慶長年間(1596-1615)徳川家康から関八州と伊豆の藍買付けを許された紺屋頭・土屋五郎右衛門が支配した町で、
藍染職人が集住しました。付近を流れる川は藍染川と呼ばれました。
「場違い」は、紺屋町以外の地区で染める浴衣や手拭い染めのことを、江戸の人がそう呼んだことに由来します。
町の北に於玉稲荷という祠と於玉が池の跡があり、故事が伝わっています。
中世の頃この地は奥州への街道沿いでしたが、池のほとりで玉という美しい女が旅人に茶をふるまっていました。
2人の男に求婚されましたが、どちらを選ぶか決めかねてついには池に身を投げます。村人たちはお玉の霊を祠に祀ったと言います。
「江戸切絵図」 「現在の地図」
「画本東都遊 紺屋の図」(北斎)
葛飾北斎が描いた紺屋の風景です。
「富獄百景二篇 紺屋町の不二」(北斎)
葛飾北斎が紺屋町の染め物と富士を描いています。
「名所江戸百景 神田紺屋町」(広重)
藍染川でさらされた染め物が干されている風景です。富士が見えます。
○ 町名由来板「神田紺屋町(南部)」
○ 町名由来板「神田紺屋町(北部)」
○ 町名由来板「北乗物町」
○ 町名由来板「東紺屋町」
○ 藍染川
「神田金物通り」の紺屋町交差点から西に少し行くと、半纏をかたどった、千代田区町名由来板「神田紺屋町(南部)」があります。
(説明板)
「千代田区町名由来板 神田紺屋町(南部)
この界隈は、慶長年間(1596〜1615)に徳川家康から軍功として関東一円の藍の買い付けを許されていた紺屋頭土屋五郎右衛門が支配していた町でした。そのため、町には五郎右衛門の配下の染物職人が大勢住んでおり、いつしか「紺屋町」と呼ばれるようになったのです。
江戸を代表する藍染めの浴衣と手拭の大半は、紺屋町一帯の染物屋で染められました。「その年の流行は紺屋町に行けばわかる」と言われていたほどで、紺屋町の名物が江戸の名物でもありました。つまり、ここが流行の発信地だったわけです。ちなみに、「場違い」という言葉がありますが、これは紺屋町以外の地区で染める浴衣や手拭い染めのことを、江戸の人がそう呼んだことに由来するそうです。
町内には古くから藍染川という小川が流れていました。幅一間(約1.82メートル)ほどの川で、染物の布を洗い流していたことから、そう呼ばれるようになったそうです。「狂歌江都名所図会」には、「紺屋町近くにありて藍染の川の流れも水浅黄なり」などの歌が詠まれており、江戸では有名な川であったことがわかります。
万治年間(1658〜1661)、あるいは天和年間(1681〜1684)には、紺屋町の南方(現在の神田美倉町、神田東紺屋町、神田西福田町)に火除地が設けられました。明暦三年(1657)の「明暦の大火(振袖火事)」をはじめ、火災が相次いだことを受けて、幕府が神田堀一帯の民家を取り払い、土手を築き、松の木を植えました。のちに土手の南側には堀割ができましたが、その堀の長さが八町(丁)あったため、「八丁堀」と呼ばれるようになったそうです。 紺屋町(南)町会」(誤字は訂正しました)
(説明板)
「千代田区町名由来板 神田紺屋町(北部)
慶長年間(1596〜1615)に誕生したこの町には、藍染めを手がける染物屋が軒を連ねていました。「紺屋町」という町名は、そのために生まれたとされています。
明治維新以降も、紺屋町には多くの染物屋が集まっていたようです。明治時代後半の東京を描いた『風俗画報』は、この界隈の景観について、次のように記述しています。
「……其の晒らせる布は、概ね手拭染にして……晴天には、いづれ晒らさぬ家もなく、遠く之を望むに、高く風に翻へりて、旗の如く又幟の如く、頗ぶる美観なり」
藍や紺の手染めの布が、あたかも万国旗のように町を彩っていたというわけです。また、『狂歌江都名所図会』には、「紺屋町近くにありて藍染の川の流れも水浅黄なり」と、川の水まで浅黄色(藍色を薄めた色)をしていると詠まれています。いずれも江戸時代から明治期にかけて、手拭いや浴衣の一大生産地だった町のさまをほうふつとさせる描写です。
「その年の流行は紺屋町に行けばわかる」といわれ、江戸の流行の発信地でもありました。紺屋町で染められた手拭いや浴衣は、江戸っ子たちにもてはやされ、なかには紺屋町以外で染めたものを「場違い」といって敬遠する人まで現れたほどです。
