Discover 江戸旧蹟を歩く
 
 江東区亀戸

  ○ 梅屋敷跡
  ○ 梅屋敷伏見稲荷神社
  ○ 亀戸梅屋敷
  ○ 亀戸升本本店すずしろ庵・勝運稲荷
  ○ 祐天堂/やくしみち道標


梅屋敷跡(臥龍梅跡) 江東区亀戸3-51-10

 梅屋敷は、伊勢屋喜右衛門の別荘内にあり、300本の梅の木が植えられ、梅の名所として賑わいました。
 竜が地を這っているかのような形状の梅の古木「臥竜梅」が名高く、水戸光圀の命名と伝えられていました。
 土産物として梅干も売られていました(生産が追いつかず購入品を売っていたようです)。
 明治43(1910)年の洪水で、すべての梅は枯れ、閉園となりました。
 この時の大水害では、普門院の将軍腰掛け松が枯れ、吾嬬の森も大打撃、錦糸町の伊藤左千夫の牧場も被害に遭い大島に移転しています。

  

     
 

<江東区登録史跡 梅屋敷跡>

(説明板)
「江東区登録史跡 梅屋敷跡
   亀戸三ー四○、五○〜五三付近
 梅屋敷は、江戸時代から続く梅の名所でした。もとは、本所埋堀(墨田区)の商人、伊勢屋彦右衛門の別荘で清香庵と称していましたが、庭内に梅が多く植えられていたところから「梅屋敷」と呼ばれるようになりました。なかでも「臥龍梅」と名付けられた一株が有名で、これはまるで龍が大地に横たわっているように見えるところから、水戸光圀が命名したと伝えられています。また、八代将軍徳川吉宗も鷹狩の帰りにこの地を訪れました。
江戸近郊の行楽地として、花の季節にはたくさんの人々でにぎわい、その様子は『江戸名所図会』『絵本江戸土産』(歌川広重)などの地誌にもとりあげられています。歌川広重はこの梅屋敷だけで十数種の版画を描き、とくに『名所江戸百景』の中の、太い梅の古木を手前にあしらった錦絵は傑作のひとつにあげられます。明治四三年(一九一○)、大雨により隅田川沿岸はほとんど水に浸り、亀戸・大島・砂村のほぼ全域が浸水しました。この洪水により、梅屋敷のすべての梅樹が枯れ、廃園となりました。
 ここに残る石標柱は、江東区創立十周年を記念して、昭和三三年に建てられたものです。
  平成二一年三月  江東区教育委員会」

  
 

「江戸名所図会 梅屋敷」

  
 

「江戸名所花暦 亀戸梅屋敷」

 挿絵に「臥龍梅」と注記があり、注記の右下に立て看板が見えます。

   
 

「名所江戸百景 亀戸梅屋舗」(広重)

 臥龍梅の立て札の裏から、臥龍梅と梅屋敷が描かれています。

  
 

「花咲く梅の木」(ゴッホ)

 ゴッホは油絵で広重の亀戸梅屋舗を模写しています。(フリー素材より)
 作品の左右に「大黒屋錦木江戸町一丁目」「新吉原筆大丁目屋木」とありますが、
 梅の木とは関係なく、装飾に漢字を加えているようです。

  
 

「絵本江戸土産 亀戸梅屋敷」(広重)

  
 

「東都名所 亀戸梅屋舗全図」(広重)

  
 

「江戸名所百人美女」(豊国・国久)

 こま絵に「臥竜梅」が描かれています。
 床几台に腰掛ける梅見の美女が描かれています。

   
 

「亀戸梅屋敷」(小林清親)

  
 

「亀井戸梅屋敷」(井上安治)

  
 

「旅の家つと 臥龍梅」(光村写真部 明治33年)

  

「日本之名勝 臥龍梅」(瀬川光行 史伝編纂所 明治33年)

  

「臥龍梅 仁山智水帖」(光村写真部 明治35年)

  

「東京風景 臥龍梅」(小川一真出版部 明治44年)

  

(※注記のないものは国立国会図書館蔵)


梅屋敷伏見稲荷神社 江東区亀戸3-51-3

 梅屋敷は廃園となりましたが、屋敷内の稲荷神社は現在も旧屋敷地に建っています。

    

    


亀戸梅屋敷(観光館) 江東区亀戸4-18-8

 こちらは現在の観光施設の「亀戸梅屋敷」です。

     

   


亀戸升本本店 江東区亀戸4-18-9 HP 

 亀戸梅屋敷の隣にある創業明治38年(1905)の割烹店です。
 亀戸香取神社に「亀戸大根之碑」を奉納しています。

     


○亀戸升本 すずしろ庵 江東区亀戸2-45-8

 亀戸升本のお弁当販売店「すずしろ庵」です。
 升本本店の信号反対側の「亀戸十三間通り商店街」にあります。

<亀戸勝運稲荷>

 ビル屋上に祀られていた亀戸勝運稲荷が1階でもお参りできるようになっています(2017年12月)。
 「大根にかけ水わけて福もらい お多福大根」

     


祐天堂/やくしみち道標 江東区亀戸3-39-8

 梅屋敷跡の近く北十間川に架かる境橋の袂に、「祐天堂」と「やくしみち道標」があります。

<六字名号供養塔 伝祐天書 祐天堂由来>

 「六字名号供養塔」「伝祐天書」は、江東区文化財です。
 祐天堂は、六字名号供養塔を納める堂宇です。

     

(説明板)
「六字名号供養塔 伝祐天書 祐天堂由来
 昭和四十一年に設けられた当時の説明板等によりますと、その由来は、元禄年間に祐天上人が千葉方面に往来の途中、この付近の川の中や川岸に多くの水死者のあるのを見て、非常に心を痛め、その霊を懇に回向されました。その際に、これらの仏に戒名を与え祐天上人、自らが筆を取って石にその戒名を記された供養塔をここに残されました。
 後年、この供養塔を奉った祠が、この祐天堂であります。
 それ以来、この付近では水死者もなく、またこの付近の子供たちが水辺で遊んでいても溺れたためしが無かったと言い伝えられ、この付近に住む人々によって、水難除、安産、子供の守護の祠として崇め奉られ今日に至ります。(近年では、この祠に、交通安全祈願をなさる方も多いと聞きます。)
 また、毎年七月二十四日を由縁の日と定め、祐天上人の遺徳を仰ぎ精霊の供養を営む日と定められてまいりました。
  亀戸三丁目宮元町会 祐天堂保存会」

  
 

<木下川やくしみち道標>

 祐天堂の脇に、「木下川やくしみち道標」があります。

  

(説明板)
「木下川やくしみち道標
 高さ七十一センチのこの道標は、ここ境橋から、木下川薬師堂(葛飾区東四ツ木一丁目)へ至る木下川薬師道(現在の仲居堀通り)を示すものです。
 刻銘は、正面に
  木下川やくしみち
 右側面に、
  本石町 寳暦十一年辛巳猛春
 左側面に、
  あつまもり
 あつまもりとは、吾妻権現社のことで境橋を渡った右手、北十間川沿いにありました。本石町は日本橋の町名で、この道標の建てられた寳暦十一年(一七六一)頃には、きっと江戸町人の参詣が盛んだったことがうかがえます。
  亀戸三丁目宮元町会 祐天堂保存会」

  


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