○ 板垣退助肖像
○ 板垣退助翁寿像除幕式(芝公園)
○ 憲政記念館
○ 板垣退助墓(品川区史跡)
「板垣退助肖像」(国立国会図書館「近代日本人の肖像」)
天保8年4月17日〜大正8年7月16日(1837年5月21日〜1919年7月16日)
大正2(1913)年4月19日、芝公園に板垣退助像が建立されました。
戦時中に金属供出され、再建されなかった像です。
板垣退助翁寿像ということで、板垣退助も記念写真に写っています。
国会議事堂中央広間を再現したスペースがあります。
中央広間床のモザイク模様が描かれ、「伊藤博文」「大隈重信像」「板垣退助」の銅像の写真があります。
国会議事堂の中央広間は撮影禁止ですが、ここでは銅像と一緒に写真を撮ることができます。
(憲政記念館についてはこちらで記載)
品川神社の本殿裏の境外に、板垣退助とその家族の墓があります。
かつて高源院があり烏山に移転し、板垣退助墓所はそのまま残され、高源院の飛び地となっています。
品川神社の境内地ではないので、品川神社には板垣退助墓について言及はありませんが、
品川神社の境内を通らないとたどりつけない地です。
「江戸切絵図」
江戸切絵図に「高源院」が見えます。
<板垣家墓>
<しながわ百景>
しながわ百景に選定されています。
(説明板)
「品川区指定史跡
板垣退助墓
所在 北品川三丁目七番十五号 品川神社裏
指定 昭和五十三年十一月二十に日(第四号)
板垣退助は、天保八年(一八三七)に土佐(高知県)で生まれた。幕末に藩主山内豊信の側用人となるが、倒幕運動や戊辰戦争(一八六八)に参加して功績をあげた。明治七年(一八七四)に愛国公党を結成し、自由民権運動をおこした。明治十四年(一八八一)には自由党を結成して総裁となり、近代日本の政党の基礎を築いた。翌年、岐阜遊説中に刺客に襲われたとき、「板垣死すとも自由は死せず」と叫んだことばは、当時の若者達を感激させ湧わかせた。明治二十九年(一八九六)から伊藤内閣や大隈内閣の内相をつとめたが、明治三十三年(一九○○)に政界を引退した。大正八年(一九一九)に亡くなり、この地に葬られた。
平成七年三月三十一日 品川区教育委員会」
<板垣退助墓>
石燈籠2基と板垣退助と妻の墓があります。
「邦光院殿賢徳道圓大居士」
「大正八年七月十六日薨 享年八十三」
<板垣清子墓>
板垣退助の権妻、板垣清子の墓です。
<板垣死すとも自由は死せず>
明治100年及び板垣退助50回忌を記念して建てられた石碑です。
碑文は自由民主党総裁・佐藤栄作による揮毫です。
表「板垣死すとも自由は死せず 自由民主党総裁 佐藤栄作書」
裏「昭和四十三年七月十六日建立
明治百年記念
板垣退助先生顕彰会
会長 参議院議員 寺尾豊
外 会員一同」
<歌碑>
墓地の入り口に、「秋の日に〜」の歌碑があります。鈴木安五郎とあります。
検索すると、柴又村の俳号「涼坪」鈴木安五郎のようです。