Discover 江戸旧蹟を歩く
 
 浜離宮恩賜庭園

 〇 浮世絵に見る浜御殿
 〇 大手門三百年の松
 〇 中の御門
 〇 浜離宮恩賜庭園のうつりかわり
 〇 延遼館跡
 〇 内堀
 〇 旧稲生神社
 〇 灯台跡
 〇 将軍お上がり場
 〇 新樋の口山
 〇 横堀水門
 〇 樋の口山
 〇 潮見の御茶屋跡
 〇 富士見山
 〇 観音堂跡
 〇 馬場跡
 〇 御庭口御門跡
 〇 野外卓広場
 〇 可美真手命像
 〇 芳梅亭
 〇 花木園
【鴨場】
 〇 新銭座鴨場
 〇 鴨之塚碑
 〇 庚申堂鴨場
【潮入の池】
 〇 横堀(潮入の池)
 〇 海手お伝い橋
 〇 御亭山
 〇 松の御茶屋
 〇 鷹の御茶屋
 〇 燕の御茶屋
 〇 潮入の池
 〇 お伝い橋
 〇 小の字島
 〇 中島の御茶屋


浜御殿

「名所江戸百景 芝うらの風景」(広重 国立国会図書館蔵)

 浅瀬を示す木の杭(澪標)の奥の海上に台場が見えます。
 右側に描かれた石垣には諸説あり、「浜御殿」説と、浜御殿の石垣は一直線なので、いくつかの屋敷を描いたとする説があります。

  

「於御浜御殿徳川大樹御船手西瓜合戦上覧之図」(月岡芳年)

 御船手組の屈強な男たちが紅と白の鉢巻きをして紅白に分かれてスイカを奪い合う「西瓜合戦」行っています。
 石垣の上、浜御殿から将軍が上覧しています。
 御船手組の水泳や武芸の鍛錬を目的としているのでしょうが、紙風船や紙達磨が空中を舞い夏祭りみたいな光景です。

   

「千代田之御表 浜御成」(楊洲周延 明治30年)

 将軍が浜御殿へ出かけて、釣りをしているところです。
 釣り好きと伝承されているのは吉宗だけなので、こちらの将軍は八代将軍吉宗らしいです。

  

「浜御殿御遊覧之図」(豊原国周)

  

「春色浜庭の千代鶴」(楊州周延 明治11(1878)年)

  

「江戸切絵図」

 浜御殿部分の抜粋です。

  

「浜御殿苑池指図」(国立国会図書館蔵)

 文化頃の浜御殿の図です。

  

〇浜離宮恩賜庭園 中央区浜離宮庭園1-1

大手門

(説明板)
「旧浜離宮恩賜庭園 沿革
 この地はもと将軍家鷹狩の場所であったが承応年間 松平綱重の別邸となり、甲府浜屋敷または海手屋敷といわれた。ついで六代将軍 徳川家宣これを改めて浜御殿と改称し大いに改修を行い景観を整えた園内には、茶園、火薬所、織殿等が営まれ幕末には、石造洋館、延遼館の建設をみた。維新後、宮内省所管となり、園地を復旧し、皇室宴遊の地にあてられ、名も浜離宮と改められた。諸外国貴賓来訪の際には、延遼館はその迎賓館にあてられ明治天皇も賜宴のためしばしば本園に行幸せられ、特に明治十二年、米国前大統領グラント将軍が、わが国を訪問せられた際には親しく本園中の島茶屋において引見せられた。園は江戸時代に発達した大名庭園の代表的なものであって現存する汐入の庭の典型的なものとして貴重な文化財である。
  昭和二十三年十二月 文部省」

    

(標柱)
 (正面) 「名勝及び史跡 旧浜離宮庭園」
 (左側面)「昭和二十五年三月建設 東京都」
 (右側面)「史跡名勝特別天然紀念物保存法上により
       昭和二十三年十二月文部大臣指定」

    

