Discover 江戸旧蹟を歩く
 
 聖蹟蒲田梅屋敷公園


〇聖蹟蒲田梅屋敷公園(梅屋敷と和中散薬売所跡) 大田区蒲田3-25-6

 蒲田の梅屋敷は、山本忠左衛門が和中散(道中の常備薬)売薬所を開いた敷地三千坪に、
 その子久三郎が文政の頃(1818〜1829)に、梅の木百本をはじめとしてカキツバタなどの花々を植え、
 東海道の休み茶屋を開いたことに始まると言われています。亀戸の梅林とともに江戸近郊の梅の名所の一つとして賑わいました。
 十二代将軍徳川家慶は、蒲田の梅屋敷を鷹狩りの休み所としました。
 現在の梅屋敷公園は、第一京浜国道の拡張と京急の開通により往時と比べて相当小さくなっているようです。
 蒲田は梅の木を栽培している農家が多くあり、東海道の旅人や江戸の人々に梅干を売っていました。
 (参考)「亀戸梅屋敷

「江戸名所図会 蒲田里梅園 行方弾正宅跡」
 挿絵には「梅干を 見知て居るか 梅の花 嵐雪」とあります。
 梅園には、池がつくられ、茶屋が設けられています。

  

「名所江戸百景 蒲田の梅園」(広重)
 石碑が多く見えます。梅の木は横長ではなく高木です。

  

「絵本江戸土産 蒲田の梅園」(広重)
 挿絵には「この辺すべて梅園多し 春如月の頃にいたれば 清香 四方に馨しく 紅白 宛もさらさの如く 実に遊観の勝景なり」とあります。

  

「蒲田梅園」(旅の家つと第12 明治32(1899)年)

  

<大田区立聖蹟蒲田梅屋敷公園入口>

 南
  

 南東
 門柱「大田区立聖蹟蒲田梅屋敷公園」
   「昭和14年10月12日 開園」

    

 北東
  

「明治天皇行幸所蒲田梅屋敷」
「昭和十年三月建設 平成五年十一月再建」」

  

(説明板)
「明治天皇と梅屋敷」
 梅屋敷は、明治元年(一八六八)から明治三十年(一八九七)の間に天皇の九度の行幸がありました。
 天皇はことのほか梅屋敷の風致を好まれ、明治六年(一八七三)三月六日のご観梅のときには小梅一株をみずからお手植なされ、この梅は仙粧梅と称されて後に人々に愛されたと言われています。
 その後昭和八年(一九三三)に史蹟として保存指定を受け、昭和十三年(一九三八)に東京市へ寄付、さらに昭和二十八年(一九五三)に大田区に譲与され、現在に至っています。 大田区」

   

<公園内>

    

 池に水はありません。
    

(説明板)
「大田区文化財 梅屋敷と和中散売薬所跡
 「和中散」は、食あたり、暑気あたり等に効く、道中常備薬としてつくられ、旅人に珍重された。元禄から正徳にかけて(一六八八〜一七一六)大森村中原、谷戸、南原に三店が開業した。
 このうち南原にあった店が、のちに北蒲田村の忠左衛門に譲られ、この地に移転したという。
 文政年間(一八一八〜一八三〇)の初め、忠左衛門の子の久三郎の代に、庭園に梅の名木を集めて、休み茶屋を開いた。
 亀戸の梅林とともに梅の名所「梅屋敷」として有名になり、広重の浮世絵にも描かれた。
  昭和五十三年三月十九日指定 大田区教育委員会」

  

「江戸名所図会 大森和中散」
  大森村南原にあった頃の和中散の店頭が描かれています。

  

(説明板)
「梅屋敷の由来
 梅屋敷は、山本忠左衛門が和中散(道中の常備薬)売薬所を開いた敷地三千坪に、その子久三郎が文政の頃(一八一八〜一八二九)に、梅の木百本をはじめとしてかきつばたなどの花々を植え、東海道の休み茶屋を開いたことに始まると言われています。当時は、後の十二代将軍徳川家慶が鷹狩りの休み所とした程の屋敷で、雅趣ある風情は多くの文人、行楽客、東海道の旅人を集め、とくに梅の開花時期には非常なにぎわいを見せたようでした。 大田区」

  

<蒲田とあやめ>

(説明板)
「蒲田とあやめ
 明治三十五年、現在の大田区立蒲田小学校付近に蒲田菖蒲園が開設された。6月になると、「あやめ」の花が一面に咲き誇り遠方からも見物客が訪れ、外国人も好んで立ち寄るほど蒲田はかつて「あやめ」がまちのシンボルであった。
 一方、平成二十八年四月、山形県長井市と「災害時における相互応援に関する協定」を締結した。山形県長井市も「あやめ」がまちのシンボルになっており、市内には日本有数のあやめ公園があり、長井独自の品種である長井古種が植えられている。
 共に「あやめ」がシンボルとなっており、山形県長井市とのご縁が出来たことを記念して、ここに山形県長井市より取り寄せた長井古種である「あやめ」を植栽した。 大田区」

   

<句碑/石碑>

(説明板)
「山本久蔵の句碑
 この句碑は、天保五年(一八三四)にこの梅屋敷と関係の深い山本久蔵が建立したものです。文面は
 神酒ささぐ間に鶯の初音かな 麦住亭梅久
とあります。戦前には他にも江戸時代の多くの句碑が残されていましたが、戦後の混乱期に姿を消してしまいました。 大田区」

    

(説明板)
「狂歌堂真顔の歌碑(復元)
 昔、梅屋敷の園内には、数多くの碑石がありましたが、所有者が移った時や戦後の混乱期に姿を消してしまいしました。この歌碑はそれらの一つを資料をもとに復元したものです。
 文面は、
 旅人の神に手向(たむけ)の幣代(ぬさしろ)や 白絹咲きし庭中の梅
   狂歌堂真顔
 であったと伝えられています。 大田区」

   

(説明板)
「梅路、梅志の句碑
 この句碑は弘化三年(一八四六)山本久蔵が梅路と号L、建立Lたものといわれています.
しら梅の 梢や月の高みくら
        七十五歳 梅路
松竹は表にうらハ梅の春
        六十五歳 梅志
弘化三のとしきく月  梅家女誌
 また梅路、梅志の墓は蒲田の妙典寺にあり、その墓石にも句碑が刻されています。 大田区」

    

「距日本橋三里十八丁」

  

(説明板)
「里程標(復元)
 昔、梅屋敷山本家の門の横に自然石の里程標の石碑がありました。その高さは一メートルほどでその表面には、
「距日本橋三里十八丁 蒲田村 山本屋」
と刻まれていたと伝えられています。
 木戸孝允、伊藤博文らが梅屋敷で新年宴会を開いた際、二人が合作した一幅中の木戸孝允の画にも描かれていました。戦後、里程標は姿を消しましたが資料をもとに復元しました。 大田区」

  

<忠魂碑>

 日清戦役、日露戦役等の忠魂碑です。

(表)
 「忠魂碑 元帥伯爵東郷平八郎書」
  

(裏)
 「昭和三年御大禮記念
  在郷軍人会蒲田町分会 建之」
  

<戦歿記念碑>

 明治27,8年戦役、明治37年戦役の記念碑です。

(表面)
 「戦歿記念碑 高田忠周題書」

   

(裏面)
 「昭和三年御大禮記念
  在郷軍人会蒲田町分会 建之」

  


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