○ 稲荷神社
○ 妙光寺
○ 二之江神社
○ 妙勝寺
○ 蓮華寺
○ 西光寺
○ 伏見稲荷大明神
○ 真福寺
古川親水公園の左岸にある「稲荷神社」です。
栄長山常泉院妙光寺と号します。
妙勝寺の「黒門寺」と対比して「赤門寺」の通称でも知られています。
<山門>
(説明板)
「妙光寺
妙光寺は日蓮宗で、栄長山常泉院と号し、通称「赤門寺」といわれます。開山は日能上人(天正十三年・一五八五没)です。『新編武蔵風土記稿』によると、当寺には「十界勧請の本尊。及び祖師を安す」とあり、この祖師が現本尊です。境内の七面殿には「海中出現七面大明神」があり、鬼子母神や疱瘡の神も祀られています。
寺宝としては、日乾・日遠・日重筆の曼荼羅があります。
■木造日蓮上人坐像
昭和五十七年(一九八二)二月登録
区登録有形文化財・彫刻
文禄三年(一五九四)の作で、作者は不明です。像高二十一・六センチの小さな坐像ですが、容姿がよく整っています。ヒノキ材の寄木造りで、目は玉眼、紫色の衣と金襴の袈裟を着け、笏とお経の巻物を持っています。
平成十四年十二月 江戸川区教育委員会」
<題目塔>
元文4(1739)年銘の題目塔です。
<水洗いの像>
たわしが置かれています。
<手水鉢>
文政6(1823)年銘の手水鉢です。
<松>
<南無妙法蓮華経馬頭観世音菩薩>
昭和33(1958)年の建立です。題目のある馬頭観世音は初めてみます。
<百度石>
大正4(1995)年銘の百度石です。
<題目塔>
<七面殿>
<本殿>
旧二之江村の鎮守で村社だった香取神社と、寛文年間(1661〜1673)創建の八幡神社(旧妙勝寺境内三十番神)を、
昭和42(1967)年に合祀、二之江神社としたといいます。
かつて香取神社だった場所が現在の境内になっています。
「江戸名所図会 二之江妙勝寺」
「妙勝寺」の境内には、「三十番神」が記されています。
挿絵手前隅の古川左岸に描かれている大きな木は、現在の二之江神社の大けやきですかね?
古川親水公園側の入口です。
鳥居には、「天下泰平 國家安寧」と刻まれています。
はっきりとは読めないのですが慶應3年ですかね。
(説明板)
「二之江神社
旧二之江村の鎮守で香取神社と称し、明治六年、村社となりました。創立年月は定かではありませんが、経津主命を祀り、現在地にありました。
八幡神社は寛文年間(一六六一〜一六七三)の創建で、誉田別神を祀りました。もとは地元妙勝寺の境内社であって、三十番神ともいわれましたが、昭和四十二年十二月香取神社と合祀して、新たに二之江神社としました。
■二之江神社のケヤキ
昭和五十六年(一九八一)一月登録
区登録天然記念物 植物
境内のほとりを流れる親水河川古川が天正時代(一五七三〜一五九二)の昔、当時の行徳の塩を江戸に運ぶ水路として利用されたといいます。当時の面影をその年輪に刻み込むように、境内にケヤキの大木があります。樹齢五百年ともいわれ、樹周一六○センチメートル、樹高二○メートル余の区内屈指の巨木です。
平成二十一年三月 江戸川区教育委員会」
<香取神社八幡神社合社記念碑>
<ケヤキの大木> 江戸川区天然記念物
<表参道/社号標>
<力石>
社務所の前と横に力石があります。
両方石とも「さし石」と刻まれています。
社務所前は「金杉藤吉」のさし石です。
社務所横の力石のひとつには「さし石」とあります。
<手水舎>
<社務所>
社殿前と同じ天水桶があります。
<百度石>
昭和12(1937)年銘の百度石です。
<狛犬>
<天水桶>
「明治四十一年五月」
鋳造人 清水栄三郎
東京府南千住町」
<社殿>
<末社>
本覚山成就院妙勝寺と号します。
幕府の寺社奉行からの命令を他の寺院に伝達するなど、葛西一体の寺院のとりまとめを行う「触頭」を担っていました。
「江戸名所図会 二之江妙勝寺」
「妙勝寺」の境内には、「三十番神」「きしも神」が記されています。
江戸名所図会が出版された時には、新川橋から先の新川は開削済で、旧流路は古川と呼ばれました。
挿絵には「古川通り」と記されています。人を乗せた船が見えます。旧流路を通る行徳船もあったのですかね。
<参道/題目塔>
(説明板)
「妙勝寺
日蓮宗で本覚山成就院と号し、中山法華経寺の中本寺として十四か寺の末寺を抱えていました。土地の人から「じょうじん」(成就院)とか「黒門寺」と呼ばれ親しまれています。
寺伝によると、弘安七年(一二八四)堀江の浦(葛西沖)に漂着した難破船に残っていた少年を、二之江村の漁師が救い上げました。少年は平家の末裔で、中山法華経寺の二世日高上人の弟子となり、のちに成就院日尚と号して古川べりの妙見社のかたわらに小堂を建てました。これが本寺の始まりで、徳治二年(一三○七)三月のことといわれます。
■紙本墨書大曼荼羅(区登録有形文化財)
天保十四年(一八四三)三十二世日信の代に、小島(現・西葛西)に住む控井権右衛門が寺に寄進したと記録されています。日信はその鑑定を法華経寺百一世日道(?一八五○)に依頼し、二幅とも日高、日祐上人の真筆であると認めた証文が残っています。
