斎藤茂吉は、明治29(1896)年8月に上京し(14歳)、浅草区東三筋町斎藤紀一方に寄寓しました。
長崎医専の教授をしていた時に、三筋町を懐かしんで詠んだ歌の碑が、三筋老人福祉館と三筋保育園の中庭にあります。
歌碑は昭和50(1975)年12月の建立です。
「浅草の三筋町なるおもひでもうたかたの如や過ぎゆく光の如や 茂吉」
(説明板)
「斎藤茂吉の歌碑 台東区三筋二丁目十六番四号
浅草の三筋町なるおもひでもうたかたの
如や過ぎゆく光の如や 茂吉
斉藤茂吉は、明治・大正・昭和にわたり、日本近代文学史上に偉大なる足跡を残したアララギ派の歌人で、医学者でもあった。
山形県に生れ、明治二十九年、十五歳のときに上京、浅草区東三筋町五十四番地、養父斉藤紀一方に寄寓し、開成中学・一高・東京大学医学部を経て、長崎医学専門学校教授となり、更に文部省在外研究員として欧州に研鑚し、その後、青山脳病院長となり、作歌の傍ら、研究・評論・随筆など独自の業績をあげ、その著「柿本人麿」にて学士院賞を、次いで昭和二十六年文化勲章を授与され、昭和二十八年二月二十五日、七十年九か月の生涯を終えた。
因みにこの三筋町は、茂吉が、第二の故郷として、夢多き少年時代を過し、生涯懐しんだところで、短歌は、長崎在住のときに当時を回想し、詠んだものである。
平成三十年三月 台東区教育委員会」
○旧町名由来案内 台東区三筋2-16-8 台東区立三筋二丁目児童遊園
台東区立三筋保育園の裏に、台東区立三筋二丁目児童遊園があり、旧町名由来案内が設置されています。
<旧町名由来案内 浅草三筋町一・二丁目>
(説明板)
「旧町名由来案内 下町まちしるべ
旧 浅草三筋町一丁目・二丁目
この地は、江戸期より書院番組屋敷地、大番組屋敷地および武家屋敷地であった。明治維新後、江戸期の武家地は整理されて市街地に組み入れられていった。その過程の中で、町名三筋の誕生は、明治五年(一八七二)八月であった。
昭和十六年(一九四一)、浅草三筋町一・二丁目は誕生した。一丁目は浅草栄久町南側半分、西三筋町、同東三筋町、同南富坂町西一部、同南元町西一部を合した。二丁目は浅草栄久町の南側一部と同北三筋町の大部分を中心に、同森下町西一部を合わせた。
三筋町の名は、幕府下級官吏の屋敷町で、そこに三筋の道があったことにちなむとも、三筋の組屋敷があったからともいう。
本町には、アララギ派の歌人で歌学者、医者として有名な文化勲章受章者の斎藤茂吉が住んでいた。その茂吉が長崎医専の教授をしていた時に、三筋町をなつかしんで詠んだ歌で「浅草の三筋町なるおもひでもうたかたの如や過ぎゆく光の如や」の文学記念碑が三筋二丁目にある。 台東区」