ところで現在、紺屋町には、紺屋町北部町会と、紺屋町(南)町会の二つの住民組織があります。その理由は、両町会の間に神田北乗物町が存在し、町そのものを南北に分けているからです。こんな不可思議な町の形が生まれたのは、江戸時代の享保四年(1719)のことでした。当時、神田北乗物町の南側だけに集まっていた紺屋町の一部が、幕府の命令によって北乗物町の北部に移されたのです。その跡地は、防災用の空き地となりました。災害から町を守るための幕府の施策が、このような町の配置を生み出したものと思われます。 紺屋町北部町会」
(説明板)
「千代田区町名由来板 北乗物町
神田駅の東側には、古い町人町の面影を残す町名が目につく。鍛冶町、紺屋町、北乗物町。そしていまは消えたが、塗師町、鍋町なんていうのも戦前の頃まで、現在の鍛冶町の領域のなかにあったという。地図を眺めたり、町を歩いたりしているときに、こういった町名表示に出くわすと、往時のにぎやかな職人町の風景が想像されてきて楽しい。
子どもの頃から地図好きだった僕は、千代田区の地図に初めて「北乗物町」の名を発見したとき、電車やバスの工場や車庫がずらりと建ち並んだ“乗物の国”のような世界を思い浮かべた。神田というと、須田町に交通博物館があるから、そういう連想が働いたのかもしれない。しかし「乗物町」の名は、調べてみると江戸時代に発生したもので、いろいろな説があるようだが、駕籠職人がこのあたりに住んでいたらしい。
なるほど、中央区の領域にはなるけれど、近いところに小伝馬町、大伝馬町、馬喰町といった、馬を使った運送業者に由来する町がある。この一帯が古くからの交通の要所だったことが偲ばれてくる。
ちなみに、北乗物があって「南」はないのか?と思われる方もいるだろうが、南乗物町というのも戦前までは存在していたようだ。
小さな北乗物町の界隈を歩いてみると、さすがにいまは駕籠屋の面影を残すような家はない。車関係のオフィスや工場が目につくこともない。ただし、ビルの狭間に小さな町工場がぽつぽつとあって、「北乘物町」と旧字体で綴った昔の町名表示板がいまもそのまま張り出されている。
ホーロー引きの古めかしい看板に記された「乘物」の文字に、僕は幼い頃に親しんでいた“ブリキの自動車”の光景を重ね合わせた。 コラムニスト 泉麻人」
「北乗物町の町名由来について
北乗物町は、明治二年(1869)、元乗物町代地、兵庫屋敷代地、神田紺屋町二丁目横町代地が合併して成立したときに、この町名が付けられました。この町は鍛冶町一丁目の中央を東西に走る道筋の北側にできた片側町でした。
「乗物」という名の由来は、諸説いろいろあります。駕籠をつくる職人が多く住んでいたという説のほかに、祭りが盛んで、江戸の二大祭りの山王祭と並び称される神田祭の際にかつぐ神輿をつくる職人が住んでいた、駕籠をかつぐ人が多く住んでいたという説や、馬具をつくる職人が住んでいたなどで、いずれの説も江戸の庶民の生活に密着した江戸の時代を感じます。
ほかに乗物と付く町は、元乗物町元地(現・鍛冶町一丁目)、新乗物町(現・中央区日本橋堀留町)などがありました。 北乗物町町会」
昭和通りの歩道に纏ととも町名由来板が建っています。
(説明板)
「千代田区町名由来板 東紺屋町
江戸時代、この界隈は、町人と武士の屋敷が混在している地域でした。このあたりにあったのは、神田紺屋町三丁目、神田紺屋町一丁目代地、本銀町会所屋敷、神田佐柄木町代地、永富町二丁目代地といった町々でした。
明治二年(一八六九)、これらの町が合併して「東紺屋町」となりました。
明治五年(一八七二)には、町の北側にあった、江戸時代前期から続く武家地の一角も編入されています。通称「お玉が池」と呼ばれていたあたりです。
「紺屋」という町名は、江戸時代から明治時代にかけて、紺屋頭の拝領地であり、藍染職人が住んでいて、染物業が盛んであったことに由来しています。
昭和二十二年(一九四七)、神田区と麹町区が合併して千代田区が成立すると、町名の頭に「神田」が付き、神田東紺屋町となりました。その後、昭和四十年(一九六五)の住居表示の実施にともなって、神田東紺屋町の一部は神田松枝町、神田大和町、神田東松下町の一部、神田元岩井町の一部と合併して、岩本町二丁目となり、現在に至っています。 岩本町二丁目東紺町会」