○ 御船蔵
○ 御船蔵跡(墨田区千歳)
○ 御船蔵跡(江東区新大橋)
○ 新大橋一丁目安宅丸由来碑(江東区新大橋)
○ 安宅丸稲荷(江東区新大橋)
江戸川区谷河内
○ 妙泉寺(安宅丸船玉)
一の橋の南から、旧新大橋の手前にかけての一帯に、江戸幕府の艦船を格納する御船蔵がありました。
広大な土地に十四棟の船蔵が並び、巨大な軍船「安宅丸」が船蔵の外に係留されていました。
「安宅丸」は、二代将軍秀忠が大御所時代の寛永8(1631)年に、御船手奉行の向井将監に造船を命じ、
寛永11(1634)年に伊豆の伊東で完成しました。
三代将軍家光は、翌寛永12年に品川沖で試乗したのち、御船蔵に係留されました。
推進力に乏しく、戦闘より移動要塞だったようです。
天和2(1682)年、五代将軍綱吉の時に、安宅丸は解体されました。以後「天地丸」が幕府の最大鑑となります。
御船蔵跡は、明治2(1869)年に市街地に編入され、俗称を継いで深川安宅町とされました。
御船蔵と向かいあっていたのが、御船蔵前町で、御船蔵番人の官宅などがありました。
なお、北条氏が建造し、秀吉が持っていた安宅丸は、家康のものとなり、伊豆の下田に繋留されていたのを家光が江戸に取り寄せました。
新旧2つの安宅丸があったことになります。
「江戸切絵図」
江戸切絵図に見る「御舟蔵」です。
一の橋にある「水戸殿石揚場」南から、旧新大橋手前にあった幕府の籾蔵まで、広大な御船蔵が見えます。
「増補江戸大絵図」(表紙屋市良兵衛 天和2(1682)年)
安宅丸が解体された年の発行で、「あたか丸」が御船蔵の外に繋留されています。
「日本歴史図録 第7輯」(歴史参考図刊行会編)
明治7(1874)年撮影の御船蔵と天地丸の写真です。
「明治初年の御關船」(実写奠都五十年史 大正6年)
御船蔵と上総丸(上)及び国市丸(下)の写真です。
解説「舊幕府御船蔵は深川一の橋南南大川端にあり明治初年之を廃す上は御船蔵と御関船上総丸下は御関船國市丸なり」
「東都隅田川両岸一覧」(鶴岡)
御船蔵部分の抜粋です。一の橋から先に、御船蔵が続きます。
「絵本隅田川両岸一覧」(北斎)
御船蔵が描かれている部分を複数枚繋げています。隅田川右岸の賑わいに対して対照的です。
「江戸名所百人美女 御船蔵前」(豊国・国久 東京都立図書館蔵)
こま絵に、御船蔵が一棟だけですが描かれています。
御船蔵前の隅田川には、猪牙船や屋根船が見えます。
「千代田之御表 大川筋御成」(楊洲周延 明治30年)
楊洲周延は、江戸時代には描けなかった大奥や幕府の行事を描いています。
徳川将軍の隅田川御成を描いています。
漕ぎ手が5人、反対側にも5人で、合計10人でしょう。船尾に交替要員が見えます。
将軍は三階です。
御船蔵跡に説明板があります。ここは御船蔵の北端です。
(説明板)
「江戸の町 御船蔵跡 48
この辺りから新大橋にかけての一帯に江戸幕府の艦船を格納する御船蔵がありました。四千八百九十坪の広大な土地に大小十四棟の船蔵が
並んでいて、巨大な軍船「安宅丸」は船蔵の外に係留されていました。安宅丸の取壊しを機に供養塔が建てられたことから、ここは俗にアタケとも呼ばれ、広重の名所江戸百景「大はしあたけの夕立」にも描かれています。
明暦三年(一六五七)頃の「明暦江戸大絵図」には、すでに御船蔵がほぼ現在の位置にあり、川下の尾張屋敷との間の堀に堂々たる天守を備えた安宅丸が描かれています。
墨田区」
新大橋親柱から、階段を下りると、「御船蔵跡」の石碑がひっそりと建っています。
(石碑文)
「御船蔵跡
はじめ寛永九年この付近に幕府は軍艦安宅丸を伊豆から回航格納し天和二年にいたって解体したがのちにここを明治時代まで幕府艦船の格納所として使用してきたので御船蔵と称しまたこの付近にあった安宅町という地名は安宅丸の由来から生じたものである
昭和三十三年十月一日 江東区第十号」