平成三年三月 江戸川区教育委員会」
<山門>
<釈迦殿/佛陀の言葉>
お釈迦さまと四菩薩が安置された御堂です。
<浄心磐>
龍の口から吐水される手水鉢が置かれています。
<五重塔>
宝輪が曲がっています。能登半島地震で曲がったのですかね。
<日蓮聖人像>
<鐘楼>
<開山堂>
当山を開山した成就院日尚聖人を祀った御堂です。
(説明板)
「妙勝寺及開山の略縁起
弘安七年四月(一二八四)下総国堀江の浦に漂着した難船にのこされていた童子を、当村二之江村漁師の五郎が救いあげて育てたところ、童子は後に中山法華経寺二世、日高上人の弟子となり、成就院日尚と号して当村古川べりの妙見社のそばに草庵をいとなみ、一寺を建立した。即ち開山の日尚上人で時は徳治二年(一三○七)春三月のことであった。中山法華経寺の末寺・葛西の“融水頭”であり、中本寺として十四ヶ寺の末寺をかかえていたという記録がある。
安置する宗祖大士像は中山三世日佑上人がある夜、宗祖聖人が微妙な音声で読経している夢を見て、自ら夢中感得のお姿を彫って開眼供養をして日尚上人に与えられたものである。安政地震で倒壊したが、かつては水神宮があり、現在開山堂に祀られているが、この本尊は日尚上人が難船で漂流している時、深く水神に祈誓して波浪の難をのがれたので報恩の為、彫刻して日高上人に点眼を乞い、以後は一乗の法味をささげたものとされている。
地元の有力な檀信徒の外護も代々続き、大木に囲まれた中にある。大伽藍、客殿は威風堂々として風格を備え、民間に開山上人の院号、成就院がなまった“ジョウヂン”の呼名で親しまれている有数の名寺である。
平成十五年十月十二日」
<本堂>
<諸碑/諸塔>
海照山普門院蓮華寺と号します。
(説明板)
「蓮華寺
新義真言宗で海照山普門院と号し、本尊は聖観世音菩薩で行基の作といわれています。
寺伝によると、むかしこの地に観音堂があって村人の信仰を集めていました。永享十年(一四三八)に、栄源法印が不動明王を背負って遍歴したのち、永住するようになったので、人々が協力してお堂を建て、蓮華寺と称したのが始まりといわれています。
建物は安政二年(一八五五)の地震、大正六年の津波や関東大震災で全壊の厄災にあいましたが、昭和四十七年に鉄筋建築の現在の本堂が完成しました。
■虫除不動
本堂に、不動明王立像が安置されています。昔から「虫除不動」といわれて、子供癇の虫に霊験があらたかであるとして、広く人々に信仰されました。
平成十五年三月 江戸川区教育委員会」
<石造物群>
石柱門手前右手に、石造物群が並んでいます。
<札所碑>
正面 「四國第十一番藤井寺寫」
右側面「西国第十六番清水寺寫蓮華寺」
どちらも現在は確認されていない弘法大師霊場と観音霊場のようです。
興教大師六百五拾遠忌之願で、寛政4(1792)年の造立です。
<庚申塔>
紀年等は確認できず。
大日如来像の出羽三山供養塔です。
「月山 湯殿山 羽黒山」
「善光寺 西國 坂東 秩父」
戒名が多く刻まれているので墓石も兼ねているのでしょう。
台石に延享5 (1748)年の紀年が刻まれています。
<護國英霊供養塔>
参道右手に「護國英霊供養塔」があります。
<弘法大師像>
<六地蔵>
<三界萬霊供養塔>
<本堂>
常報山阿弥陀院西光寺と号します。
<塩舐地蔵>
石柱門手前左手に、とろけた地蔵菩薩が堂宇に祀られています。
古川を通過する舟人が塩を投げて礼拝したといわれています。
<山門>
<慈母観世音菩薩>
<置物>
<本堂>
神道心成睦教団前に鎮座しています。
覚王山不動院真福寺と号します。
(説明板)
「真福寺
真言宗豊山派で、覚王山不動院と号し、本尊は不動明王です。宝徳三年(一四五一)に乗善法印が開山し、後に覚誉上人が中興しました。
■法印中阿筆子塚
平成十二(二○○○)二月登録
区登録有形文化財・歴史資料
真福寺墓地の歴代墓域基壇上にあります。台石に「筆子中」と刻まれ、地元だけでなく小岩地区の筆子の関係したことを示す銘文のある無縫塔です。
■橋本省吾の墓(橋本家墓所)
旧下今井村出身で、明治二十七年に江戸川区で最初の衆議院議員となりました。当時困難を極めた海苔の養殖において、漁民を励まし、援助し、改善を加え、養殖を成功させました。
後に葛西浦漁業組合を設立、初代組合長となりました。
平成十五年七月 江戸川区教育委員会」
<庚申塔>
山門手前、参道の左に二基の庚申塔と地蔵尊があります。
左は寛政12(1800)年銘、右は享保3(1718)年の庚申塔です。
左の庚申塔の左側面には
「猿田彦大神 大正五年十一月改起之」と刻まれています。
右の庚申塔右側面には享保3(1718)年の紀年が刻まれています。
堂宇の地蔵菩薩はとろけていて文字が読めません。
小名木川と古川沿の寺は、とろけ地蔵が多いのが特徴的です。
<山門/寺号標>
<弘法大師壱千百五拾年御遠忌記念/弘法大師壱千百年御遠忌記念>
<稚児大師尊像>
<三界萬霊塔>
<本堂>