Discover 江戸旧蹟を歩く
 
 南大塚 東福寺


○東福寺 豊島区南大塚1-26-10

<すがも史跡まっぷ(抜粋)>

 東福寺周辺部分の抜粋です。
 巣鴨村に大塚駅が設けられ、巣鴨の中心地だった巣鴨本村は、
 現在は、大塚駅をはさんで豊島区北大塚、南大塚となっています。

  

「江戸切絵図」

 「東福寺」とその周辺です。
 「大塚波切不動ヨリ巣鴨庚申塚ヘ行道へ出ル」の記載があり、
 巣鴨庚申塚には「大塚波切不動道」と記されています。

   

<大塚三業通り>

 大塚三業通りに「東福寺 日本文化会館」の大きな案内板があります。
 電柱名にも「三業」の名前が残っています。

    

 東福寺の石段上の山門から三業通り方向を見たところです。

  

【石段両脇】
 石段の両脇に石碑が並んでいます。

   

<札所碑>

(正面)
 「第六十四番
  御府内八十八ヶ所 弘法大師霊場
  東福寺」
 (現在、御府内64番は台東区谷中の「加納院」となっています。)

(左側面)
 「三十三番 真性寺
  明治三十五年三月吉日」

(右側面)
 「右 八十七番 護国寺」

    

庚申塔道標>

(正面)
 「(庚申/剥離)塔
  右 大塚道
  向 巣鴨監獄道
  左 巣鴨庚申塚道」

  「歩いて見ました東京の街」に掲載されている庚申塔道標の写真は損壊しておらず庚申塔の文字が読み取れます。
  東日本大震災で倒壊して損壊したのでしょうか?
  「巣鴨監獄」の名称が道標に残っています。
  「巣鴨庚申塚道」は、江戸切絵図では「大塚波切不動道」と記されています。

(左側面)
 「東福寺道」

(右側面)
 「明治三捨七年七月建之」

     

<疫牛供養塔>

 明治中期から終戦まで、巣鴨には多くの牧場がありました。
 明治43(1910)年に牛乳搾取業組合巣鴨支部による建立です。

 「明治四十三年七月十六日
  疫牛供養塔
  牛乳搾取業組合巣鴨支部志之」

  

<その他>

    

<山門脇の説明板>

 山門脇に豊島区教育委員会の説明板があります。

(説明板)
「東福寺
 真言宗豊山派に属し、観光山と号す。創建の年代は明らかでないが、永禄五年(一五六二)に良賢和尚が中興したと伝えられている。初め小石川大塚にあったが、元禄四年(一六九一)に当地へ移ってきた。本尊は十一面観世音菩薩であり、ほかに薬師如来がある。
 山門前石段の左右には、道標の役割をも兼ねる明治三十七年庚申塔、明治四十三年の疫牛供養塔などがあり、境内には山門脇に十羅刹女神を祀る堂がある。これは江戸時代、現在の天祖神社の地に祀られ、巣鴨の総鎮守であった。しかし、明治の神仏分離令によって十羅刹女神は福蔵寺の所有となり、その後、福蔵寺が火災で焼失し東福寺に合併したので、東福寺のものとなった。これは昭和三十年まで天祖神社に隣接した場所に置かれていたが、同年東福寺の境内に移された。
 墓地には守山藩(陸奥田村郡)の儒学者戸崎淡園の墓があり、甲冑帯刀した武士が床几に腰をおろした像を刻んだ遅塚九二八の碑もある。
  昭和五十七年一月  東京都豊島区教育委員会」

   

【参道】

 山門は閉じられているので、脇の参道から境内へ向かいます。
 途中、日本文化会館があります。

     

<二宮金次郎像など>

 石段の右手に二宮金次郎像があります。
 左手に何だかわからない石造物があります。
 他寄付石碑など。

    

<弘法大師修行像>

   

奉献石燈籠>

 大塚(巣鴨本村)に地主として住んでいた山口家による令和3(2021)年に寄進された奉献石燈籠です。
 最樹院殿は、一橋徳川家第二代当主の徳川治済です。
 八代将軍徳川吉宗の孫で、十一代将軍徳川家斉の実父に当たります。

 「奉献石燈籠両座
  武州東叡山
  最樹院殿 尊前
  文政十丁亥年二月廿日
  濱松侍従水野越前守源忠邦」

     

(説明板)
「この灯籠は最樹院(一橋徳川家二代治済公)の為に、文政十年(一八二七)、浜松藩主水野忠邦が献上した灯籠である。
(途中略)
  令和三年吉日 山口家」

 寛永寺は、戦後、寛永寺再建寄付の返礼などで、奉献石燈籠を寺院や個人に払い下げているので、
 山口家は寛永寺の再建にも協力したのでしょうね。当寺では、十羅刹女奉安殿を建立しています。

  

 浜松藩主水野忠邦は、石燈籠を二基奉献しており、
 もう一基が延命寺(足立区竹の塚)にあります(こちらで記載

   

<本堂>

    

<宝篋印塔>

  

<百度石道>

 百度石は多く見ましたが、百度石道は初見です。参道の敷石でしょうか。

    

<しあわせ地蔵尊>

 平成3(1991)年4月の建立です。

    

十羅刹女堂>

 十羅刹女堂は、江戸時代には神明社(現・大塚天祖神社)にありましたが、
 明治維新の神仏分離令により隣接する福蔵寺へと移され、福蔵寺が明治7(1874)年の火災で焼失したため、東福寺の管理となりました。
 福蔵寺の旧地に置かれていましたが、昭和30(1955)年に東福寺境内に移動、安置されました。

   

(発願文)
 鬼子母神と十羅刹女神を祀る十羅刹女奉安殿は、発願主山口萬一、貴美子により昭和42(1967)年に建立されています。
 山口氏は、大塚(巣鴨本村)の地主の山口家の十二代目当主で、十四代目が奉献石燈籠を寄進しています。

  

<石柱「旧鎮守十羅刹女神」>

 文化2(1805)年の建立。
 (正面) 「舊 鎮守十羅刹女神」
 (左側面)「文化二乙丑年秋九月/八歳金太書」
 (右側面)「別当瑠璃山福蔵寺」

   

<如意輪観音像>

 左右に信女の文字があり、墓石のようです。

  

<鬼子母神と十羅刹女神>

   

「江戸名所図会 十羅刹女堂」

 神明社(現在の大塚天祖神社)が十羅刹女堂として描かれています。
 右にあるのは別当の福蔵寺です。
 大根の収穫が細かく描かれています。

  

 大根畑で大根を抜いている人と、収穫した大根を天秤担いで運んでいる人が見えます。
 大根を洗っている人と、キセル煙草を吸って休憩している人が見えます。
 馬に大根を載せて運んでいる人が見えます。

    


【墓地】

<馬頭観音>

 馬頭観音供養塔が二基あります。
 右、万治元(1860)年と、左、大正6(1917)年銘です。

  

 「馬頭観世菩薩」
 「万延元庚申年」
 「七月十四日」

  

 「馬頭観世音」
 「大正六年四月建之」
  真っ二つに折れた修復跡があります。

   

<笠付角柱型庚申塔>

 寛文11(1671)年銘の庚申塔です。
 (正面中央)
  「如我昔所願今者已満足 右庚申供養二世安樂也」
 (正面右)
  「寛文十一年辛亥二月中旬」

  

<廻国六十六部供養塔>

 六地蔵と、正徳5(1715)年8月銘の廻国六十六部供養塔です。

     

<念仏供養塔>

 寛保2(1742)年7月銘、寛政10(1798)年8月再建。

     


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