○ 古川親水公園
・三角の渡し
・二之江行徳道石造道標
○ 宇田川家長屋門
○ 下今井の行徳道道標
【寺社】別頁
○ 稲荷神社
○ 妙光寺
○ 二之江神社
○ 妙勝寺
○ 蓮華寺
○ 西光寺
○ 伏見稲荷大明神
○ 真福寺
全国の親水公園のモデルとなった国内の親水公園第1号です(昭和48年開園)。
古川の流れを全長1.2kmの公園にしたものです。
(説明板)
「古川の歴史 江戸川区
古川はその昔、船堀川と呼ばれていました。天正18年(1590)家康の江戸入府により、行徳の塩などを江戸に運ぶ重要な水路として利用されました。その後、寛永6年(1629)、現在の三角付近から東へ新たな水路が掘られ、水運の役月はそちらに移りました。この新たな水路と三角付近から西の船堀川を合わせて新川と呼ぶようになり、北関東や東北地方からの物資を運ぶ大動脈として江戸を支えました。これにより、三角付近から東の船堀川は古川と呼ばれるようになりました。
時は明治となり、新川には蒸気船が就航するなど大いに賑わいました。一方、古川は地元の産物などを運ぶ身近な川として地域の生活を支えました。しかし、鉄道の発達による水運の衰退、戦後の経済成長にともなう都市化の波により、雑排水が流れ込む汚濁した川と化しました。
このような状況のもと、地域の人々と江戸川区は「古川の清流を再び取り戻そう」と決意し、昭和49年3月
(1974)全国初の親水公園として古川を甦らせました。そして同年6月には地域の人々により「古川を愛する会」が結成され、古川は新たな歴史を歩むこととなりました。
古川親水公園は「親水」という新しい概念に基づき川を再生させた全国初の先進的な事業として、国内はもとより海外からも高い評価を得ることとなり、歴史にその名を刻んでいます。」
【新川橋】
新川橋と、新川橋に設置されている「新川塩の道」の説明板です。
大正5年に架設された初代「新川橋」の開通祝いの写真が掲示されています。
古川親水公園の新川橋からの起点です。
<古川親水公園案内図>
環七通りで公園は一端、途切れます。
(説明板)
「「三角」名称由来について
古川はその昔、船堀川と呼ばれていました。天正18年(1590年)家康の江戸入府により、行徳の塩
などを江戸に運ぶ重要な水路として利用されていました。その後、寛永6年(1629年)、現在の新川橋付近から東へ新たな水路が掘られ、水運の役目はそちらに移りました。この新たな水路と新川橋付近から西の船堀川を合わせて「新川」と呼ぶようになり、北関東や東北地方からの物資を運ぶ大動脈として江戸を支えました。これにより、新川橋付近から東の船堀川は「古川」と呼ばれるようになりました。
また、この場所は江戸時代から「古川」と「新川」が合流するところでした。江戸時代には現在のような橋はなく、渡し船を利用して移動していました。下絵のように3ヶ所の渡し場を往復することから「三角の渡し」と言われており、「三角」という名称は地域に浸透していき、今も地元住民に広く親しまれています。」
<親水路起点>
親水路が始まります。
○稲荷神社 江戸川区江戸川6-31-91 別途記載
<古川橋>
<古川せせらぎ散歩>
「歴史と文化の散歩道」の「古川せせらぎ散歩」コースの案内地図です。
進みます。
<古川の歴史 江戸川区>
説明内容は同じですが、それぞれに設置場所の昔の写真が掲載されています。
「健康文化都市“えどがわ”健康の道」
「古川親水公園沿線地区 景観まちづくり」
(説明板)
「古川親水公園沿線地区 景観まちづくり
●古川親水公園は、昭和49年3月に完成した日本初の親水公園です。
●当時、古川は下水道の整備と共に埋め立てられる予定でしたが、川を残してほしいという地域の声により、水の流れる公園として再生されました。
●親水公園の豊かなみどりや水辺は、 古川沿線にある保護樹や屋敷林、
寺社と調和し、 歴史や文化を感じる落ち着いたまち並みを形成しています。
●そこで江戸川区では、今後も水とみどりが調和した落ち善きのある環境を維持するとともに、より一層大切にされる古川親水公園を目指し、古川敦水公園沿線を景観地区に定めました。
●景観地区内では、建築物の建て方(色彩や高さ、 壁面の位置など)のルールとともに、建築物の用途や屋外広告物設置の制限などを定めました。
●地域の方が一体となり、古川親水公園の環境を守るだけではなく、一人ひとりが工夫し取り組む暮らし方・住まい方のルールを守ることで、古川親水公園をより魅力ある、後世まで残したい景観として育てていきましょう。」
○妙光寺 江戸川区江戸川6-16-5 別途記載
<野間文橋>
(銘板)
「名所 古川
この川は、もと江戸川の旧河道で天正十八年(一五九○)家康が江戸城に入ってから、行徳の塩を船で運ぶ水路として利用された。その後、寛永六年(一六二九)新川が開かれたので「古川」と呼ばれるようになった。