(説明板)
「浜離宮恩賜庭園 沿革
 寛永の頃までは将軍家鷹狩りの場所であったが、承応3年(1654)甲府宰相綱重が埋立て別邸とし、甲府浜屋敷(海手屋敷)と呼ばれていた。その後、綱重の子家宣が6代将軍となったため公収され名も浜御殿と改められ、将軍家の慰安場、社交場として大いに利用された。
 維新後 宮内省所管となり、園地を整備し皇室宴遊の地にあてられ名は、浜離宮と改められた。明治2年落成した延遼館は、洋風石造建築で鹿鳴館とともに世上にしられ、迎賓館にあてられるなど由緒ある建物であったが、明治22年取りこわされた。
 昭和20年11月3日東京都に下賜され、一般に開放された。江戸時代に発達した大名庭園の代表的なもので、現存する潮入りの庭として貴重なものである。昭和27年、庭園全体が、国から重要文化財として特別名勝及び特別史跡の指定をうけている。 東京都」

    

三百年の松>

 6代将軍徳川家宣のとき植えられたという都内最大の黒松です。

(説明板)
「三百年の松
 およそ300年前の宝永6(1709)年、6代将軍徳川家宣がこの庭園の大改修を行った(その頃から「浜御殿」と改称された)頃に植えられたものといわれ、現在では、都内最大級の黒松となっています。」

    

中の御門

    

(説明板)
「中の御門は、江戸時代初期の頃から大正時代に使用されていた出入り口です。通用門、表門と時代ごとに役割が変わりました。大正12年(1923)の関東大震災で中の御門橋がなくなり、昭和2年(1927)に橋台の石垣が撤去されました。平成17年(2005)に中の御門地区の整備を行いました。」

    

浜離宮恩賜庭園のうつりかわり@〜C

   

(説明板)
「浜離宮恩賜庭園のうつりかわり@
6代将軍徳川家宣(1662〜1712)
将軍在職 1709(宝永6)〜1712(正徳2)
◆綱豊は家宣と改名
◆御庭を大改修
◆大手門や橋、中島の御茶屋、清水の'御茶屋、海手の御茶屋、観音堂、庚申堂等を建てた
◆浜奉行を置いた
◆観艦式を行った
◆公家の接待の場として活用
浜離宮恩賜庭園の歴史は、1654(承応3)年、4代将軍徳川家綱の弟徳川綱重がこの地に屋敷を構えたことに始まる。1704(宝永元)年、徳川綱重の子徳川綱豊が叔父の5代将軍綱吉の養子となったことから、この地は将軍家の別邸となり、浜御殿と呼ばれるようになった。」

  

(説明板)
「浜離宮恩賜庭園のうつりかわりA
8代将軍 徳川吉宗(1684〜1751)
将軍在職 1716(享保元)〜1745(延享2)
◆吉宗は、この地を実学の実験場として活用
◆サトウキビや薬草の栽培
◆狼煙の実験や西洋騎馬術の訓練を実施
◆浜御殿の役人を大幅に削減
◆5代、6代将軍の側室の館を建築
◆象を飼育」

  

(説明板)
「浜離宮恩賜庭園のうつりかわりB
11代将軍 徳川家斉(1773〜1841)
将軍在職 1787(天明7)〜1837(天保8)
◆家斉は、8代将軍吉宗の曾孫
◆御庭への関心が高く、大改修を行う
◆松の御茶屋、鷹の御茶屋、燕の茶屋、お伝い橋、新銭座鴨場等を設けた
◆浜御殿への御成は、将軍在位50年間に248回と最多。
 その主な目的は、鴨場での放鷹であった。」

  

(説明板)
「浜離宮恩賜庭園のうつりかわりC
122代天皇 明治天皇(1852〜1912)
天皇在位 1867(慶応3)〜1912(明治45)
◆延遼館が建てられ、迎賓館として諸外国の要人をお迎えし、舞踏会等が行われた。
◆明治天皇は、明治維新後荒廃していた鴨場の復興を命じた
◆1883(明治16)年から観桜会を実施
 1916(大正5)年まで続いた」
「浜御殿は、1866(慶応2)年に海軍所となり、園内に大砲が据付けられた。明治維新後、1869(明治2)年に延遼館が完成。延遼館とその周辺の土地は外務省所管。1870(明治3)年に従来の御庭の部分が宮内省の所管となり、浜離宮と称される。1874(明治7)年に延遼館以外すべての園地が、1884(明治17)年には園全体が宮内省の所管となった。」

