○ 房楊枝
○ 浅草寺境内の楊枝店
○ 楊枝店の様子
○ 柳屋お藤(銀杏娘)
○ 楊枝店と納鶏
江戸時代の楊枝とは、現代の妻楊枝ではなく、歯磨き用の房楊枝です。
柳などの枝を切り、その先端を煮て柔らかくして木槌や鉄鎚で叩いて繊維を出し、ブラシ状にしたものです。
ブラシの反対側の柄の先端部は尖らせて、歯間の汚れをとりました。
柄の曲がった部分は舌の汚れを落とす舌こきとして使われました。
楊枝店の棚に並ぶ房楊枝
「風俗三十二相 めがさめさう」(芳年)
江戸時代の歯磨きが描かれています。
「百面相 歯みがき」(小林清親 明治16年)
房楊枝は明治時代に入っても使われ続けました。
現在の「歯ブラシ」が登場したのは大正3(1914)年に発売された「萬歳歯刷子」(現在のライオン株式会社)です。
浅草寺の境内には、数多くの楊枝店が出店していました。
「江戸名所図会 金龍山浅草寺 其三及び其四の抜粋」
其三及び其四の抜粋です。仁王門からの参道と、随身門からの参道の両側に楊枝店がびっしりと並んでいます。
それぞれの参道には「両かはやふじや」と書かれています。
「東都名所 浅草金竜山」(広重)
江戸名所図会と同じ場所の抜粋です。楊枝店が並んでいます。
「江戸名所 浅草金龍山境内の図」(広重 都立図書館蔵)
観音堂から随身門を見たところで、楊枝店が並んでいます。
「江戸名所図会 金龍山浅草寺 其四の抜粋」
其四の抜粋です。観音堂の裏も楊枝店が多くありました。
イチョウの大木があり「この辺りやうじ見世おほし」と記されています(赤丸)。
大木と石燈籠も見えるので、「江戸名所図会 楊枝店」はこの場所を描いたと思われます。
浅草観音堂の裏、イチョウの木の下の看板娘のお藤の楊枝店「柳屋」は、黄丸か赤丸の店辺りと思われます。
イチョウの木の下には楊枝店の間に「番屋」もあり、
刺股、突棒、袖搦の捕り物三つ道具が立てかけられています。
「東都名所 浅草金竜山」(広重)
江戸名所図会と同じ場所の抜粋です。楊枝店が並んでいます。
捕り物三つ道具が立てかけられた番屋も見えます。
「江戸名所図会 楊枝店」
楊枝店で接客しているのはいずれも看板娘です。
絵入りで酒水花の看板もかかっています。
いずれの楊枝店も「柳屋」の屋号を使っていました。
挿絵には
「境内楊枝を鬻ぐ店甚多し
柳屋と称するものをもて本源とす
されど今は其家号を唱ふるもの多く
竟に此の地の名産とはなれり
僧祇律に楊枝に五ツの利あることを載て云く
一に苦からず
二に臭からず
三に風を除き
四に熱を去り
五に痰をのぞく」
とあります。
「絵本時世粧 浅草寺楊枝店」(豊国)
楊枝店の前には、イチョウの木が描かれています。
看板には「かん木 御楊枝所 名代 根元 やなぎや」とあります。
絵入りの「酒中花」の看板も見えます。
「やうじやの娘」は、丸太の台の上で、木槌で柳の枝を叩いて房楊枝をつくっています。
飾りだけの看板娘ではなく、職人でもあります。
作業途中なのか出来あがったのか、房楊枝が床にまとめられています。
「絵本吾妻の花 楊枝店」(北尾重政)
看板には「御匂ひふし やなぎや」とあり、商品と屋号が記されています。
「江戸時代境内と奥山の賑わい」
浅草寺の仲見世の参道に、「江戸時代境内と奥山の賑わい」が掲示され、楊枝店が描かれています。
「職人尽絵詞 楊枝屋」(鍬形恵斎)
様々な職人が描かれている中、楊枝屋も掲載されています。
房楊枝などが棚に陳列され、その上には絵入りの「酒中花」の看板が見えます。
石臼が見えます。石臼でお歯黒に使う五倍子(ふしこ)を挽いて粉にして売ります。
「酒中花(盃中花:水中花)」
