Discover 江戸旧蹟を歩く
 
 隅田川 新大橋

  ○ 新大橋
  ○ 震災避難記念碑
  ○ 新大橋親柱
  ○ 御船蔵跡     ※別頁
  ○ 旧新大橋跡    ※別頁
  ○ 新大橋橋名板「志ん於ほはし」 ※別頁


新大橋 中央区日本橋浜町2丁目〜江東区新大橋1丁目

 深川芭蕉庵に住んでいた芭蕉は新大橋の工事中
 「初雪や かけかかりたる 橋の上」の句をよみ、また橋の完成をみて
 「ありがたや いただいて踏む 橋の霜」の句を詠みました。

 上流右岸からの新大橋 下流右岸からの新大橋 下流左岸からの新大橋

    

 新大橋から下流の清洲橋方面  東詰の橋名板  東詰の説明板「新大橋」

    

<新大橋橋柱>

 プレートが3種類はめ込まれています。
 「新大橋の由来」「大はしあたけの夕立」「明治四十五年に架けられた新大橋」

    

     

(新大橋の由来)

「新大橋の由来
 新大橋は、元禄6年(一六九三年)十二月七日に現在地よりやや下流に、はじめて木の橋が架けられた。
 両国橋が、万治二年(一六五九年)に架けられて、その当時「大橋」と呼ばれていたので、その下流に新しく架けられたこの橋を「新大橋」と称した。
 その頃、新大橋近くの深川に住んでいた俳人松尾芭蕉は、新大橋架橋を喜んで次の句をよんだ。
  初雪やかけがかりたる橋の上 
  有難やいただいて踏む橋の霜
 以来、新大橋はたびたび架けかえられたが、明治四十五年(一九一二年)七月十九日、現在位置に鉄橋の新大橋が誕生した。
 この鉄の橋は、関東大震災(一九二三年)および太平洋戦争の大空襲(一九四五年)にも耐え、橋上において多くの人の命が助かったため、「人助けの橋」といわれるようになった。
 その鉄橋は、六十有余年の間、道路橋としての使命を十分に果たして、昭和五十二年三月二十七日、現在の橋に架けかえられた。
 なお、その鉄橋の一部は、愛知県犬山市の「明治村」に保存されている。」

  

「名所江戸百景 大はしあたけの夕立」(広重)

 橋柱にはめられているプレートは、広重の浮世絵「大はしあたけの夕立」です。
 新大橋の向岸に幕府の御船蔵が見えます。
 「あたけ」とは「安宅」で、徳川将軍の「安宅丸」が係留されていたことからついた地名です。

  


震災避難記念碑 中央区日本橋浜町2-57-7

 隅田川テラスの壁の向こう側、新大橋の橋詰下に「震災避難記念碑」があります。
 大正12年の大震災では、隅田川の多くの橋が焼け落ちる中、新大橋は大きな損壊もなく、
 橋上に避難した大勢の人々の命を救いました。
 昭和8(1933)年建立の「避難記念碑」「人助けの橋のいわれ碑」「中央区説明板」が歴史を今に伝えています。
 現橋は昭和52(1977)年に架け替えられています。

「避難記念」碑
 昭和8年9月の建立です。巨大な石碑です。

   

「人助け橋のいわれ」碑

(碑文)
「人助け橋のいわれ
 大正十二年(千九百二十三年)九月一日、突如として起こった関東大震災は随所で火災を誘発し、そのため各所で橋が焼け落ち多数の痛ましい犠牲者を出した。しかし幸いにも明治四十五年に建造された新大橋だけは火災からまぬがれ、逃げ惑う一万有余の尊い生命を救い、かつ、遮断された各方面への交通を一手に引き受けて、避難橋としての重責を十分に果たした。そのため、新大橋は多くの人々から「人助け橋」と呼ばれ永く親しまれるようになった。
 なお、当時久松警察署の新大橋西詰派出所に勤務する羽鳥源作、三村光、今給惣克巳、植木機禅、伊藤盛雄、浅見武雄ら各警察官は一致協力して多数の避難者を誘導し、さらに携行してきた荷物を橋詰で適切にさばいて人災の防止と避難路の確保のために活躍されたという。一身を顧りみず沈着勇敢に行動されたその功績は、永く後世に称えられるべきものである。
 (裏面) 東京都建設局  昭和五十二年三月二十七日」

   

    
 

新大橋親柱 江東区新大橋1-2-1(新大橋東詰公園)

(江東区HPより引用)

「新大橋親柱
 明治45年(1912)に、隅田川に架けられた新大橋の親柱です。昭和52年に橋が撤去され、翌年、現在の新大橋が、旧地から約200メートル上流に架けられた際、東詰南側に公園が設けられ、高欄とともに親柱が移設されました。オベリスク様の尖塔部分に取り付けられている電灯の支柱には、アールヌーボー調のデザインが施され、時代の雰囲気を感じることができます。また、こぶ出し仕上げとされた中心部分は、独特なアクセントとなっています。」

<親柱>

 旧新大橋の移設された親柱です。

    

   

<高欄>

 旧新大橋の移設された高欄です。

   
 

御船蔵跡 江東区新大橋1-2-1

 新大橋親柱から、階段を下りると、「御船蔵跡」の石碑がひっそりと建っています。

(標柱文)
「御船蔵跡
 はじめ寛永九年この付近に幕府は軍艦安宅丸を伊豆から回航格納し天和二年にいたって解体したがのちにここを明治時代まで幕府艦船の格納所として使用してきたので御船蔵と称しまたこの付近にあった安宅町という地名は安宅丸の由来から生じたものである
  昭和三十三年十月一日  江東区第十号」

     
 

○「名所江戸百景 大はしあたけの夕立」公衆トイレ外壁 江東区新大橋1-2-1

 新大橋東詰南の公衆トイレ外壁に、広重の浮世絵が描かれています。

(説明板)
「大はしあたけの夕立
 新大橋は元禄六年(一六九三年)五代将軍綱吉の頃 架けられたのが最初である。
 当時、両国橋が大橋と称していたので、この橋を新大橋としたという。
 画題の「大はし」とは新大橋の「あたけ」とは対岸につないであった日本一の木造軍艦安宅丸に由来する地名のことである。」

     
 

○旧新大橋跡 江東区常盤1-6-8
  こちらで記載

○新大橋橋名板「志ん於ほはし」 江東区新大橋3-1-15
  こちらで記載


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