Discover 江戸旧蹟を歩く
 
 新宿駅東口駅前広場

  ○ 新宿東口の猫
  ○ 馬水槽(新宿区文化財)
  ○ みらいおん
  ○ 西條八十記念碑


○新宿駅東口駅前広場 新宿区新宿3-38

 東京都水道歴史館に馬水槽の模型が展示されていたので、実物を見に行きました。
 倫敦から東京市に寄贈された馬水槽ですが、現在の所有者は「東日本旅客鉄道株式会社」となっているので、
 保存されていた淀橋浄水場の廃止で、国鉄に寄贈したのでしょうね。

新宿東口の猫>

 一番目立っているのが、クロス新宿ビジョンの「新宿東口の猫」です。

   
 

馬水槽> 新宿区文化財

 中島鋭治(1858〜1925)が、明治34(1901)年から翌年にかけてヨーロッパを視察した際に、ロンドン市飲水泉及牛馬給水層協会から東京市に寄贈されたものです。
 明治39(1906)年に東京府庁舎(現東京国際フォーラム)向かいに設置されました。
 大正7(1918)年には麹町の東京市水道局守護門前に移されましたが、大震災と第二次世界大戦で破損したため、
 昭和32(1957)年に淀橋浄水場(昭和40(1965)年廃止:現新宿副都心地区)に移して保存されていました。
 昭和39(1964)年9月に新宿駅東口ステーションビル(現ルミネエスト)が完成した際に、
 一般公募により、モニュメント「みんなの泉」と改称されて、現在の場所に設置されました。
 文化財の登録名は馬水槽となっています。(東京都水道歴史館には模造品展示

    

 正面の大きな水槽は馬用で、獅子頭の蛇口から給水されます。
 水槽の下には犬猫用の小さな水槽があり、反対側には人間用の水飲み場が設けられています。

     

「倫敦水槽協會寄贈」

  

(碑文)
「みんなの泉
 この塔は、明治三十九年ロンドン水槽協会から東京市 に贈られたもので、上部が馬、下部が犬、猫、裏側が人間の水飲場となっておりますが、元来動物愛護の目的で造られたものです。当時東京市役所前に置かれ、その後淀橋浄水場に移され、今回更に、新宿民衆駅完成を記念してこの場に移設されました。ロンドン近郊には今なおこの種のものが残っており市民に親しまれております。
 このたび、みんなの泉と命名され、この地に永久に残ることになりました。
 昭和三十九年九月」

  

(標柱)
「新宿区指定有形文化財(工芸品)
 馬水槽
 昭和六十一年六月六日指定
 十九世紀のイギリスで、当時主要な交通手段であった馬に水を供給するために市街に設置された。正面の大きな水槽が馬の水飲み、その下の小さな水槽は犬や猫のための水飲みである。また反対側には人のために水飲みもある。ロンドン水槽協会から東京市が寄贈を受けたもので、明治三十九年(一九○六)に当時の東京市役所(現在の東京国際フォーラム)前に設置され、昭和三十九年(一九六四)九月に現在地に新宿駅東口ステーションビル(現ルミネエスト)が完成した際に、モニュメント「みんなの泉」として現在の場所に移設された。交通運搬や都市水道発展の歴史を物語る文化財である。」

   

(説明板)
「みんなの泉」の由来
東京の上水道育ての親、中島鋭司博士が明治34年から欧米諸国を視察した際、ロンドン水槽協会から東京市に寄贈されたもので、現在では世界に3つしかない貴重なものである。大理石製で上部は馬、下部が犬猫、裏面が人間用と、動物愛護の精神が息づいており、明治から大正にかけては当時の重要交通機関であった馬がよく利用していた。昭和39年の新宿民衆駅完成を記念して現在の場所に移転 その際「馬水槽」と呼ばれていたものを一般より公募した「みんなの泉」と改称され、現在では新宿区の文化財に指定されている。
  新宿ライオンズクラブ」
(※文中、中島鋭司は、正しくは中島鋭治です。)

   
 

みらいおん>

 東京新宿ライオンズクラブが設置するライオン像です。
 台石
  「愛称『みらいおん』」
  「心の絆・ライオンひろば」とあります。

     

 「みらいおんの口に
  紙幣や硬貨を
  募金投入していただきますと
  吠えて御礼申し上げます」

  
 

 (参考)ピラミッド前にいる「みらいおん」は、「ピラミッド元氣温泉」を思い浮かべてしまいます。

  
 

西條八十記念碑>

 西条八十詩碑「伸びゆく新宿」があります。
 昭和41(1966)年6月、新宿ライオンズクラブの寄附で造られました。
 「芽」を形どったブロンズ像が立ち、台石に西条八十「伸びゆく新宿」の詩が刻まれています。

 「武蔵野なりしこの里の
  昔のすがた偲ばせて
  小畦の花のむれと咲く
  ビルのネオンの赤き花
       西条 八十」

    
 

「西条八十 (1892〜1970)
東京で生まれ、早稲田大学英文科を卒業後、白秋らの新詩社で、象徴主義詩を数多く発表する。繊細巧緻で神秘的な作風が詩の特徴である。大正末からは歌謡曲の作詞にも才能をあらわし、「東京音頭」、「王将」などで人々に広く親しまれた。
  新宿ライオンズクラブ」

  

(参考)
 不忍池に「かなりや歌碑」があります。こちらで記載。 


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