  

延遼館跡

 明治2(1869)年に近代日本初の迎賓施設として整備されました。明治12(1879)年には、ジョサイア・コンドル設計により改修が行われました。
 多くの国賓を迎えましたが、明治22(1889)年に老朽化のため解体されました。

「浜離宮并延遼館之図」(明治20年 国立国会図書館蔵)

   

(説明板)
「延遼館跡
 延遼館は、イギリス王子が国賓として来日することを契機に、外国要人の迎賓館として明治2(1869)年5月に政府によって建てられました。明治12(1879)年7月には、アメリカのグラント将軍(第18代アメリカ大統領)が、約2ヶ月滞在しました。その後も、多くの国賓を迎え、鉄道開業式など国の行事の際にも使用されましたが、明治22(1889)年12月、老朽化のために取り壊しが決定し、ほどなくしてその歴史に幕を閉じました。」

   

    

内堀

 「築地川」から繋がる「内堀」です。

     

     

(説明板)
「内堀
 ここは浜離宮恩賜庭園で「内堀」と呼ばれています。
 江戸時代、京都や大阪あるいは長畸などから船で連ばれてきた物資を江戸城に入れるための中継施設でした。
 現在、お花畑や広場になっているあたりには「籾倉」と呼ばれる倉が建てられていました。また、内堀の護岸は間知石を用いた石積みでつくられ、荷揚げ用の階段も設けられていました。
 工事のときに行われた発掘調査では、現状の石積みの背後に埋もれた船着場や、木製の水道管の樋管と思われる構造物などの江戸時代の様々な遺構が発見されました。平成21年に行われた修復工事では、2か所の荷揚げ用の階段も復元しました。」

  

    

旧稲生神社

 天明2(1782)年銘の鳥居です。

   

 手水鉢の一つは、安政6(1859)年銘です。

    

 拝殿、本殿です。

   

(説明板)
「旧稲生神社
 旧稲生神社の創建時期は明らかではありませんが、江戸時代後期の絵図には現在の場所より西方に稲荷社が描かれていることから、庭園内に稲荷社が古くから祭られていたことが知られています。
 現在の建物は、前身となる社殿が明治27年(1894)6月20日に東京湾を震源とする地震で倒壊したため、翌年に当時の宮内省内匠寮の手によって、同規模・同形式で再建されたものです。一方、内部に祭られている宮殿は、その建築技法から江戸時代後期のものであると推定されています。
 建立から現在に至るまで、幾度か修理の手が加えられたことが、調査によって判明しています。なかでも,大正12年(1923)9月1日に発生した関東大震災では大きく破損し,倒壊は免れたようですが,昭和6年(1931)に同じく内匠寮によって大修理が行われました。そして、平成17年には文化財としての大掛かりな修理を行ない,ここに明治時代の創建当時の姿を伝えています。」

   

灯台跡

   

 東京湾(築地大橋、築地川水門、汐留第二ポンプ所放流管>

    

将軍お上がり場

 慶応4(1868)年、将軍徳川慶喜が大坂から軍艦開陽丸で江戸に帰って上陸したのもここです。

     

(説明板)
「将軍お上がり場
 江戸時代、歴代将軍が舟で御成りする際にこのお上がり場が使用されました。暮末、鳥羽伏見の戦いに敗れた最後の将軍徳川慶喜が大坂から船で帰還して上陸した歴史もあります。」

  

「浜御殿苑池指図」(国立国会図書館蔵)

 文化頃の浜御殿の図から「将軍お上がり場」の抜粋です。
 「御上リ段」「御次」とあり、その先に「御船ツナギ杭」があります。
 御殿の端には灯台が見えます。
 海上には「高札」と「一番御留杭」が見えます。

  

新樋の口山>

 「新樋の口山」に上ると、レインボーブリッジが見えます。

   

  

横堀水門>

 「浜離宮恩賜庭園」の「潮入の池」に海水を引き入れている「横堀水門」です。

    