山吹の茎の髄などで花、鳥等を細工し、中皿に水や酒を入れ、その中にこれを浮かべると
自然に開いて花や鳥、舟が現れます。浅草寺境内の楊枝店売られ、酒中花はお土産として評判でした。
明和の三美人といわれる三人は、谷中の笠森稲荷境内の水茶屋「鍵屋」のお仙、浅草奥山の楊枝店「柳屋」のお藤、浅草寺の二十軒茶屋の一つ「蔦屋」のおよしです。
お藤は、楊枝店「柳屋」がイチョウの木の下にあったので、銀杏娘とも呼ばれ、浮世絵にも描かれて大評判となりました。
「なんぼ笠森おせんでもいてう娘にかなやしよまいどうりでかぼちゃが唐茄子だ」という小唄が江戸に流行しました。
(笠森お仙はこちらで記載)
「売飴土平伝」(大田南畝)
付録として「阿仙阿藤優劣の弁」が挿絵とともに掲載されています。
「笠森お仙」が本柳屋に近づいてきています。
店に座るのが「銀杏お藤」です。お藤の前には石臼があります。
店先の看板には「源氏 にほひふし 仁平治」、店奥の看板には「楊枝
本柳屋」「酒中花」とあります。
「柳屋お藤」(一筆齊文調 ボストン美術館蔵)
看板に「かんぼく 御楊枝 やなき屋」とあります。「酒中花」の額が掛かっています。
石燈籠は熊野権現あるいは十社権現のものと思われます。床には石臼が置かれています。
お藤は前掛けを付けていて、石臼での五倍子挽きの作業休憩なのでしょう。
お藤は鶏を抱き、足元にも鶏がいます。
「一筆齊文調畫 柳屋お藤」(一筆齊文調 国立国会図書館蔵)
<川柳>
楊枝店は川柳に多く詠まれています。
老いも若きも武士も楊枝店のアイドルに会いに行きます。
お藤の柳屋に競って、他の柳屋(楊枝店は皆「柳屋」の屋号を使っていた)も看板娘を置きました。
年がいった女性が売り手だと、川柳にあるようにひんしゅくをかいました。
浅草の楊枝店が看板娘の発祥の地と思われます。
「焚付にするほど楊枝浅黄買」
「用事がないのに用事をつくり今日も朝から二度三度」
「かたまつた禿の中に楊枝店」
「年も顧みず楊枝をばばアうり」
「江戸名所図会 楊枝店」の挿絵には、楊枝店の屋根の上と、イチョウの枝に鶏がいます。
楊枝店の端の二三軒は鶏の餌を売る店がありました。
浅草寺境内は、鶏が歩き回り、夜はイチョウの枝にとまって寝ていました。
年の市で大衆が群集する二日間は、居場所がなく屋根の上や木の枝にいました。
川柳にも鶏が詠われています。
「楊枝見世はし二三軒鶏の番」
「楊枝屋はとんだ遠くで豆を売」
「驚かぬ鶏ハ群衆の中を行」
「豆どこか屋根をまごつく市二日」
<大鷲神社から浅草寺へ納鶏>
「江戸名所図会 鷲大明神祭」に鶏小屋への鶏の奉納が描かれ(大鷲神社では放し飼いはせず鶏小屋で飼っていた)、
「此日近郷の農民庭鶏を献ず。祭終るの後、悉く浅草寺観音の堂前に放つを旧例とす。」とあります。東都歳事記にも同様の記載があります。
鷲大明神祭社では、酉の市に鶏を奉納して祭が終わると浅草寺観音堂の前に放つ習慣がありました。露店でも奉納用の鶏を売っていました。
また、江戸の人々は卵を産まなくなった鶏を浅草寺の境内に放しに行きました。
(参考)大鷲神社については、こちらで記載
「江戸名所の内 浅草金竜山」(国芳)
鳩と鶏が豆を食べています。
鶏の後ろの店は女性が木槌で楊枝を叩いているので楊枝店でしょう。
「東京名所四十八景 浅草観世音雪中」(昇斎一景 明治2年 都立図書館蔵)
雪なので、市の混雑時と同様に地上に居場所なく、夜ではありませんが鶏はイチョウの木の枝にいます。
五重塔が仁王門の左手に見え、観音堂からイチョウの木越しに仁王門を見た光景です。
主役は雪の中の観音堂のイチョウと鶏なので、仁王門の裏を描くという珍しい構図かと思います。