Discover 江戸旧蹟を歩く
 
 神田上水懸樋(現在)/神田上水懸樋(浮世絵)

  ○ 水道橋

 【皀角坂
  ○ 皀角坂
  ○ 神田上水懸樋跡
  ○ 皀角坂の芭蕉句碑
  ○ ふるさと文化の散歩道

 【お茶の水坂
  ○ お茶の水坂
  ○ 水路モニュメント
  ○ プレート「神田上水」
  ○ お茶の水分水路
  ○ 神田上水懸樋(掛樋)跡
  ○ 旧元町


水道橋 千代田区神田三崎町一・二丁目〜文京区後楽一丁目・本郷一丁目

 水道橋の名は、神田上水の懸樋が下流にあったことに由来します。

     

<水道橋の碑>

 水道橋の欄干に江戸名所図会の挿絵がはめ込まれています。

 「水道橋
  水道橋の名は、江戸名所図会によれば、この橋の少し下流にかけ樋があったことに由来します。」

    


【皀角坂】 千代田区三崎町1丁目〜神田駿河台2丁目

「江戸切絵図」

 「水道橋」の下流に「神田上水懸樋が見えます。
 懸樋の駿河台側に「サイカチサカ」の注記があります。
 駿河台は、武家屋敷が多く見られます。

  

<駿河台>

 「駿河台」は、もともと本郷台・湯島台と地続きで、「神田台」と呼ばれていました。
 「神田川」が開削され、本郷台・湯島台から切り離され、現在の駿河台が形成されました。
 徳川家康が駿府で没した後、駿河から帰ってきた旗本(駿河衆)たちが、駿河国の富士山が見えるこの地に多く屋敷を構えました。
 駿河衆が住んでいたことや駿河国の富士山が見えたことなどから、この地は駿河台と呼ばれるようになりました。

「名所江戸百景 水道橋駿河台」(広重)

 神田上水懸樋辺りの本郷台から、水道橋方向の駿河台の武家屋敷を見下ろしています。富士山が見えます。
 画面左下の神田川下流から水道橋へ下っている坂が「皀角坂」です。
 武家は、端午の節句には家紋の幟や吹き流し、鍾馗(しょうき)の幟を上げました。鯉のぼりを揚げるのは町人の文化でした。

   

「絵本江戸土産 水道橋」(広重)

 名所江戸百景より下のアングルで描かれています。

  

「江戸名所百人美女 するがだい」(豊国・国久 都立図書館蔵)

 駿河台は武家地なので、美女も武家の娘でしょう。
 こま絵には火の見櫓が描かれています。

   

「江戸名所四十八景 駿河台月夜」(二代広重 都立図書館蔵)

 左手の屋敷は、江戸切絵図によると「田口加賀守」(長崎奉行)でしょうか?

  

皀角坂 千代田区神田駿河台2-11(標柱設置)

 皀角坂(さいかちざか)の標柱は、2022年10月に更新されたようです。

(標柱)
「皀角坂
 坂名は、サイカチの木が多く植えられていたことから名付けられました。サイカチは、野山にはえる落葉高木で、枝にとげが多く、花も実も豆に似ています。現在でも、二本のサイカチの木があり、秋になると豆状の実をつけています。」

    

神田上水懸樋跡 千代田区神田駿河台2-11(説明板設置)

 神田上水懸樋跡の駿河台側です。神田川左岸の本郷側にもモニュメントがあります。

    

    

 説明板は、2022年10月に更新されたようです。
 「江戸名所図会 御茶の水 水道橋 神田上水懸樋」が掲示されています。

(説明板)
「神田上水懸樋跡
 江戸時代、この辺りには神田上水が神田川を越えるために設けた懸樋がありました。1658年〜1661年(万治年間)に架け替えられ、俗に万年樋と呼ばれました。
 神田上水は、江戸で最も早く整備された上水といわれ、1596年〜1615年(慶長年間)に整備に着手したといいます。井の頭池・善福寺池・妙正寺池を水源とし、現在の文京区関口あたりに堰が設けられ、小日向台から小石川後楽園を通り水道橋の下流に達しました。懸樋によって神田川を超えた上水は、この辺りから暗渠(埋樋)となり、南は京橋川、東は永代橋より大川(現在の隅田川)以西、北は神田川、西は大手町から一橋門外まで供給されました。
 なお、関口で神田上水から分水した余水は河川となります。牛込門外(現在の飯田橋)までは「江戸川」、牛込門外から下流は「神田川」と呼ばれました。
  千代田区」

     

