 これから開帳のお参りに出かける母子の身支度の様子が描かれています。
 こま絵は四谷大木戸が描かれています。立札が3本あって「開帳」とあります。
 ここにも馬が見えます。

   


四谷大木戸碑(東京都旧跡) 新宿区四谷4-9 四谷四丁目交差点

 四谷大木戸は、現在の四谷四丁目交差点にありました。
 東京都旧跡に指定されています。
 現在は、四谷四丁目商交会が清掃・美化のボランティア活動を行っているモニュメントのあるミニ庭があります。

   

    

     


水道碑記/四谷大木戸跡碑 新宿区内藤町87 新宿区立四谷区民センター

 四谷四丁目交差点横の新宿区立四谷区民センターは、玉川上水の水番所があった場所で、
 玉川上水の「水道碑記」が建っています。
 その裏には「四谷大木戸跡」の碑があります。
 四谷区民センターの横には、水が流れる空間が作られています。

   

(説明板)
「史跡
 玉川上水水番所跡
   所在地 新宿区内藤町八十七番地
 玉川上水は、多摩川の羽村堰で取水し、四谷大木戸までは開渠で、四谷大木戸から江戸市中へは石樋・木樋といった水道管を地下に埋設して通水した。
 水番所には、水番人一名が置かれ、水門を調節して水量を管理したほか、ごみの除去を行い水質を保持した。当時、水番所構内には次のような高札が立っていた。
 定
 一、此上水道において魚を取水をあび
   ちり芥捨べからず 何にても物あらひ申間敷
   竝両側三間通に在来候並木下草
   其外草刈取申間敷候事
  右之通相背輩あらば可為曲事者也
   元文四巳未年十二月  奉行

 東京都指定有形文化財(古文書)
 水道碑記(すいどうのいしぶみのき)
   指定年月日 昭和五年十二月
 玉川上水開削の由来を記した記念碑で、高さ四六○センチ、幅二三○センチ、上部の篆字は徳川家達、撰文は肝付兼武、書は金井之恭、刻字は井亀泉によるもので、表面に七八○字、裏面に一三○字が陰刻されている。
 碑の表面には明治十八年の年紀が刻まれているが、建立計画中に発起人西座真治が死亡したため、一時中断し、真治の妻の努力により、明治二十八年(一八九五)に完成したものである(裏面銘文)。

 四谷大木戸跡碑
 四谷大木戸碑(この説明板の裏側にある)は、昭和三十四年十一月、地下鉄丸ノ内線の工事で出土した玉川上水の石樋を利用して造られた記念碑である。
 実際の大木戸の位置は、ここより約八○メートル東の四谷四丁目交差点のところで、東京都指定旧跡に指定されている。
  平成二十四年六月  新宿区教育委員会」

  
 

<水道碑記> 東京都文化財

 玉川上水開削の由来を記した記念碑です。
 この場所に玉川上水の水番所があったことを記念して建てられました。
 「水道碑記」は、徳川家達の篆刻です。

    
 

<都旧跡 四谷大木戸跡>

 昭和34(1959)年11月、地下鉄丸ノ内線の工事で出土した玉川上水の石樋を利用して造られた記念碑です。
 下のプレートには寄付者名が刻まれています。

   
 

「玉川上水四谷大木戸周辺模式図」(東京都水道歴史館掲示)

  
 

「名所江戸百景 玉川堤の花」(安政3(1856)年2月 広重)

 玉川上水沿いの桜の名所として知られていた小金井の桜並木にあやかって、内藤新宿が新たな名所を作ろうと、
 安政3年(1856)2月から、天竜寺裏の上水沿いに約75本の桜を植えました。
 しかし、御用木と勝手な看板を建て、これを知った幕府は植えたばかりの桜を撤去しました。このため幻の桜の名所となりました。
 「三月 四谷天竜寺後 上水の端へ桜樹数株を栽う 間もなく廃せられたり」(武江年表)
 原信田実氏『謎解き広重「江戸百」』では、内藤新宿筋から魚屋を含む版元に何らかの働きかけがあったと推理しています。

  


内藤新宿開設三百年記念碑 新宿区内藤町87 新宿区立四谷区民センター

 新宿区立四谷区民センターの入口南の植込みに「内藤新宿開設三百年記念碑」があります。
 内藤新宿開設三百年を記念して、平成10(1998)年の建碑です。
 記念碑の横に「この記念碑や周辺の積み石には信州伊那地方より産出される緑泥片岩が使用されています。」とあり、
 緑色が映える積み石と記念碑です。

   
 

(記念碑と碑文)