<「名所江戸百景 大はしあたけの夕立」公衆トイレ外壁> 江東区新大橋1-2-1
新大橋東詰南の公衆トイレ外壁に、広重の浮世絵が描かれています。
(説明板)
「大はしあたけの夕立
新大橋は元禄六年(一六九三年)五代将軍綱吉の頃 架けられたのが最初である。
当時、両国橋が大橋と称していたので、この橋を新大橋としたという。
画題の「大はし」とは新大橋の「あたけ」とは対岸につないであった日本一の木造軍艦安宅丸に由来する地名のことである。」
マンション管理地の新一公園に「新大橋一丁目安宅丸由来碑」があります。
碑陰は新しい安宅丸ではなく、古い安宅丸について記されています。
(碑表)
「新大橋一丁目安宅丸由来
題字 細田隆善 書」
(碑陰)
「新大橋一丁目と安宅丸の由来
新大橋一丁目の町名は住居表示町名変更により昭和四十六年四月一日深川新大橋一丁目を改めたものです。
同町は関東大震災後の区画整理により昭和九年六月十四日 従来の深川安宅町と深川新安宅町の一部を合併してつけられた町名です
新大橋一丁目一帯は江戸時代をとおして幕府の艦船を格納した船蔵のあったところです そのためこの付近は昔から御船蔵と称されてきました ここには幕府最大の巨艦安宅丸がおかれていましたので明治二年七月御船蔵跡一帯の地域を安宅丸の威容をたたえて深川安宅町と称しました また深川新安宅町は隅田川の川添いの浅瀬を埋めたてて明治三十八年八月二十四日この町名をつけたものです 安宅丸は北条氏が造船したものでその動力は四百人の水夫が二百本のオールを交代で漕ぎ米四千石(一万俵)と多くの将兵軍馬を乗せることができる木造船として最大の軍船であったといわれています のちに安宅丸は豊臣秀吉の手に渡りさらに豊臣氏亡後は徳川氏の取得するところとなって伊豆下田港におかれていましたが寛永十年(一六三三)
江戸に回航しこの御船蔵につながれました 延宝七年(一六七九)江戸絵図は安宅丸が画かれています そして巨艦安宅丸は補修管理が困難となり天和二年(一六八二)解体されました 幕末の頃には船蔵に三十八隻の艦船が格納されていましたが明治時代となり一隻は政府に他は払いさげになったと記されています この付近は江戸時代初期から開発され江東区においてもつとも古い町の一つであります
江東史談会 会長 細田隆善記
新一公園開園を記念してこの町の由来を記す
昭和四十八年十月吉日
新大橋一丁目町会 町会長 坂田清」
安宅丸が解体され埋められた地に御船塚が設けられ、その地に祀られたのが安宅丸稲荷です。
現在地は移転先で、個人の庭にあります。外からの目線だと屋根と幟がようやく見えます。
安宅丸の船玉(船の守護神)である安宅丸御玉稲荷大明神が、稲荷堂(八角堂)に祀られています。
(説明板)
「妙泉寺
妙泉寺は日蓮宗の寺院で、常谷山と号します。江戸時代には谷河内村に属しており、千葉県松戸市平賀にある本土寺の末寺でした。開基は名主をつとめていた長左衛門と伝えられ、正善院日喜上人によって寛永十一年(一六三四)に開かれました。弘化三年(一八四六)六月の火災では当寺が所蔵していた多くの記録が焼失し、安政の大地震及び大正六年の水害でも、被害にあいました。本堂は明治十五年に再建し、書院庫裡は昭和四十五年に新築されました。
境内には稲荷堂(八角堂)があり、安宅丸御玉稲荷大明神がまつられています。これは徳川三代将軍家光が建造した御座船・安宅丸に勧請した船玉で、同船が取り払いになった際、当寺がゆずり受けました。船玉とは、船中にまつる守護神のことを言います。
□松浦信正関係資料
(省略)
平成二十四年五月 江戸川区教育委員会」
<松浦信正写経塔>
左から2基目が「松浦信正写経塔」です。
<安宅丸稲荷堂>
稲荷堂ですが、狛犬がいます。手水鉢は、明和7(1770)年銘です。
<木彫り安宅丸>
扉には葵の紋があります。
木彫りの安宅丸と遠景に富士山。安宅丸の船首に竜頭が見えます。