Discover 江戸史蹟散歩
 
 杉山和一ゆかりの寺社(本所千歳/本所立川)

  ○ 江島杉山神社(本所一ツ目弁財天)
  ○ 弥勒寺
  ○ 弥勒寺橋跡
  ○ 五間堀跡


江島杉山神社(本所一ツ目弁財天) 墨田区千歳1-8-2 HP

 杉山流鍼術の始祖、杉山和一総検校が将軍綱吉からの拝領地に江の島弁財天を祀った神社で、
 杉山総検校も併せ祀っています。
 

<江戸切絵図>

 「本所絵図」と「本所深川絵図」を連結しています。「弁財天」が描かれています。

  
 

<江戸名所図会 本所一目 弁財天社 深川八幡御旅所>

 江戸名所図会に、「一の橋」の南袂に、「弁財天社」が描かれています。
 「いわや」の記載が見えます。

   
 

<絵本隅田川両岸一覧 両国納涼 一の橋弁天(北斎)>

 一之橋が見えます。森のあたりがタイトルにある「一の橋弁天」です。

  
 

「東都隅田川両岸一覧 西」(鶴岡蘆水 天明1(1781)年)

 一之橋とともに「一ツ目弁天」が描かれています。

  
 

「大川岸一之橋遠景」(小林清親)

 遠景に一之橋が描かれています。

  
 

「浜丁川岸ヨリ本所一ノ橋」(井上安治)
  
  
 

「江戸の今昔」(歌川広重他 昭和7年)

 江戸の今昔に掲載の一ツ目弁財天です。
 「い王やみち」の石碑が弁天池に見えます。

  
 

<西参道>

    

(説明板)
「江戸の町
 江島杉山神社 47
 鍼術の神様・杉山和一(一六一○〜九四)が五代将軍綱吉から、ここ本所一ツ目に約一万二千平方メートルの土地を拝領し総録屋敷を建て、その西隣に弁才天の一社を建立したのが、江島杉山神社の始まりです、神奈川県藤沢市の江ノ島弁財天と、杉山和一総検校が祀られています。
 和一は、現在の三重県津市の出身で幼いころに失明しましたが、江戸に出て鍼術を学び、江ノ島弁天の岩屋にこもり鍼術の一つである管鍼術を授かりました。その後、京都でも鍼術を学び、再び江戸に戻り鍼の名人として活躍しました。
 この和一の名声を聞いた綱吉は和一を「扶持検校」として召し抱え、日夜自分の治療に当たらせました。  墨田区」

   
 

<南参道>

 南参道から入ってすぐ右手に太鼓橋、左手は「本所一ツ目弁財天」の幟が連なります。

    

    
 

<即明庵>

 杉山検校頌徳碑の左手に「即明庵」の碑があります。
 
 即明庵の来歴が記されています。昭和40年に財団法人杉山検校遺徳顕彰会により建立。
 概要は、杉山和一の霊牌所として即明庵が建てられましたが、
 明治4年、辧財天社地以外没収となり、神佛分離で江島神社と稱することとなりました。
 明治23年に杉山検校の霊牌所即明庵を再興、杉山神社と称します。
 戦災で社殿焼失、昭和27年に検校の霊牌を本社に合祀し江島杉山神社となりました。

    
 

<杉山検校頌徳碑(点字銘文)>

 拝殿に向かって右手に杉山検校頌徳碑があります。
 杉山検校の業績が点字で記されています。

(碑裏)
 「大正十三年東宮御成婚に際し正五位追贈の事あり此碑を営んだが先般の戦火に損壊したので
  今次昭和丗四年会の創立丗週年に当り之を復旧した亦皇太子御成婚の佳歳である
  財団法人杉山検校遺徳顕彰会」

     
 

