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 光茶釜と将軍吉宗


○光茶釜と将軍吉宗 足立区文化財 足立区千住5丁目(千住新橋下荒川河川敷)

 千住宿と梅田村との境界の用水路に架かる茶屋石橋の傍らに「爺が茶屋」と呼ばれていた松風庵がありました。
 参考ですが、用水路の付け替え工事の経緯を漢文で記した「千住新渠碑」(明治38(1905)年3月)が大川氷川神社に現存しています(こちらで記載)。

 元文5(1740)年10月八代将軍徳川吉宗が千住で4回目の鷹狩を行い、この茶屋で休息をとりました。
 鏡のように磨き上げられた茶釜を見た吉宗は、手入れが行き届いていることを誉め、翌年再び松風庵を訪れ、
 「名をのこす 爺の茶釜や てるかがみ」という句を短冊に認め主人に与えたと伝えられています。

 これが江戸中で評判となり、将軍と同じお茶が飲めると大勢の人が訪れるようになりました。
 この茶釜は「光茶釜」と呼ばれるようになり、傍らの橋も「茶釜橋」と呼ばれ、江戸の名所の一つとなりました。
 文人墨客も多く見学に訪れ、句や歌を詠んで寄せ書きにした「松風庵揮毫帖」も残されています(足立区文化財)。

 江戸の名所だった茶屋等にはアイドルがいました。
 谷中の茶屋「鍵屋」のお仙(こちらで記載)、浅草奥山の楊枝店「柳屋」のお藤(こちらで記載)、浅草寺の茶屋「蔦屋」のおよしです。
 江戸名所図会では、この茶屋は、爺がお茶を運んでいる姿が描かれています。
 アイドルは爺でも、将軍と同じお茶が飲めることで名所となりました。
 

「光茶釜」(足立区立郷土博物館蔵)

 光茶釜を所有していた石原家から寄託を受け、現在は足立区立郷土博物館が所蔵し現存しています。
 経年劣化で光っていないし、一部に穴が開いているそうですが、
 江戸名所図会に描かれた光茶釜が現存しているのは素晴らしい。

(足立区立郷土博物館解説)
「茶屋・松風庵を営んだ千住五丁目に伝来しました。江戸名所図会には徳川吉宗が上覧し賞賛したという故事が記されています。茶屋の名前は松風庵でしたが「爺ヶ茶屋」の呼称が一般的でした。明治時代にも存続し、付近に「茶釜橋」という名前の橋もありました。現在は千住新橋南詰付近の荒川河川敷となっています。」

  
 

「千住新橋南詰付近の荒川河川敷」(千住馬車鉄道) 足立区千住5丁目

 「爺が茶屋」と茶釜橋があった場所は、現在は千住新橋南詰付近の荒川河川敷となっています。
 明治26(1893)年に、千住茶釜橋を起点とし大沢(現越谷市)まで、千住馬車鉄道が開業しました。
 その後、粕壁(現春日部市)まで鉄道は延伸されましたが、営業不振により明治30(1897)年6月に全線廃業しました。
 明治31(1898)年11月に草加馬車鉄道が継承しましたが、当時建設中だった東武鉄道の工事従事者が多く利用したものの
 東武鉄道の開業に伴い明治33(1900)年2月に廃止となっています。

  
 

「千住図会抜粋 光茶銚」

 掃部宿憩いのプチテラスに掲示されている千住図会から光茶銚部分の抜粋です。
 日光街道を横切る用水路の脇に「光茶銚」が見えます。
 「徳川吉宗が鷹狩の時ここでご休憩になり、この茶屋の茶釜をほめたので光茶釜と呼ばれ、
  後世まで名誉にしました。今日の千住新橋の下あたりに当ります。」

  
 

「江戸名所図会 光茶銚」

 光茶釜は、江戸の名所の一つとなり、江戸名所図会に描かれています。

 挿絵には、「千住の駅はなれ道の左側にあり 土人は耆老(ぢぢ)茶屋とも呼あへり むかし此店の茶銚の光沢の殊に勝たりしを重き御感賞にあづかりしより此茶銚竟名物となりて其名さへ世に光こととはなりぬ」とあります。

 挿絵は光茶銚で茶湯をわかす耆老茶屋(じじがちゃや)の様子を描いています。
 柿が実り、すすきの穂が垂れ下がっているので、季節は秋です。
 煙草を吸っている旅人に、看板娘ならぬ爺がお茶を運んでいます。二人連れの猿回しの前の男は背中に猿をおんぶしています。
 縁台の左後ろには青面金剛の文字と三猿が刻まれた庚申塔が建っています。どこかに移設されているのか消失しているのか気になります。

    


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