時は流れて、この田園地帯にも都市化の波が押し寄せ、古川もその中に埋もれ、川としての機能も生命を失われようとした。これを憂いた「江戸川区長」は、親水河川として活用することを決意、昭和四十七年十二月着工同四十九年四月竣工のスピードで、古川は区民の遊びや憩いの場として魅つた、そして優れた工法は「全建賞」の栄誉に輝き、また古川は中学教科書や、遠く海外にも紹介された。
これからも古川のきれいな流れは、多くの人々に愛され親しまれて行くことであろう。
江戸川区教育委員会」
<吊橋>
<植樹131本>
「昭和52年6月18日
チャーターナイト10周年記念植樹
東京江戸川南ライオンズクラブ」
「寄贈植樹
そめいよしのさくら、さとざくら、くすのき
合計131本
会長 那須鶴雄 外67名」
<歴史と文化の散歩道>
(銘板)
「歴史と文化の散歩道 古川せせらぎ散歩
古川せせらぎ散歩は、西葛西四丁目から新中川に架かる瑞穂大橋までの約4.1kmのみちのりです。かつて水上輸送路であった葛西親水四季の道、旧江戸川の河道であった古川親水公園など、せせらぎ沿いの水と緑を楽しむ散歩道です。
古川と新川
古川は、江戸川から中川へと通じる昔の流路です。天正18年(1590)家康の江戸入府後、行徳の塩を江戸へと運ぶ重要な水路でしたが、寛永6年(1629)、現在の三角付近から東へ新たな水路が掘られ、通運の役目はそちらに移りました。これが今の新川で、北関東や東北からの物資を運ぶルートとして、明治時代には蒸気船が就航するなど、内陸水運網の大動脈として賑わいました。その後時代の変遷と共に、古川は生活排水などで汚染され、川としての命を失いかけていました。この古川を水と緑に親しめる公園として残すべく、昭和49年(1974)に完成したのが、全長1.2kmの古川親水公園です。」
<古川の歴史 江戸川区>
昔の「石甚橋」の写真が掲示されています。
<石甚橋>
<道標>
環七通り手前の道標です。
<環七通り>
環七通りに突き当って、古川親水公園は一端途切れます。
歩道橋から古川親水公園を振り返ります。
環七通りを渡った先です。
「古川の歴史 江戸川区」
環七通りが開通前の写真が掲示されています。
<香取橋>
香取橋を渡ると「二之江神社」があります。
○二之江神社 江戸川区江戸川6-44-1 別途記載
「古川の歴史 江戸川区」
二之江神社近辺の古川の写真が掲示されています。
「古川の歴史 江戸川区」
「古川けやき公園」に設置されている説明板です。
昔の香取橋と古川親水公園の建設工事の写真が掲示されています。
香取橋を越えると、右手に二之江神社裏の大けやきが見えます。
○妙勝寺 江戸川区江戸川6-7-15 別途記載
香取橋を過ぎると、左手に江戸名所図会に取り上げられている「妙勝寺」があります。
<二之江コミュニティ会館> 江戸川区江戸川6-46
橋を渡ると右手に「二之江コミュニティ会館」があります。
進みます。古川親水公園は大きく曲がっていきます。
「古川の歴史 江戸川区」
旧江戸川からの導水管工事と二之江コミュニティ会館付近の写真が掲示されています。
説明板は、古川親水公園の外の道路に向いて設置されています。
○蓮華寺 江戸川区江戸川6-4-11 別途記載
説明板は車道を向いて設置されています。
(説明板)
「二之江行徳道石造道標
昭和五十八年(一九八三)三月登録
区登録有形文化財・歴史史料
行徳道は江戸と房総をつなぐ重要な街道です。いつごろできたかは定かではありませんが、少なくとも正保年間(一六四五?一六四八)の地図にはその名が記載されています。明治以後も主要な街道として引きつがれ、今日に至ります。
高さ六七センチ、周長一五ニセンチの丸い自然石で作られた道標です。正面には「是ヨリ左り行徳道」とあり、行徳道への道筋を示したものと考えられます。もとは突留橋の東のたもとにありました。
平成二十六年三月 江戸川区教育委員会」
<古川親水公園終端>
古川親水公園の水路の終端です。
「健康の道 距離1040メートル」
旧江戸川堤防まで、道路は続いています。
<古川親水公園終端> 江戸川区江戸川6-49
水路が消えて遊歩道の終端に「歴史と文化の散歩道」の「古川せせらぎ散歩」コースの案内地図があります。
宇田川家は、二之江村の村役人をつとめていた旧家です。
○西光寺 江戸川区江戸川4-24-8 別途記載
○伏見稲荷大明神 江戸川区江戸川5-1-18 別途記載
○真福寺 江戸川区江戸川4-23-8 別途記載
<旧江戸川堤防>
旧江戸川堤防に突き当ります。
○下今井の行徳道道標 江戸川区文化財弁 江戸川区江戸川4-20-8 船宿あみ弁
船宿あみ弁の前に「行徳道道標」があります。
江戸川区教育委員会の説明板は設置されていませんが、江戸川区文化財の道標です。
かつて古川に架かっていた橋の袂に置かれていた道標です。
紀年は記されていませんが、江戸時代の道標とされています。
正面「青面金剛」
左側面「左 江戸道」
右側面「右 行徳道」