Discover 江戸史蹟散歩
 
 足立区中川

 ○ 西光院
 ○ 浅田長右衛門の墓
 ○ 大谷田氷川神社


西光院 足立区中川3-21-20

 浅田長右衛門が長右衛門新田を開発し、彼が開基となって開いたのが西光寺と伝えられます。

<札所碑>

 「新四國八十八ヶ所 西新井組 第十番
  是ヨリ十一番(破損)」

   

(説明板)
「西光院(さいこういん)
 本寺は、慶長年間(一五九六〜一六一五)に長右衛門新田(現中川1〜3丁目付近)を開発した浅田長右衛門が開基し、教栄法印によって開山されたと伝えられている。
 本堂には、本尊阿弥陀如来のほか、約二○○年ほど前に田の中から発掘されたと伝わる、自然木に観世音菩薩を半肉彫りした田光り観音(足立区登録文化財)が安置されている。
 寺宝としては、仏涅槃図・地蔵十王図・十三仏図・不動明王図(伝弘法大師筆)・刷袈裟版木(足立区登録文化財)、大般若経六百巻・釈迦十六善神図等を所蔵している。
 境内には桜樹多く、俗に桜寺ともよばれ、虚空蔵菩薩・子育地蔵・六地蔵・宝篋印塔・庚申塔(享保十七年銘 足立区登録文化財)などの石造物がみられる。
 墓地には、浅田長右衛門の墓(足立区登録文化財)が浅田氏一族の墓に囲まれるように立っている。また、江戸時代の墓碑が多いことも当寺の特色の一つである。
  平成二十年三月  足立区教育委員会」

  
 

<田光り観音> 足立区文化財

 説明板に出てくる「田光り観音」の写真入り説明パネルが古隅田川跡に掲示されています(こちらで記載)。

(説明板)
「田光り観音
 田光り観音は足立区中川三丁目西光院にあり、自然木の中央に、約1mの長さで浮彫りにされた聖観音像で12年に1回牛年に大法要が営まれている。
 今から約百数十年前、長右衛門新田5丁目耕地(現大谷田三丁目)で、作男が馬を使って耕作していると、馬がある場所まで来て必ず止まってしまう。不思議に思ってそのところを掘り返すと、中から大きな自然木がでて来た。その時は、気もとめず畦道によけて家に帰った。それから毎晩、作男の夢枕に観音様が立ち、その姿が自然木に似ていることから、田に行ってこれを洗ってみると、夢の観音様と同じであった。驚いてその旨を主人に告げ西光院に安置したと言う。この木像は足立区登録有形民俗文化財である。」

   
 

<子育て地蔵菩薩/庚申塔>

 子育て地蔵菩薩の脇に、
 享保17(1732)年銘の庚申塔(足立区文化財)が建っています。

   
 

<虚空蔵菩薩>

 虚空蔵菩薩の大石像です。

  
 

<宝篋印塔>

  
 

<十三重石塔>

  
 

<六地蔵>

  
 

<お砂ふみ>

   
 

<南無大師遍照金剛>

   
 

<弘法大師御遠忌碑>

   
 

<本堂>

   


浅田長右衛門の墓 足立区文化財 足立区中川2-13

<浅田長右衛門と長右衛門新田>

 浅田長右衛門が開発したのが長右衛門新田です。
 浅田長右衛門は永禄6(1563)年、武蔵国埼玉郡与野村に生まれ岩槻城主の高力清長に仕えましたが、
 慶長の初めごろにこの地に移り住んだと伝わります。

  
 

<浅田長右衛門の墓> 足立区文化財

 「浅田長右衛門の墓」(足立区文化財)は、西光院から道を隔てた墓地にあります。

     

(説明板抜粋)
「浅田長右衛門の墓
 足立区中川一〜三丁目一帯は、江戸時代には長右衛門新田と呼ばれた。地名は開発者である浅田長右衛門に由来する。
(中略)
 ここに聳える五輪塔二基は、浅田長右衛門夫妻の墓塔である。向かって右が長右衛門の墓で、地輪正面には「月秀院宗清居士 当村開基浅田長右衛門事 慶安
元戊子年四月二十一日」と刻まれている。(後略)
  平成二十七年三月  足立区教育委員会」

  

 慶安元(1648)年4月20日に亡くなった浅田長右衛門(法名「月秀院宗清居士」)の五輪塔の墓です。
 左は妻の墓です。

 「当村開基
  慶安元戊子年
  月秀院宗清居士
  四月二十一日
  浅田長右衛門事」

    



大谷田氷川神社 足立区中川5-7-10

 同社は現在の住所地名「中川」にありますが、元は大谷田村であったことから「大谷田氷川神社」と呼ばれます。
 大谷田村の上組、中組、下組にあった三社を、明治維新後にまとめて1社にしたのが、現在の氷川神社です。
 大谷田氷川神社は通称「浪人氷川」ともいい、足立区の新田開発が、浪人によって進められたことを今に伝えています。
 

<大谷田新田>

 大谷田新田(足立区大谷田・中川)は河合平内(こちらで記載)によって開発されました。

  

「大谷田新田宛伊奈忠治開発定書」(元和2(1616)年 足立区立郷土博物館所蔵) 足立区文化財
 伊奈忠治が河合平内に発給した大谷田新田宛の開発定書です。
 新田開発の入植者を、五つの条件を示して募っています。

  
 

<大谷田氷川神社>

   

 氷川神社は、中川の畔にあります。中川上流に飯塚橋、下流に中川橋梁(常磐線)。

   
 

<保存樹木>

(説明板)
「足立区指定第209〜212号
 保存樹木 けやき・いちょう
 昭和20年頃までは「飯塚の渡し」を背に桜のトンネルと氷川神社の杜が、中川の川面を競って映し出し見事なものだった。時は過ぎ、桜は枯れ川は濁り全ては変わってしまったが、樹木達だけは残っている。」

    
 

<手水鉢>

 大谷田村の上組、中組、下組にあった三社が、明治維新後にまとめて1社にしたのが、現在の氷川神社です。
 このため手水鉢が複数あるものと思われます。

 天保9年(1836)年銘の手水鉢

   

 天保13年(1842)年銘の手水鉢

   
 

<祭具庫>

  
 

<奉祝皇紀二千六百年>

  
 

<辞世句碑>

 文化2(1805)年銘の辞世句碑です。詳細不詳。

 「吉村順庵藤原○○
  行年七十九卒」

   
 

<狛犬>

 文久2(1862)年銘の狛犬です。
 願主に当村の他、「新吉原町 願主金子」の文字が見えます。
 新吉原江戸町一丁目に金子、新吉原京町二丁目に金子屋がありましたがどうですかね。
 新吉原江戸町や新吉原京町ではなく新吉原町とあるのが気になります。
 よく見ると「新吉源町」とも見えます。読みがどこか間違っているかも。

     
 

<拝殿/本殿>

     
 

<境内社>

 「不詳の祠」「三峯神社」「氷川大明神」「稲荷大明神」「水神宮」

  

      


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