Discover 江戸旧蹟を歩く
 
 中橋広小路

  ○ 中橋広小路
  ○ 江戸歌舞伎発祥之地


中橋広小路 中央区京橋1-1・1-7

 日本橋三丁目交差点は、江戸時代には東海道の盛り場として栄えた「中橋広小路」でした。
 「小川」「環菊」という大山詣りの待合茶屋は特に賑わいました。
 江戸名所図会や広重の狂歌江都名所図会に描かれています。
 八重洲通りの中央分離帯に「ヤン・ヨーステン記念碑」(こちらで記載)がありますが、中橋広小路の痕跡は特にありません。
 

<紅葉川>

 紅葉川は、慶長17年(1612)江戸城造営のための資材搬入のため、外濠から楓川の久安橋に通じる運河として開削されました。
 東海道(現在の中央通り)の日本橋と京橋の中間にあたる交点には、中橋が架かっていました。
 正保年間(1644〜1648年)に、紅葉川の西半分を埋め立て、橋を撤去して中橋広小路ができました。
 安永3(1774)年に、残る東側が埋め立てられました。
 紅葉川の川筋は、現在の八重洲通りに当ります。
 

「江戸名所図会 中橋」(国立国会図書館蔵)

 江戸名所図会が発行された時には、紅葉川は完全に埋め立てられており、
 賑わう「中橋広小路」が描かれています。
 右下に見える木戸から上へ現在の中央通り、左右が現在の八重洲通りです。
 左の茶屋には「かんきく」、右の茶屋には「小川」の看板が掲げられています。
 「環菊」と「小川」は、大山詣りの待合場所として賑わいました。

    
 

「狂歌江都名所図会 中橋」(広重 国立国会図書館蔵)

 巻頭目次には、「中橋 広小路 小川環菊 待合茶屋 通四丁目 海苔問屋上州屋」とあります。
 待合茶屋の「小川」「環菊」と、海苔問屋「上州屋」の挿絵の拡大です。
 木戸の手前が京橋方面で、木戸の向こう側が日本橋方面です。

   
 

【江戸図に見る紅葉川の変遷】

「武州豊嶋郡江戸庄図」(寛永9(1632)年 都立図書館蔵)

 日本橋(日本橋川)、中橋(紅葉川)、京橋(京橋川)の記載部分の抜粋です。
 まだ埋立てられていない紅葉川が描かれています。
 上部が外濠で、下部が楓川です。

  
 

「江戸方角安見圖鑑」(延宝8(1680)年 国立国会図書館蔵)

 紅葉川は、西側が埋め立てられて中橋広小路となっていますが、東側の紅葉側は残っています。
 中橋広小路から京橋にいたるまで東海道の両側が南伝馬町一丁目〜三丁目です。

   
 

「江戸切絵図」(嘉永2(1849)年)

 日本橋〜中橋〜京橋の抜粋です。
 「通一丁目〜四丁目」「中橋広小路」「南伝馬町一丁目〜三丁目」の記載があります。
 赤○が「中橋広小路」の記載です。
 紅葉川は、安永3(1774)年に、残る東側の楓川の久安橋まで埋め立てられています。

  
 

「江戸切絵図 歌川広重終焉の地」 中央区京橋1-9-7 全国信用組合会館 こちらで記載

 歌川広重は、嘉永2(1849)年から安政5(1858)年に亡くなるまでのおよそ10年間を大鋸町の二階建の家屋で過ごしました。
 ビル建て替え前は、説明板「歌川広重住居跡」があったようですが、現在は、何もありません。
 隣には、幕府の御用絵師である狩野四家(鍛冶橋・木挽町・中橋・浜町)の宗家である中橋狩野家がありました(墓地が本門寺にあります)。

 広重の遺言には「住居を売り払って借金を返済すること」とあり、
 「死んでゆく 地ごくの沙汰はともかくも あとのしまつが 金しだいなれ」と締めくくっています。
 活躍していても借金を返せなかったのが意外な印象を受けます。

  
 

「東京市及接続郡部地籍地図」(東京市区調査会 大正1年 国立国会図書館蔵)

 京橋区地図から、中橋広小路町部分の抜粋です。
 東京市電の停留所「中橋広小路」が見えます。
 中橋広小路町は、昭和6(1931)年に京橋一丁目に編入され消滅しました。

  


江戸歌舞伎発祥之地 中央区京橋3-4

 碑文には、歌舞伎発祥の地は中橋南とされています。

(碑文)
「史蹟 江戸歌舞伎発祥之地
 大谷竹次郎 題」
「寛永元年二月十五日元祖猿若中村勘三郎中橋南地と言える此地に猿若中村座の芝居櫓を上ぐ これ江戸歌舞伎の濫觴也 茲に史跡を按し斯石を鎮め国劇歌舞伎発祥の地として永く記念す
  昭和三十一年七月 建立 江戸歌舞伎旧史保存會」(右に英文もあり)

   
 

 中央区立京橋図書館郷土資料室では、楓川の久安橋の東側としています。(こちら

(参考)
 「江戸名所図屏風」(八重洲地下街掲示)

   


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