(説明板)
「横堀水門
 六代将軍徳川川家宣の時代には、この辺りに堰があり、海水の出入りを調節したと考えられています。
 この横堀水門は現在、園内で一番大きな水門で、潮の干満を利用して東京湾の海水を「潮入の池」に引き入れたり、出したりしています。」

  

(説明板)
「潮入りの池の生きもの
 潮入の池は隅田川の出口に当たるところに位置しており、そこから水を取り入れているので、この池の水は川と海のものが混ざっています。そのため、川にすむコイやメダカ、ドジョウなどの魚はすんでおらず、ハゼやカニなど、川の出口に多い生きもののすみかになっています。マハゼ、チチブ、ビリンゴ、ドロメ、ボラ、マルタウグイ、チチュウカイミドリガニ、ユビナガスジエビ」

  

樋の口山>

 登山道はなく、標板が建てられています。

  

潮見の御茶屋跡>

(説明板)
「潮見の御茶屋跡
 最初に建てられたのは、宝永4(1707)年とされています。初代の建物は「海手茶屋」「海涯の亭」などと称されており、房総半島などを望むことができ、風景を楽しんだり、船などの見物をしたようです。
 「汐見」と称されたのは、明治に入ってからと思われます。
 大正12年(1923) 9月1日関東大震災により焼失してしまいました。
 御茶屋とは、茶室とは異なり、将軍の接待や休憩場所として建てられた建物です。」

    

 汐留第二ポンプ所放流管が見えます(こちらで記載)。

   

富士見山>

     

観音堂跡>

 石の階段が残っています。

  

(説明板)
「観音堂跡
 1710年頃、建てられました。徳川将軍家の別邸であった際は、将軍や訪れた客人も多くここに立ち寄った場所です。当時は、観音堂の左に鐘楼もありました。家臣がこの庭園に招かれた際には、このあたりに植えられた木々は、記念品として贈られたといわれています。残念ながら、皇室の離宮になってから間もなくなくなり、現在は石の階段が当時の面影を今に伝えています。」

   

馬場跡>

    

(説明板)
「馬場跡
 馬場は二箇所ありました。延遼館跡の東側園路の表馬場と内馬場ともよばれたこの馬場です。周囲は柾き生垣が設けられた土手で、内側に排水溝が敷設されていました。馬場は馬術を稽古する所ですが、その技を将軍や貴賓が上覧する御馬見所がありました。西洋馬を輸入した八代将軍吉宗はドイツ生まれの馬術師ハンス・ユルゲン・ケイゼルを招き、家臣に西洋馬術を習得させました。この時ケイゼルは四箇月ほど浜御殿に住み指導しました。十代将軍家治は121人の家臣に乗馬を命じたこともあります。また、騎射も上覧しています。十四第将軍家茂の御台所皇女和宮は乗馬も御覧になっています。御馬見所は大正12年の関東大震災で焼失しました。」

   

御庭口御門跡>

  

野外卓広場>

  

可美真手命像>

   

(説明板)
「可美真手命像 うましまでのみことぞう
 明治27(1894)年、明治天皇の銀婚式を記念して陸軍省が行った懸賞募集に当選した作品で、佐野昭氏が制作、鈴木長吉氏が鋳造したと言われています。」

  

芳梅亭>

 「芳梅亭」は有料の集会施設です。

   

花木園/売店>

   

新銭座鴨場

 元溜り
    

(説明板)
「新銭座鴨場 しんせんざかもば
 「鴨場」とは、古くから大名の別荘地などに設けられていた野生の鴨などの水鳥を遊猟するための場所のことです。現在、鴨場が見られるのは全国で5箇所しかないとのことですが、そのうちの一箇所が浜離宮恩賜庭園の鴨場です。
 鴨場は、飛来した水鳥が休むための島を配置した「元溜り」と呼ぶ大きな池と幾筋かの引き込み水路「引堀」からなっています。池には、獲物の水鳥たちを引堀へ導き入れてくれるよう訓練された囮の家鴨を放しておきます。周囲は約3メートルほどの高さの上手で囲み、笹や竹、常緑樹などを隙間なく植えて、人の気配を感じさせないようにし、飛来した水鳥が安心して休息できる環境を作ります。元溜りを見渡せる監視所の「大覗」から水鳥の集まり具合や風向きなどを確認し、猟を行う引堀を決めます。引堀の奥の見張りが隠れる「小覗」から、板木をたたきながらヒエやアワなどの餌を撒き、囮で引き寄せられた水鳥を、引堀の小上手から網や鷹を使って捕る猟を行っていました。
 ここ「新銭座鴨場」は、寛政3年(1791年)に築造され、その後幾度かの改修を経て現在の形になっています。「新銭座鴨場」の名称は、この鴨場の西南側の地名が新銭座町であったことに由来します。」

