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 陸奥宗光

  天保15年7月7日〜明治30年8月24日(1844年8月20日〜1897年8月24日)
  父は和歌山藩士。海援隊に参加。維新後外国事務局御用掛、兵庫・神奈川県等知事、大蔵省租税頭、
  元老院議官を歴任。明治11(1878)年、政府転覆を企図した土佐立志社事件に関与し免官、5年間入獄。
  出獄後欧米を歴訪し、帰国後外務省入省。明治21(1888)年駐米全権公使に就任。
  明治23(1890)年第1回衆院選で当選。第1次山県、第1次松方各内閣の農商務相、第2次伊藤内閣の外相を歴任。
  明治27(1894)年、日英通商航海条約に調印。

 【千代田区】
  ○ 陸奥宗光銅像 ※別ページ

 【台東区】
  ○ 旧陸奥宗光邸

 【江東区】
  ○ 陸奥宗光邸跡 ※別ページ

     
  「近世名士写真 其2」(近世名士写真頒布会 昭和10年 国立国会図書館蔵)と「陸奥宗光像」(外務省)


○旧陸奥宗光邸 台東区根岸3-7-15

 台東区根岸に「旧陸奥宗光邸」があります。

     

(説明板)

「西宮邸(陸奥宗光邸)と「ちりめん本」
▼陸奥宗光とその家族が住んだ屋敷
 明治期の外務大臣として日清戦争の講和条約締結や欧米列強との条約改正など日本の外交史上に大きな足跡を残した陸奥宗光(一八四四〜一八九七)の最後の住まいは、現在の西ケ原の旧古河庭園です。
 しかしそんな華々しいスポットライトが当たる前の雌伏時代に、宗光はこの邸宅に住んでいました。
 陸奥宗光は、西南戦争時に反政府的な行動をとったとして禁錮五年の刑をうけ、一八八三(明治十六)年一月に出獄したあと、同年九月に「一邸地を獲得した」のがこの邸宅です。まだここ根岸が、東京府北豊島郡金杉村という地名で、上野の山の下を鉄道が開通したばかりのころです。
 一八八四(明治十七)年四月から一八八六(明治十九)年二月まで宗光はロンドンに留学しますが、その留守中、後年「鹿鳴館の華」と称される妻の亮子と子供たちがこの家に暮らしました。そして宗光は留学から帰国して一八八七(明治二十)年四月に六本木に転居するまでここで過ごしました。
 この建物は住宅建築として建てられた洋館の現存例としては都内で最も古いもののひとつです。もともとは現存の洋館に和風(内部は洋式)の建物が付属した接客部と、母屋に付属した離れと土蔵二つを持つ生活部とからなる和様館並列型住宅でした。現存する洋館部分はコロニアル様式で建築されており、正面側の一、二階に大きな開口が連続して配置され、各部屋には暖炉が備えつけてあります。陸奥家とのかかわりという点からいうと、玄関を入るとすぐ階段があり、その階段の手摺の親柱には陸奥家の家紋である「逆さ牡丹」が彫刻されています。
 一八八八(明治二十一)年、宗光は借金返済と息子・廣吉のロンドン留学費用の捻出のため、この家を売却します。
 その後一九○七(明治四十一)年ごろ、「ちりめん本」を出版していた長谷川武次郎が、自らの住まいと社屋(長谷川弘文社)として買い取ります。
 長谷川弘文社による出版事業は、大正、昭和と引き継がれました。現在も、この家には長谷川武次郎のご子孫の西宮氏ご家族がお住まいです。建物内への立ち入りはできません。静かに敷地外部からご見学ください。
  根岸子規会」
▼「ちりめん本」と長谷川竹次郎
 (略)
 二○一七年三月 掲示:根岸子規会(地域の皆さんのご寄付により掲示しました)
  敷地内への立ち入りはできません。静かに敷地外部からご見学ください。」

   

  


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