「内藤新宿開設三百年記念碑
 元禄十一年(一六九八)六月、浅草阿部川町の名主・高松喜兵衛(後の喜六)らの願いにより、ここから新宿三丁目交差点付近までの約一kmに、新たな宿場として「内藤新宿」が開設された。
 この宿場は、享保三年(一七一八)に一旦廃止されたが、五十四年後に再興されて以降、甲州・青梅両街道が交差する、交通の要衝として、また文化と娯楽の町として繁栄をつづけ、平成十年(一九九八)、開設三百年を迎えることとなった。
 新都心・新宿の出発点となった内藤新宿の歴史と先人の歩みを記念し、ここに記念碑を建立する。
  平成十年十一月  東京都新宿区」

   

 「江戸名所道外尽四十九 内藤志ん宿」(歌川広景)が掲示されています(再掲)。

   


新宿御苑大木戸門 新宿区内藤町11

 新宿御苑は、内藤家の中屋敷だった場所です。上屋敷は神田元鷹匠町、下屋敷は下渋谷村に存在しました。
 新宿御苑の出入口は3か所あり、そのひとつがここ「大木戸門」です。
 「大木戸門」入ってすぐ右手に、昭和2(1927)年に建てられた「大木戸門衛所」があります。

    


新宿ミニ博物館(内藤新宿太宗寺の文化財) 新宿区新宿2-9-2

 太宗寺全体が新宿ミニ博物館として設定されています。
 新宿ミニ博物館は新宿区内に8か所あります。
 中央区は文化財が多いから「まちかど展示館」も29か所と多いです。
 

「内藤新宿太宗寺の文化財
 太宗寺は、慶長年間初頭(1596頃)に僧太宗の開いた草庵を前身とし、のちの信州高遠藩主内藤家の菩提寺として発展した寺院です。
 かつての内藤新宿の仲町に位置し「内藤新宿の閻魔」「しょうづかのばあさん」として江戸庶民に親しまれた閻魔像・奪衣婆像や、江戸の出入口に安置された「江戸六地蔵」のひとつである銅像造地蔵菩薩など、当時の面影をのこす多数の文化財が伝えられています。
 ミニ博物館「内藤新宿太宗寺の文化財」では、太宗寺に伝えらる文化財や、内藤新宿の歴史などを紹介しています。ぜひ、ご覧下さい。
 ※寺務所にて、解説パンフレットを配布しています。」

    
 

<パンフレット>

   
 

「内藤新宿太宗寺の文化財」

  
 

「@ 甲州道中と内藤新宿

内藤新宿の開設
 徳川家康は、江戸に幕府を開いた直後の慶長・元和年間に、五街道(東海道・中仙道・奥州道中・日光道中・甲州道中)の整備を行いました。
 甲州道中(甲州街道)は、慶長9年(1604)頃に整備が行われたもので、江戸から甲府を経て下諏訪で中仙道に合流します。
 この街道の最初の宿場は高井戸(杉並区)でしたが、日本橋を出発して4里8丁(16.6km)もあったため、人馬ともに不便でした。
 そこで浅草阿部川町(現元浅草4丁目)に住む名主喜兵衛(後の高松喜六)は、元禄10年(1698)に同志4名とともに同地を支配する代官細井九左衛門に、ここ太宗寺の南東に宿場を開設するよう願いを出しました。喜兵衛らがなぜ宿場開設を願い出たのか、その理由はわかっていませんが、5人は開設にあたり運上金5,600両を納めることを申し出たのでした(結局全額は納められなかった)。
 この辺りには、文禄3年(1595)に成覚寺・正受院が、慶長元年(1596)頃に太宗寺が創建され、元和2年(1615)頃には四谷大木戸(現四谷四丁目交差点)も開設さ
れました。また寛永2年(1625)頃からは町屋ができ、寛文年間(1661〜72)には「内藤宿」と呼ばれかなりの繁昌をみせていたため、この地を選んだのでしょう。
 さて、この願いは翌元禄11年(1698)6月に許可となり、幕府は宿場開設の用地として、譜代大名内藤家の下屋敷(現新宿御苑)の一部と旗本朝倉氏の屋敷地などを上地してこれにあてました。
 こうして「内藤宿」は、元禄12年(1699)2月に開設のはこびとなり、同年4月には業務を開始しました。喜兵衛らも移り住み、名主などをつとめ町政を担当しました
(高松家の墓は愛染院〔新宿区若葉2-8〕にあり、区指定史跡に指定されている)。