<杉山和一と総録屋敷>

 顕彰碑の右手に説明板があります。

(説明板)
「杉山和一と総録屋敷
   所在 墨田区千歳一丁目八番二号江島杉山神社内
 ここは江戸時代、関東周辺の琵琶法師や鍼灸師、按摩などの盲人を統括していた総禄屋敷の跡です。
 杉山和一は、慶長十五年(一六一○)、伊勢国安濃津(三重県津市)で生まれました。幼時に失明、はじめ江戸の山瀬検校に鍼灸を師事しましたが、後に京都の鍼師入江豊明に弟子入りしました。
 厳しい修行の後、江ノ島の岩窟で断食祈願を行いました。その満願の明け方、霊夢を通して新しい鍼管術を考案しました。杉山流管鍼術は、鍼を管に入れ、的確にツボを押さえるという画期的なものでした。その後の和一の名声は日増しに高まり、寛文十年(一六七○)検校に任じられました。
 さらに五代将軍綱吉の治療の功で褒美を尋ねられ、和一は目を請いました。綱吉は一ツ目(本所一之橋際の土地)と関東総禄検校職を与えたと伝えられています。時に元禄六年(一六九三)六月のことでした。
 一町四方(約一万二千平方メートル)の土地に総禄屋敷と神社が建てられ、現在の場所には鍼治講習所もありました。現在の神社の名は、土地の拝領者と厚い信仰をささげた江ノ島弁財天を意味します。社殿の南側には江ノ島の岩窟を模した洞窟があります。
  平成十八年八月  墨田区教育委員会」

  
 

<二の鳥居〜手水舎>

 「江島杉山神社 由緒」が鳥居の脇にあります。

(説明板)
「江島杉山神社由緒  墨田区千歳一ー八ー二
当社は神奈川県藤沢市江島神社の弁財天を奉斎し、またその弁財天を深く信仰した杉山和一を併せ祀る。
杉山和一(慶長十五<一六一〇>年?元禄七<一六九四>年)は三重県津市の武家の生まれで幼い頃失明し、身を立てるために鍼術を志す。江戸の山瀬琢一入門し修行に励む中、江島弁財天の岩屋にて七日七夜の参籠をした。
業が明けた日外に出ると大きな石に躓いてしまうが何か手に刺さる物があり探ってみると、筒の様にくるまった枯葉(スダジイ)の中に一本の松葉が入っていた。
「いくら細い鍼でも管に入れて使えば盲人の私にも容易く打つ事が出来る」
こうして、現在鍼治療の主流である管鍼術が生まれた。躓いた石は「福石」として、本社江島神社の境内に祀られている。この後より深く鍼治を学ぶため京都の入江豊明の元へ入門する。そして江戸で治療所を開くと、その噂は瞬く間に広がった。同時に多くの弟子を輩出し、世界初の盲人教育の場、職業の確立を進めた。寛文十(一六七〇)年一月、和一は六一歳にして検校の位を受けた。その名声により五代将軍徳川綱吉の医師として務めるようになる。
元禄五(一六九二)年五月九日将軍より総検校に任ぜられる。和一が八三歳の時、綱吉公の難病を治療した功により「何か望みの物はないか」との問いに「唯一つ、目が欲しゅうございます」と答え、ここ本所一ツ目に総録屋敷の領地を賜わり更に和一が高齢になっても月参りを欠かさなかった江ノ島弁財天が屋敷内に勧請された。翌年には壮麗な社殿が建立、本所一ツ目弁天社と呼ばれ江戸名所となり、多くの信仰を集めた。元禄七(一六九四)年五月十八日八四歳没。明治四年当道座組織が廃止され総録屋敷も没収されつが、当社は綱吉公が古跡並の扱いとしたため残され、社名も江島神社となる。明治二三年四月杉山和一霊牌所即明庵も再興し、境内に杉山神社を創祀。震災、戦災により二つの社殿とも焼失するが戦後昭和二七年合祀し、江島杉山神社となる。」

    

   
 

<社殿>

 「本所一つ目弁天社
  江島杉山神社
   御祭神
    市杵島比売命(弁財天)
    杉山和一総検校
   御利益
    福徳円満
    芸能上達
    学業成就
    鍼灸按摩術上達」

   
 

<杉山流鍼治稽古所>

  
 

<弁天池>

    
 

<銭洗弁財天>

 「銭洗」と「美玉洗」があります。
 弁財天像は、平成26年12月と新しいものです。

     

   
 

<力石>

 太鼓橋の下、岩屋道の入口に力石があります。
 墨田区内に37個ある力石のうち最も重い力石で、重量が93貫(348.75キロ)あります。

(説明板)
「力石
 力石は墨田区内に三十七個あるが、一番古いものは牛島神社の享保十五年(一七三○)であるが最も重いものは此力石で重量九十三貫(三四八、七五キロ)もあり江戸中頃より末期頃迄の庶民の最も手輕なスポーツ、レジャーとして力比べに使はれたものと云ふ。  上智大学伊藤教授資料より」

    
 

<岩屋>

(掲示)
 「相州江ノ島の洞窟を模して寛政五年に造られた」
  宗像三神
    田紀理比売命
    市杵島比売命
    多紀津比売命
  杉山和一総検校
  宇賀神(人頭蛇尾)」

  
 

