○ 将軍御鹿狩
○ 錦絵に見る将軍御鹿狩
○ 御立場跡
江戸幕府は軍馬需要をまかなうため、下総に小金牧・佐倉牧、安房に嶺岡牧、駿河に愛鷹牧を設けました。
小金牧は慶長年間(1595〜1615)に設置され、明治維新で廃止されるまで存続しました。
小金牧には、総延長150キロメートルに及ぶ野馬除土手が築かれ、幕末には約一千頭の馬がいたといわれています。
小金牧は、江戸時代後期では高田台牧・上野牧・中野牧・下野牧・印西牧の五牧からなりました。
このうち中野牧は、現在の柏市・松戸市・鎌ヶ谷市・白井市・船橋市域に及びます。
中野牧は、享保10(1725)年及び翌年の8代将軍徳川吉宗による御鹿狩り以降、
11代家斉が寛政7(1795)年、12代家慶(一橋慶喜が御随従)が嘉永2(1849)年に御鹿狩りを行いました。
将軍御鹿狩は、鷹狩りと違って見物が許されたので、当日は弁当持参の見物人が何万人も押しかけました。
明治維新後も、徳川慶喜と徳川昭武は、共に小金で狩猟を度々行っています。
「千代田之御表 松戸宿船橋」(楊洲周延 明治30年)
12代家慶(一橋慶喜が御随従)による嘉永2(1849)年の御鹿狩では、
旗本たちは前日に江戸を出発し、金ケ作で一泊。将軍は当日の午前1時に江戸城を出ました。総勢2万3千人。
江戸川には、舟21艘で船橋を作りました。御座船「麒麟丸」が船橋の脇に見えます。
見物は3万人。見物者は12代将軍家慶や一橋慶喜公を見ると歓声を上げました。
「千代田之御表 小金原牧狩ノ図」(楊洲周延 明治30年)
「千代田之御表 小金原牧狩立場之図」(楊洲周延 明治30年)
御立場が描かれています。
吉宗の時には鉄砲を持った警護がいましたが、この時はいません。
「千代田之御表 小金原牧狩引揚ノ図」(楊洲周延 明治30年)
「温故東能花 将軍家於小金原御猪狩之図」(楊洲周延 明治22年)
「小金原田蒐之図」(山内道正)
獲物の鹿や猪が見えます。ウサギも逃げています。獲物ではありませんが野馬も駆けています。
吉宗の御鹿狩では、明治時代に絶滅した日本狼も獲物として捕えています。
御立場も描かれています。鉄砲を持った警護も見えます。
御用幟を掲げて、獲物を運ぶ勢子(人足)が描かれています。
「御用 武州 ○○村 百十人」と見えるので、この村は110人動員されています。
「御用幟(人足幟)」
御鹿狩に際しては、関東各地の農村の人々が勢子(人足)として動員されました。
人数は村ごとに決められており各々目印となる旗を掲げました。
この御用幟は、嘉永2(1849)年12代将軍徳川家慶が行った小金牧の御鹿狩で鳴根村の勢子が用いたもので、
縦106cm・横65cm、紺地に白抜き文字で次のように記されています。
「御鹿狩 渕江領
勢子人足四十一人
御用 鳴根村」
勢子の全動員数は約5万人で、嶋根村からは勢子人足41名が参加しています。
「御鹿狩勢子村旗渕江領嶋根村」足立区文化財(出典:足立区立郷土博物館所蔵資料)
「小金野鹿狩之記」(嘉永2年 国立公文書館蔵)
小金原で行われた鹿狩に向かう12代将軍家慶の御成りが描かれています。
「千住大橋之図」(12代将軍徳川家慶の御成船が千住に到着。)
「新宿御仮橋」(中川には仮橋を架け渡ります。)
「松戸宿ヨリ御舩橋ヲ顧図」(江戸川には舩橋を架け渡ります。
「御立場」(狩場には御立場を築きました。)
この一帯は小金牧(中野牧)と呼ばれた野馬の放牧場で、徳川吉宗が2回、徳川家斉と徳川家慶が1回ずつ「御鹿狩」(おししがり)を行いました。
この付近に、将軍が御鹿狩を眺めるために、大きな塚を作り「御立場(おたつば)」が建設されました。
(碑表)
「史跡 御立場跡
昭和四十三年十月建之」
(碑陰)
「由来」を記す。
(説明板)
「御立場(おたつば)
下総台地には古代より馬の放牧場があり、江戸幕府は小金原(いまの松戸市、柏市、流山市、鎌ヶ谷市などにわたる範囲)に、直轄の牧場を開設して、馬を育成しました。広大な小金原のうち、現在の松飛台付近で、徳川将軍家は八代吉宗が二度、十一代家斉と十二代家慶が各一度の計四回、多くの家臣と農民を動員して「御鹿狩」を行いました。この付近には、将軍が御鹿狩を眺めるため、土を台形に高く盛った「御立場」が建設されました。御立場は戦時中の昭和十年代まで残っていました。
平成二十九年一月 松戸市教育委員会」