○皀角坂の芭蕉句碑 千代田区神田駿河台2-11-16

 松尾芭蕉らしいと言われますが定かではない句碑があります。
 「皀角子の
    実は
  そのままの
    落葉哉」

   

○ふるさと文化の散歩道 千代田区神田駿河台2-9

   


【お茶の水坂】 文京区本郷1丁目〜2丁目

お茶の水坂 文京区本郷1-1(説明板設置)

 外堀通りの文京区本郷1丁目〜2丁目がお茶の水坂となります。
 元町公園前の歩道に、説明板「お茶の水坂」があります。

(説明板)
「お茶の水坂
 この神田川の外堀工事は元和年間(1615―1626)に行われた。それ以前に、ここにあった高林寺(現向丘二丁目)の境内に湧き水があり、“お茶の水”として将軍に献上したことから、「お茶の水」の地名がおこった。
 『御政府備考』によれば「御茶之水は聖堂の西にあり、この井名水にして御茶の水に召し上げられしと・・・」とある。
 この坂は神田川(仙台堀)に沿って、お茶の水の上の坂で「お茶の水坂」という。坂の下の神田川に、かって神田上水の大樋(水道橋)が懸けられていたが、明治34年(1901)取りはずされた。
  お茶の水橋低きに見ゆる水のいろ
    寒む夜はふけてわれは行くなり
      島木赤彦(1876ー1926)
 文京区教育委員会  平成9年3月」

   


水路モニュメント 文京区本郷1-3

 水道橋から文京区側の神田川下流へ、水路モニュメントがあります。
 水は流れてはいません。

    


○プレート「神田上水」 文京区本郷1-3

(プレート文)
「神田上水
 神田上水は、井の頭池の湧水を水源とする、江戸時代初期につくられた日本最古の都市水道です。
 文京区関口に堰を設けて上水を取り入れ、小日向台下の裾をとおり小石川後楽園の中をぬけ、水道橋の東側で神田川を掛樋でわたし神田・日本橋方面に給水されていました。
 文京区本郷二丁目7番にある本郷給水公苑内に神田上水石垣樋が移設保存されています。
  文京区土木部公園緑地課」

    

    


○お茶の水分水路 文京区本郷1-3

 お茶の水分水路は、河道拡幅による河道整備が困難であった神田川の中流部において整備された4つの分水路の一つです。
 この分水路は、水道橋下流〜昌平橋下流まで、都道405号線(通称:外堀通り)の地下に1,300mにわたって敷設されています。

    

(石碑文)
 「神田川分水路事業
   お茶の水分水路」

    


○神田上水懸樋(掛樋)跡 文京区本郷1-2

 神田上水懸樋は、神田上水が神田川を跨ぐ地点に設置されていた懸樋です。
 水道橋と水道橋駅の由来になっています。

     

(碑)
 「神田上水懸樋(掛樋)跡
   文京区長 遠藤正則 書」

   

(プレート文)
 「絵本続江戸土産 神田上水御茶水」(鈴木春信)の挿絵が掲示されています。

「神田上水懸樋(掛樋)跡
 江戸時代、神田川に木製の樋を架け、神田上水の水を通し、神田、日本橋方面に給水していました。
 明治三十四年(一九○一)まで、江戸・東京市民に飲み水を供給し続け、日本最古の都市水道として、大きな役割を果たしました。
 この樋は、懸樋(掛樋)と呼ばれ、この辺りに架けられていました。
 この絵は、江戸時代に描かれたもので、この辺りののどかな風情が感じられます。
  平成八年三月 東京都 文京区」

    

    絵本続江戸土産 神田上水御茶水             神田川上流                神田川下流
    


旧元町 文京区本郷2-7(説明板設置)

 「旧町名案内」があります。

(説明板)
「旧 元町(昭和40年までの町名)
 もとは本郷村。江戸初期は御弓同心の組屋敷であった。その後この組屋敷は大塚辺りに移された。元禄4年(1691)徳川家康の江戸入りにしたがって三河から来た供衆が、内神田の三河町からここに移ってきた。
 元禄9年(1696)町屋を開いたが、この辺の拝領地としては、最も古い方なので元町と名づけたという。
 明治2年、町内を東西に分けて、上町を1丁目、下町を2丁目とした。
 同5年、旧高松藩松平氏邸および付近を合併した。
 明治44年、本郷元町の本郷をとり、元町とした。
 現在の昭和第一高校前の神田川に、神田上水の懸樋が渡されて、江戸っ子に飲料水が送られた。 文京区」

   


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