<いわやみち>

 岩屋までの「いわやみち」です。寛政8年の石碑があります。

 「い王やみち
   寛政八丙辰歳
   五月己巳日」

    

   
 

<八橋城秀検校二百五十回忌記念碑>

 「いわやみち」石碑の左奥にあります。
 「昭和十年山田流筝曲協会」の建碑です。

  
 

<惣禄加藤検校役中>

 岩屋洞窟内右側面に石刻、寛政5年10月とあります。
 「惣禄加藤検校役中」

   
 

<岩屋重修記>

(石板刻)
「岩屋重修記
 當社は相州江之島江島神社の御分社にして元禄六年六月十八日五代将軍綱吉公の台命にて総検校杉山和一大人創建せり 御本社に於ける信仰の根源は御霊窟なる奥宮にあり 当社亦之に模して岩屋を築き寛政五年十月修理し安政・大正両大震災にも被害なく昭和に至れり 然るに同二十年三月戦火の劫火には天井の石に亀裂を生じ遂に壊れ落つ 茲に於て旧状を損せず 鉄筋コンクリートにて補強し山を高く植樹を選びて風致を増し古蹟を復元す 又池は竪川より隅田川に通じ江ノ島の海辺に連なりてゆかり深く魚鱗閃きしが今は川水汚染してその面影なく是亦昔に返さんと改修せり 依ってその由来を覆うべく之を撰す
  昭和三十九甲辰十一月十八日
    江島杉山神社宮司 三木常正
           石井玉泉謹書」

  
 

<杉山検校石像>

 岩屋内正面に祀られています。

    
 

<宗像三姉妹像>

 岩屋内右手に祀られています。

(説明文)
「宗像三姉妹像
 神代記 古事記 新撰姓氏録 延喜式 神明記
  右、多紀理比売命
  中、市寸嶋比売命
  左、多岐都比売命
 弁才天が主尊として祀られるようになったのは平安時代頃からと推定され、本地垂迹説による神仏混淆で日本古来の神を習合してからのようである。本来宇宙神ではなく水と土の神という観念が強いから、民衆との親しみは深く希いを託し易い存在の神として人気がある。特に農業神・海上神・施福学問・音楽・弁舌等に霊験あり、又土地の鎮主とし、地主神として祀られている」

    
 

<宇賀神>

 岩屋内左手に祀られています。

(説明文)
「宇賀神
ウガは、ウカ、ウケ等食物を表す語で、日本古来の穀霊信仰に根ざした食物神であり神道の宇迦之御魂神(稲荷神)と同一神といわれる。音楽・学問・弁舌・福徳と幅広いご利益がある 弁財天と習合したのは、農耕に深く関係する
水神信仰によるものである。弁財天の使いが白蛇といわれることから宇賀神の姿が人頭蛇身になった。」

     
 

○杉多稲荷神社

 社殿右奥に「杉多稲荷神社」があります。

    

    
 

○宝井其角句碑

 杉多稲荷神社の右手、狛犬の後ろに「宝井其角句碑」があります。
 句碑は上部が欠け、真ん中で折れたのを修復されています。
 左隣に元禄9年7月20日奉納の石碑がありますが、其角句碑と関連があるのかは不詳。
 上部が欠けているので、この句が掲載されている『炭俵』から引用します。

 「ほとゝきす 一二の橋の 夜明かな 其角」

     


万徳山弥勒寺 墨田区立川1-4-13

 この地は、元は竪川町と称しましたが、
 1966(昭和41)年に、「竪」の字が当用漢字にないため、立川と改称されています。
 

<江戸名所図会 本所 弥勒寺>

 江戸名所図会の時代よりも、現在の寺地はかなり狭くなっています。

  
 

<山門>

  
 

<石標>

 正面「贈正五位杉山総検校墓所 指定史跡」
 側面「はり供養塔所在地
    東京 総拳校杉山先生第二百五十年記念記念会」

   
 

<筆塚>

  
 

<観音聖像>

 東京大空襲の受難者を慰霊しています。

    
 

<本堂>

 山号の万徳山の扁額が掲げられています。

   
 

<杉山和一墓> 東京都旧跡

 杉山和一の墓が弥勒寺にあります。

    