宿場の様子
 「内藤新宿」は東西9町10間余(約999m)、現在の四谷四丁目交差点(四谷大木戸)から伊勢丹(追分と呼ばれ甲州道中と青梅街道の分岐点であった)あたりまで続いていました。
 宿場は大きく三つに分かれ、大木戸側から下町・仲町・上町と呼ばれました。太宗寺の門前は仲町に当り、本陣(大名・公家・幕府役人などが宿泊・休息する施設)や問屋場(次の宿場まで荷を運ぶ馬と人足を取扱う施設。内藤新宿の場合、人足50人・馬50疋と定められていたが、後には共に25ずつとなった)、高札場(法度・掟書・罪人の罪状などを記し周知する立札)がありました。
 「内藤新宿」は、江戸の出入口にあたる4宿(品川・板橋・千住・新宿)のひとつとして繁栄しましたが、それを支えたのが旅籠屋と茶屋でした。
 これらには飯盛女と呼ばれる遊女が置かれましたが、元禄15年(1702)には当時幕府公認の遊興地であった吉原から訴訟が出されるほど繁昌しました(飯盛女の共同墓地
「子供合埋碑」が、成覚寺〔新宿2-15-18〕にあり、区指定有形文化財に指定されている)。

宿場の廃止と明和の立返り
 このように大変な賑わいをみせた「内藤新宿」でしたが、享保3年(1718)には開設後わずか20年にして、宿場は廃止となります。
 これは、利用客の少なさ、旅籠屋の飯盛女がみだりに客を引き入れたこと、旗本内藤新左衛門の弟大八が信濃屋の下男に殴られた事件などが原因といわれますが、八代将軍徳川吉宗の「享保の改革」に伴う風俗統制の影響もあったようです。
 その後、度重なる再興の願いにより、明和9年(1772)に宿場は再興されました。」

  
 

「A 太宗寺の創建と内藤家
 太宗寺は、このあたりに太宗という名の僧侶が建てた草庵「太宗庵」がその前身で、慶長元年(1596)頃にさかのぼると伝えられています。
 太宗は、次第に近在の住民の信仰をあつめ、現在の新宿御苑一帯を下屋敷として拝領していた内藤家の信望も得、寛永6年(1628)内藤家第5代正勝逝去の際には、葬儀一切をとりしきり、墓所もこの地に置くこととなりました。
 これが縁で、寛文8年(1668)6代重頼から寺領7396坪の寄進をうけ起立したのが、現在の太宗寺です。
 内藤家は7代清枚以後は歴代当主や一族が太宗寺に葬られるようになり、現在も墓所が営まれています。
 太宗寺は、元禄15年(1702)・文化2年(1805)の火災や、関東大震災・第2次世界大戦でも大きな被害をうけましたが、歴代住職の尽力により、その都度復興してき
ました。
 また「内藤新宿のお閻魔さん」「しょうづかのばあさん」として親しまれた閻魔大王と奪衣婆の像は、江戸庶民の信仰をあつめ、薮入りには縁日が出て賑わいました。
 現在も、毎年お盆の7月15・16日には、盆踊りと共に閻魔像・奪衣婆像の御開扉、曼荼羅・十王図・涅槃図の公開が行われています。
 なお、寺号「太宗寺」は、壮建時の庵主太宗の名をいただき、山号「霞関山」は、当時四谷大木戸一帯が霞ヶ関と呼ばれていたことに因み、院号「本覚院」は、内藤正勝の法名「本覚院」を拝しています。
 浄土院の寺院です。

B 太宗寺の文化財
 太宗寺には、江戸時代以来の多くの文化財が伝えられています。このうち銅造地蔵菩薩坐像(都指定文化財)、閻魔像・奪衣婆像・内藤正勝の墓・三日月不動像(区指定文化財)、切支丹灯籠(区登録文化財)の6点については、それぞれに説明板を設置してありますがこのほかにもつぎのような文化財があります。

●太宗寺の曼荼羅
 曼荼羅とは、密教の修法のため多くの仏像を一定の形式に基づいて描いた描いた図像をいいます。
 太宗寺には、浄土宗の三大経典(観無量寿経・無量寿経・阿弥陀経)に基づく3幅の曼荼羅が伝えられており、涅槃図・十王図とともに毎年お盆の7月15・16日に本堂
で公開されています。

観無量寿経曼荼羅(大曼荼羅)
〔新宿区指定有形文化財(絵画) 指定年月日 平成2年6月1日〕
 通称「大曼荼羅」と呼ばれるもので、奈良県当麻寺の観無量寿経曼荼羅を同寸大に模写したものです。
 紙に描かれており、総高425cm・全幅408cmの掛軸となっています。画像は縦・横とも386cmで、まわり表装は直接描かれたもの(描表装)です。
 製作年代・作者についてはわかりませんが、江戸時代初期の製作と推定されます。
(以下続く)」

  


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