   

(説明板)
「鴨猟の方法
 1 元溜りに囮のアヒルが放されています。秋から冬にかけて鴨などの水鳥が渡ってきます。
 2 小覗にある木の板を打ち鳴らします。飼い馴らされたアヒルを引掘におびきよせるためです。
 3 餌がもらえるのでアヒルが入ってきます。水鳥もつられて入ってきます。
 4 鷹匠※が引堀に入ってくる水鳥の様子を確認しています。
   ※鷹狩りのために鷹を飼いならす人
 5 鷹匠の合図で引堀をはさんで配置につきます。
 6 おどかされて逃げ惑う水鳥めがけて鷹を放ちます。」

   

「小覗/引堀」

      

「大覗」

     

「小覗/大覗」

     

鴨之塚碑>

 「昭和十年十一月五日之建
  鴨之塚
  鷹匠 戸辺與四郎」

   

(説明板)
「鴨塚の碑
 園内には、庚申堂鴨場と新銭座鴨場があります。鴨場とは、鴨などを捕獲するための施設です。安永7(1778)年10代将軍徳川家治の時代以降、浜難宮の時代まで、ニつの鴨場では、鴨猟が行われていました。この碑は、宮内省の鷹匠 戸部輿四郎氏が、ニつの鴨場で捕獲された鴨たちを供養するために昭和10(1935)年に建てたものです。」

  

庚申堂鴨場

「小覗」

     

(説明板)
「庚申堂鴨場
 「鴨場」とは、古くから大名の別荘地などに設けられていた野生の鴨などの水鳥を遊猟するための場所のことです。現在、鴨場が見られるのは全国で5箇所しかないとのことですが、そのうちの1箇所が浜離宮恩賜庭園の鴨場です。
 鴨場は、飛来した水鳥が休むための島を配置した「元溜り」と呼ぶ大きな池と幾筋かの引き込み水路「引堀」からなっています。池には、獲物の水鳥たちを引堀へ導き入れてくれるよう訓練された囮の家鴨を放しておきます。周囲は約3メートルほどの高さの土手で囲み、笹や竹、常緑樹などを隙間なく植えて、人の気配を感じさせないようにし、飛来した水鳥が安心して休息できる環境を作ります。元溜りを見渡せる監視所の「大覗」から水鳥の集まり具合や風向きなどを確認し、猟を行う引堀を決めます。引堀の奥の見張りが隠れる「小覗」から、板木をたたきながらヒエやアワなどの餌を撒き、囮で引き寄せられた水鳥を、引堀の小土手から網や鷹を使って捕る猟を行っていました。
 ここ「庚申堂鴨場」は、安永7年(1778年)に築造され、その後幾度かの改修を経て現在の形になっています。庚申堂鴨場の名称は、この鴨場の北東側に庚申堂があったことに由来します。」

  

「浜御殿苑池指図」(国立国会図書館蔵)

 文化頃の浜御殿の図に「庚申」と記されています。

  

横堀(潮入の池)】
海手お伝い橋>

    

御亭山>

    

松の御茶屋>

   

