○ 庚申供養塔三基 足立区文化財
○ 河合平内の墓 足立区文化財
○ 河合平内と新田開発
八か村落し親水緑道の煉瓦調タイル塀の向こう側に円性寺があります。
荒川辺八十八ヶ所霊場54番札所、荒綾八十八ヵ所霊場36番札所です。
2022年5月から、庫裏客殿新築工事中です。
(説明板)
「円性寺(えんしょうじ)
当山の開基は、存秀和尚(元和元年・一六一五没)である。その後、幾度かの変遷を経て現在の本堂は、昭和五十七年に再建された。
当寺の墓地には、江戸時代初期に北三谷新田(現東和一〜二丁目付近及び東綾瀬一〜三丁目付近)等を開拓した河合平内の墓(足立区登録文化財)と伝えられる宝篋印塔がある。法名はないが、年代は伝承に相当し、地域開発の先駆者の墓として、歴史的価値のたかいものである。河合平内は北三谷新田の名主で、肝煎(世話人)として多くの新田開発にあたり、慶長十九年(一六一四)代官伊奈半十郎忠治から開発定書(足立区立郷土博物館所蔵)が与えられている。
境内には、寛文四年(一六六四)銘・元禄四年(一六九一)銘・宝暦九年(一七五九)銘の庚申塔がある(いずれも足立区登録文化財)。特に、寛文四年銘の庚申塔は、青面金剛が庚申塔の主尊として彫刻された初期のものであり、区内における古い例として注目される。
平成二十年三月 足立区教育委員会」
<三界万霊>
<地蔵堂>
<愛染明王堂>
<弘法大師修行像>
「荒綾八十八霊場 第三十六番札所」
<坂東西國秩父百番供養塔>
文化3(1806)年
・青面金剛庚申塔(足立区文化財)
寛文6(1666)年銘。珍しい一猿一鶏です。
・宝暦9(1759)年銘庚申塔(足立区文化財)
・元禄4(1691)年銘庚申塔(足立区文化財)
(説明板)
「青面金剛庚申塔
庚申塔は庚申信仰をする庚申講の人々によって造立された塔である。
庚申とは、十干の庚と十二支の申とが結びついた六十日に1回廻ってくる日や年のことを指す。
庚申の日には、人間の体内にいる三尸という虫が睡眠中に抜け出て天帝に罪過を告げるため寿命が縮むという説が中国の道教にあり、これが日本に伝わり信仰された。庚申の夜には眠らずに過ごす守庚申に、礼拝本尊や宗教儀礼が組み込まれた庚申待が室町時代の中頃から行われるようになり、江戸時代に入ると一般的にも浸透し、各地に庚申講が結成され、供養のための庚申塔が多数造立されるようになった。庚申塔の形態、様式は多様であり、文字塔の他、「青面金剛」「帝釈天」など種々の神仏を主尊とする。
なかでも、青面金剛を刻像するものは圧倒的に多数であり分布域も広い。青面金剛像が造立されるのは、承応期以降(一六五五年以後)であり、背面に寛文六年(一六六六)の刻銘を持つこの塔は、最も初期のものとして注目される。塔型は笠付角柱型で、正面上段に六臂青面金剛、下段には猿と鶏を刻んでいる。
昭和六十年十一月、足立区有形民俗文化財に登録された。
平成七年三月 東京都足立区教育委員会」
墓地の中ほどに河合家の墓所があり、そこに河合平内の墓である宝篋印塔があります。
(掲示)
「足立区登録有形文化財(歴史史料)
慶長元和期江戸時代初期の新田開発者
伝・河合平内の墓
平成十四年十二月
足立区教育委員会」
宝篋印塔(河合平内の墓)
河合家由来墓誌(河合平内の軌跡と河合家について記されています。
当代とある河合平内は平成7年から8年まで足立区議会議長を務めました。)
最初は大きなこちらの宝篋印塔かと勘違いしました。
河合平内は、
・大谷田新田(足立区大谷田・中川)
・普賢寺・北三谷新田(足立区東和・綾瀬・東綾瀬)
・六木新田(足立区六木)
・千住榎木新田(位地未詳)、を開発しました。
外からの移住者が中心であった新田開発人の中で、珍しく室町時代辺りからこの地にいた一族のようです。
足立区立郷土博物館掲示より抜粋加工
「普賢寺北三谷新田宛伊奈忠治開発定書」(慶長19(1614)年 足立区立郷土博物館所蔵)
伊奈忠治が発給した開発定書の一つで、新田開発の入植者を五つの条件を示して募っています。
宛所の「川井平内」は開発人、河合平内のことです。
「大谷田新田宛伊奈忠治開発定書」(元和2(1616)年 足立区立郷土博物館所蔵)
伊奈忠治が発給した開発定書の一つで、新田開発の入植者を、五つの条件を示して募っています。
宛所の「平内」は開発人、河合平内のことです。
「伊奈忠治印判状写(河合平内宛)」(元和5(1619)年 足立区立郷土博物館所蔵)
新田開発人の河合平内に対し、新田開発をすすめたことについて「御忠節」と位置づけ、
「御褒美」として田畑屋敷地2町歩を与えるとしています。