(説明板)
「杉山和一墓
  所在地 墨田区立川一丁目四番一三号 弥勒寺内
  指 定 昭和一八年五月
 江戸時代の鍼医。慶長一五年(一六一○)伊勢に生まれ名は和一といい、父は藤堂家の家臣。幼くして失明し、江戸に出て鍼術を検校山瀬琢一に学んだ。江ノ島弁天祠に詣でて断食祈願を行い、杉山流管鍼術を創案した。さらに京都の入江豊明について鍼術を学び、その道の奥義を窮めた。
 貞享二年(一六八五)、五代将軍綱吉の病を治療して厚く賞され、のちに禄五百石を賜り、さらに三百石を加えられた。元禄五年(一六九二)関東総検校に任ぜられ、本所一ツ目に方一町(約一万二千平方メートル)の宅地を与えられた。和一はここに鍼治講習所と弁天堂を建立したほか、諸国に講堂を建てて多くの門人を育てた。著書には『療治之大概集』『選鍼三要集』『医学節要集』等がある。元禄七年(一六九四)五月一八日、八五歳で没した。
  平成二○年十二月 設置  東京都教育委員会」

  
 

<墓石>

 「総検校 和一」と刻まれています。

   
 

  現在の墓石は新しく、国立国会図書館デジタルコレクションでさがした
 「埋木の花」に所載の「杉山検校」の墓石です。

  
 

<はり供養塔>

 左に「はり供養塔」があり、由来記は右手前にあります。

 「医療はり供養塔建立由来記」
  昭和53年5月16日 はり供養塔建立委員会一同 (財)杉山検校遺徳顕彰会

   
 

<杉山検校遺徳顕彰会碑>

 「杉山検校遺徳顕彰会碑」
 昭和34(1959)年5月、杉山検校遺徳顕彰会による建立です。

  


弥勒寺橋跡 江東区森下1-18

 墨田区千歳と江東区森下の境の江東区側に、説明板「弥勒寺橋跡」が設置されています。

   

 
<江戸名所図会 本所 弥勒寺>

 弥勒寺の前に「竪川二の橋通り」と注記があります。現在の清澄通りです。
 直角に曲がる五間堀川に「弥勒寺橋」(注記)が架かっています
 
   
 

<江戸切絵図>

 「六間堀」「五間堀」「弥勒寺ハシ」「彌勒寺」が見えます。
 「六間堀」は、竪川と小名木川を結んでおり、「五間堀」は「六間堀」から分かれた堀です。
 江戸切絵図に描かれている弥勒寺は、弥勒寺橋の北詰にありますが、
 現在はかなり寺地が狭くなっていて、五間堀公園のもっと北に本堂があります。

  
 

<弥勒寺橋跡>

(説明板)
「弥勒寺橋跡
 弥勒寺橋は六間堀からわかれる五間堀にかけられていた橋です。この橋の初見は寛文一一年(一六七一)の江戸図で、江戸時代前期には、すでに架橋されていたことがわかります。
 弥勒寺橋という名称は、橋の北東に真言宗弥勒寺があったことに由来します。しかし、弥勒寺は、元禄二年(一六八九)に本所へ移ってきたので、弥勒寺橋と呼ばれるようになったのはそれ以降のことと考えられます。
 五間堀は、昭和一一年(一九三六)・昭和三○年の二度の埋め立て許可により、全て埋め立てられ、その後弥勒寺橋も廃橋となりました。
  平成十二年八月  江東区」

  


五間堀跡 江東区森下2-30-7 五間堀公園

 五間堀公園は五間堀跡に造られた公園です。
 公園の中央が江東区と墨田区との境界となっています。
 令和5(2023)年1月下旬までの改修工事が終わっています。

     

   

 開園当時(昭和17年)の五間堀公園(説明板より抜粋)
  
 

<五間堀跡>

(説明板)
「江東区登録史跡 五間堀跡
   江東区森下一−一七−三−一三
 五間堀は小名木川と堅川を結ぶ六間堀からわかれる入堀です。五間堀という名称は川幅が五間(約九m)であるところから付けられ、六間堀とともに江戸時代から重要な水路でした。
 五間堀の初見は寛文一一年(一六七一)の江戸図で、六間堀とともに記載されており、五間堀が開削された時期は、明暦の大火(一六五七)によって付近一帯の再開発がなされた万治年間(一六五八〜六○)ころか、それ以前と考えられます。
 五間堀は江戸時代には富川町(森下三)までで堀留となっていましたが、明治八年(一八七五)、付近の地主であった元尾張藩主徳川義宜により掘りすすめられ、明治一○年(一八七七)ころに小名木川まで貫通しました。
 昭和一一年(一九三六)・昭和三○年の二度の埋め立てにより、現在、五間堀は全て埋め立てられています。
  平成一二年三月  江東区教育委員会」

  
 

「江戸切絵図」

 説明板に掲示部分の抜粋です。

  


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