「松の御茶屋」北側の説明板です。

(説明板)
「再現された精緻な技法
賓客をもてなすしつらえ 室内の壁と漆による仕上げ
張り付け壁
 室内の壁は「張り付け壁」という技法で作られています。これは、和紙を貼った板を壁にはめ込み、黒い漆を塗った細い角材で壁に固定する伝統技法です。この建物に使われている和紙は「泥間似合紙」と呼ばれる紙です。雁皮という植物の繊維に粘土を混ぜて漉いたもので、丈夫で燃えにくい紙です。兵庫県西宮市名塩の人間国宝、谷野剛惟さんがこの建物のために漉いたものです。
丁子引きと金小松模様
 壁紙の縞模様は「丁子引き」と呼ばれる技法です。香辛料にも使われる「丁子」の蕾から採った染料を櫛状の刷毛で塗ったもので、防虫にも効果があリます。
 金色に輝く松の模様は、老舗の紙屋さんが所蔵していた1840 (天保11)年製作の版木で刷られたものです。雲母の粉とフノリを混ぜて版木に塗リ、「泥間似合紙」に手作業で刷られました。
棚板の「拭き漆仕上げ」
 5段重ねの棚板は「拭き漆仕上げ」です。ヒノキの一枚板に、生漆を塗っては拭き取る作業を2〜3回繰リ返し、美しい木目を際立たせています。5段の棚板を重ねた独特のつくりで、江戸時代にはここに調度品を飾って鑑賞したそうです。
丸窓の「呂色仕上げ」
 丸窓などにみられる黒の漆塗は「呂色仕上け」と呼ばれる技法です。漆を塗っては木炭で研ぎ出し、これを何度も繰リ返すことで他の塗料では出せない深い黒味に仕上げています。

特徴的な屋根のかたち
こけら葺き
 屋根は、池側からの姿にも配慮した形になっているほか、柔らかなカーブが描かれており、庭園の景色になじむよう工夫されています。
 屋根の葺き方は「こけら葺き」と呼ばれる技法です。天然のサワラ材を手作業で3mmほどの薄さに割り、それを竹の釘で一枚ずつ屋根に止めていきます。
巻茅
 屋根の端部は「こけら」で巻き込むように葺かれています。「巻茅」と呼ばれる技法で、屋根を軽快に見せるための工夫です。京都の修学院離宮の建物でも見ることができる技法です。

趣向を凝らした木材選び
屋久杉
 天井の板は、樹齢1000年ほどにもなる屋久杉が使われています。
国産のツガ材
 柱や床板などは国産の栂(つが)材が便われています。材質が緻密で堅く木肌も美しいことから、かっては「栂普請」として広く用いられていた木材です。近年ではとても入手が困難です。」

  

(説明板)
「松の御茶屋の復元
歴史をひも解く
歴史資料調査
 宮内庁、東京国立博物館、都立中央図書館などの協力により絵図、古写真、古文書等の調査を行いました。
発掘調査
 平成20年に、建物跡の発掘調査を行い「松の御茶屋」本来の礎石(柱などを支えていた石)の存在を確認しました。
専門家による監修
 調査、設計、施工など様々な過程で建築や造園の専門家による監修を受けながら復元を進めました。

歴史に忠実に復元する
史実に沿った復元
 多くの歴史資料に基づいて綿密に時代考証を行い、寸法、材料、工法に至るまで、可能な限り、歴史資料どおりに再現されています。
遺構の保存
 現存していた礎石は、主に神奈川県足柄産の小松石です。建物が復元された後も、そのままの形で残されています。
建物と庭園との調和
 「松の御茶屋」と庭園とが自然に連続するよう、池に面した側は開放的なつくりになっています。室内から庭園を眺めると、まるで庭の中に身を置いているかのように感じられます。

今の技術を活かす
 この建物の安全性を高めるため、見えないところで現代工法が使われています。
コンクリートを使った建物の基礎
 地中に眠る遺構を建物の重さから保護するとともに、柱などをしっかリと固定するため、コンクリートの基礎を造リ、その上に建物を建てました。
壁などの強さを高める工夫
 天井裏では斜めの方向に補強材を入れ金具で固定しています。また屋根とコンクリート基礎をつなぐ鉄骨フレームが戸袋の裏に隠されています。」

  

