Discover 江戸旧蹟を歩く
 
 日光御成道 向丘

  ○ 追分一里塚跡
  ○ 将軍御成道岩槻街道
  ○ 旧町名案内「旧駒込追分町」
  ○ 駒込大観音(光源寺) 別頁
  ○ 「猫の家」(夏目漱石旧居跡)&森鴎外居所跡 別頁


追分一里塚跡 文京区史跡 文京区向丘1-1-17

 「中山道」と「日光御成道」(岩槻街道)の追分に設置されている、説明板「追分一里塚跡」です。
 中山道の最初の一里塚があったといわれています。

    

(説明板)
「追分一里塚跡(区指定史跡) 文京区向丘1-1
 一里塚は、江戸時代、日本橋を起点として街道筋に1里(約4km)ごとに設けられた塚である。駄賃の目安、道程の目印、休息の場として、旅人に多くの便宜を与えてきた。
 ここは、日光御成道(旧岩槻街道)との分かれ道で、中山道の最初の一里塚があった。18世紀中ごろまで、榎が植えられていた。度々の災害と道路の拡張によって、昔の面影をとどめるものはない。分かれ道にあるので、追分一里塚とも呼ばれてきた。
 ここにある高崎屋は、江戸時代から続く酒店で、両替商も兼ね「現金安売り」で繁盛した。
  文京区教育委員会 平成7年3月」
「中山道文間延絵図」

   

「塞の大神碑」(根津神社) こちらで記載

 根津神社の「塞の大神碑」は、元は追分一里塚にあったものです。
 一里塚には榎が植えられていましたが明和3(1766)年に焼け、その跡に庚申塔がおかれましたが、これも文政7(1824)年の火災で欠損しました。
 その跡地に、この塞の大神碑が、明治6(1873)年に建てらました。明治43(1910)年に道路の拡幅のため、碑は根津神社に移されました。
 塞の神は邪霊の侵入を防ぐ神であり、道行く人を災難から守る神で、みちのかみとも道祖神ともいわれます。(説明板より要約)

   

○高崎屋 文京区向丘1-1-17

 「SINCE 1751」とあります。創業273年を迎えている酒屋です。

   


将軍御成道岩槻街道 文京区向丘1-1-14

 「追分一里塚跡」から北へ50mほど進むと説明板「将軍御成道 岩槻街道」が設置されています。

   

(説明板)
「将軍御成道 岩槻街道
 この街道は、江戸のころ将軍が日光東照宮にお参りする時に通る道であることから“将軍御成道”といわれ、重要な道路の一つであった。人形のまち・岩槻に通じている道で“岩槻街道”という。現在の東京大学農学部前の本郷追分で、旧中山道とわかれ、駒込へと直進し、王子、岩渕を経て荒川を渡り、岩槻へと向かう。
 将軍は、江戸城を発ち、岩槻に一泊し、さらに、古河城、宇都宮城に泊って日光に入ったといわれている。将軍がこの街道を通る時の警備は厳重で、沿道に住む人達は、大そう不自由なおもいもしたという逸話が残っている。現在の名は“本郷通り”である。
  東京都文京区教育委員会 平成元年3月」

  


○旧町名案内「旧駒込追分町」 文京区向丘1-2-2

 「文京区立第六中学校」の建物の壁に旧町名案内と追分尋常小学校跡の説明板ほかが掲げられています。

  

<旧町名案内「旧駒込追分町」>

(説明板)
「旧町名案内 旧駒込追分町 (昭和40年までの町名)
 むかしは駒込村に属した。元和4年(1618)御小人中間の町屋敷となった。そして中山道と岩槻街道(日光将軍御成道)との分かれる所なので、追分町と名づけられた。
 東大農学部前の両街道の分岐点(追分)に、宝暦年間(1751〜63)創業の高崎屋があるが、その前に一里塚があった。一里塚(日本橋から約4キロメートル)には榎が植えられ、旅人の道のりと駄賃の目安となった。
 明治2年、三ツ家町、正行寺門前を合併し、同5年旧幕府大番組屋敷、先手組屋敷跡など併せた。文京区」

   

<追分尋常小学校跡>

(説明板)
「追分尋常小学校跡
 追分尋常小学校は、当地(旧駒込追分町45番地)に明治37年(1904)1月に開校した小学校である。開校当時の児童数は108名、二学級を編成し授業を開始した。 同38年4月、高等科を設置したが、同41年4月、学令改制により高等科を分離した。
 昭和8年(1933)9月には、追分尋常小学校と当時隣接していた本郷高等小学校(明治43年に湯島から移転)の二校が併設された、最新の建築様式による鉄筋コンクリート3階建ての校舎が落成した。これは、東京市が関東大震災後の不燃化計画推進の一環として建設したものである。
 昭和16年4月、国民学校令により追分尋常小学校は追分国民学校となった。同19年、戦時下の男性教員の不足を補うために東京第二師範女子部が創設され、当地の校舎が女子部の校舎として提供された。
 昭和20年4月、追分国民学校は国に移管され、東京第二師範女子部附属国民学校となり、尋常科と高等科が併設された。同22年4月、尋常科は、東京第二師範附属小学校となり、同26年4月に、東京学芸大学附属追分小学校と改名された。
 昭和22年に新設された第六中学校は、誠之小学校や指ヶ谷小学校等に分散し授業を実施していた。同27年からは、当地の校舎の一部を使用していたが、同29年に統合。同36年、東京学芸大学附属追分小学校は閉校となり、第六中学校が当地の校舎の全面使用を開始した。
  文京区教育委員会 平成26年5月」

  

<東京学芸大学附属追分小学校・中学校 発祥の地>

(説明板)
「東京学芸大学附属追分小学校・中学校 発祥の地
太平洋戦争中(1941〜45年)、日本は多くの男性教師を戦場で失い、教員の養成が国家的急務になった。そのため終戦も間近な1945年4月、追分国民学校は国に移管され、女子師範学校の拡充に併せて教育実習のための附属校として開設された。その必要は戦後も続き、1947年の六三制施行にともない高等科を廃し附属追分中学校が開設され、また、1951年に師範学校が東京学芸大学となるのに伴い同学附属となり、ほかさまざまな経緯があったのち、1954年に附属追分中学校が附属竹早中学校に、1961年に附属追分小学校が同豊島校と共に附属小金井小学校に、それぞれ合併移校を完了し、校舎は文京区に戻り、この地で本校と文京区と地域がともにした戦中戦後の一時代が終りを告げた。これを記しこの碑板を設置する。
  2014(平成26)年5月建之
  東京学芸大学附属小金井小学校同窓会〈撫子の会〉・附属竹早中学校同窓会」

  


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