(説明板)
「江戸時代の華を受け継ぐ浜離宮恩賜庭園
いくつもの時代を経て江戸の姿を今に伝える庭園
 浜離宮思賜庭園のある場所は、もともと将軍家の鷹狩りの場でしたが、1654(承応3)年、徳川綢重が兄の4代将軍徳川家綱より邸地を与えられ、江戸湾の一部を埋め立て屋敷を建てたことから歴史が始まります。
 江戸初期には甲府藩の下屋敷として使われ、第11代将軍徳川家斉の時代(1787(天明7)年〜1837(天保8)年)に庭園の大改修が行われ、現在の庭園とほぼ同じ姿になリました。将軍家の別邸として多くの賓客をもてなした華やかな時代を過ぎると、幕末には海側の防御のため海軍所となり、砲台が置かれた時代もありました。1923(大正12)年の関東大震災、また第ニ次世界大戦の戦災で、庭園内の多くの建物と樹木が焼失しました。
 1945(昭和20)年、東京都に下賜され、翌年、都立庭園として開園、1952(昭和27)年には特別名勝・特別史跡に指定されました。
 かっては将軍家の庭、その後は皇室の庭、現在は公共の庭と、時代とともに庭の主人公も移り変わりながら現在に至っています。

歴代将軍が賓客をもてなした庭園と御茶屋
 御茶屋は、歴代将軍たちが賓客と庭園の景色を楽しみながら食事をしたり、和歌を詠むなど、優雅な時間を過ごす場でした。
 将軍や賓客が庭園の魅力を最大限に堪能できるよう、移動ルートや鑑賞の順序などがあらかじめ計画され、各御茶屋にある掛け軸、茶器、文房具などの作者や、それらを飾る場所なども趣向を凝らしたものでした。
 この庭園の御茶屋群は、庭園の景色を構成する上でも重要な存在です。これらの御茶屋は11代将軍徳川家斉の時代に建てられましたが、関東大震災や第ニ次世界大戦の戦災によリ焼失してしまいました。松の御茶屋は平成22年に、燕の御茶屋は平成27年に、鷹の御茶屋は平成30年に、それぞれ復元され、往時と変わらぬ姿がよみがえりました。
@中島の御茶屋
 将軍が賓客たちと共に和歌を詠んだり、「潮入りの池」に浮かぶ船上の音楽を楽しんだ場所です。米国前大統領グラントが明治天皇と会見した場所でもあります。
※1983(昭和58)年に再建。
A松の御茶屋
 「中島の御茶屋」と対をなす端正な外観の御茶屋です。「潮入りの池」の目の前に建っており、池への眺望が大変良い御茶屋です。1869(明治2)年、英国公使パークスとの会食場としても使われました。
※2010(平成22)年に復元。
B燕の御茶屋
 名前の由来は、釘隠しの形が燕または、燕子花(かきつばた)の形だったからともいわれています。当時は南宋の画家蓮亀の絵を飾り、菓子や肴で客をもてなしたそうです。
※2015(平成27)年に復元。
C鷹の御茶屋
 将軍が鷹狩りをする際の休息所として使われていた御茶屋です。野支度のまま立ち寄れるように広い土間があり、土間には囲炉裏もありました。
※2018(平成30)年に復元。
D汐見の御茶屋(海手の御茶屋)
 最も海への眺望が良い御茶屋です。奥女中達が将軍の御座船を見物したリ、漁夫達の漁猟の様子を物珍しく眺めた場所でもあります。」

  

鷹の御茶屋>

    

(説明板)
「鷹狩と鷹の御茶屋
権威の象徴としての鷹狩
鷹で獲物を捕まえる鷹狩
 鷹を使って鳥や小動物を捕まえる狩猟のことを「鷹狩」といいます。その鷹を飼いならす人のことを「鷹匠」と呼んでいました。
古くから育まれた鷹狩文化
 鷹狩は古くから世界中で行われ、日本では約1500年前にさかのぼるといわれています。天皇や将軍など時の権力者により、権威の象徴として行われてきました。

鷹狩の待合所・休息所であった鷹の御茶屋
戦災で消失した鷹の御茶屋の復元(平成30年3月)
 鷹の御茶屋には、将軍が鷹狩の合間に野支度のまま立ち寄れるように広い土間がありました。また建物の裏には、鷹が待機するための「鷹部屋」がりました。
獲物の鴨などがいる池「鴨場」
 浜離宮の庭園内には、鷹狩の獲物となる鳥をおびき寄せるために造られた、庚申堂鴨場と新銭座鴨場が現在も残っています。」

  

【室内掲示】

  

(説明板)
「将軍が田舎の風情を楽しむ建物
御見合所から鷹の御茶屋へ
第11代将軍徳川家斉の時に建てられた当初は「御見合所」「わらぶきの御亭」という名称でした。明治に入り鷹狩が行われなくなると、接客のための「御茶屋」としての利用が主になり「鷹の御茶屋」と呼ばれるようになったようです。
将軍の過ごし方
寒い朝には大きな地炉(土間に作った炉)で芋や栗を焼いていたなどの記録があり、将軍が田舎の風情を楽しんでいたことが窺えます。
◯将軍が休憩や暖をとる際に腰を掛けるための畳敷の上段が構えられていました。
◯鷹狩に使う鷹を休ませる鷹部屋が付属していました。
◯鷹狩の装束のまま出入りしていたため室内は土間叩きで地炉がありました。明治時代になると、御茶屋の機能として水まわりの装備を整えたようです。

数多くの史資料から復元
◯建築当初から大正時代までの平面形状や間取りがわかる絵図史料
◯違棚が描かれた詳細図
◯幕末から明治・大正にかけて撮影された外観・室内の古写真
◯江戸時代の様子が書かれた文献史料
◯明治以降の修理記録 など

遺構の保存
 建築当初から消失するまで残存していた礎石や地炉などの遺構は、歴史的価値を伝えるため、そのまま保存しています。」

  

(説明板)
「庭園の最盛期 第十一代将軍徳川家斉の時代
古来より伝わる鷹狩の伝統ー今日まで継承されたきた貴重な浜離宮恩賜庭園の鴨場ー
日本書紀に始まる鷹狩の歴史
 仁徳天皇が百舌鳥野(大阪市堺市)で狩をし、多くのキジを捕ったことが書かれている。
鷹狩文化が洗練された江戸時代
 庶民の鷹狩は禁じられていましたが、将軍や大名の多くが「御鷹場」へ鷹狩に出かけ、そのために必要な制度を整備しました。鷹狩は楽しむだけでなく、捕らえられた獲物を贈答、饗応することで主従関係を築いたり庶民生活を視察するなど、儀礼的・政治的な要素もありました。
整備された鴨場を利用した鷹場
 浜御殿(浜離宮)では、鷹狩のために整備した鴨場で、野生の水鳥を呼び寄せるために囮となるアヒルを飼育し、狩を行っていました。
外国との社交場であった明治時代
 旧幕府の鴨場が宮内省により修復されました。鴨猟の方法も、姿を変えながら、諸外国との社交の場として利用されていました。

最盛期を迎えた浜御殿での鷹狩
第5代将軍徳川綱吉が発令した「生類憐れみの令」の影響により、鷹狩が中止されましたが、第8代将軍徳川吉宗により鷹狩が復活し、さらなる整備と強化が行われました。
 浜御殿では、第11代将軍徳川家斉(在位:1787〜1837)の時代に、賓客をもてなすため鷹の御茶屋、松の御茶屋、燕の御茶屋を建て、鴨場を増設・拡張するなど、庭園としての最盛期を迎えました。」

  

【外掲示】
(説明板)
「鷹と鷹匠
約2ケ月間行われる鷹の調教ーオオタカー
馴らし 鷹匠に対する警戒心を解く
◯羽根の汚れを取リ、爪と嘴を整え、足革などの必要な鷹道具を装着します。
◯最初は鷹を驚かさないように、真っ暗な鷹部屋に入れて落ち着かせます。
〇鷹の体調や様子を見て、1〜2週間の絶食を行い、体脂肪を下げる「詰め」を行います。
〇この後、暗闇の中で鷹を拳に乗せる「据え」を行い、鷹が人間から餌をもらっても安全だと覚えたら、鷹部屋内を据えて歩き、音に馴らすなど徐々に様々な状況に馴らしていきます。
〇鷹の警戒心が解けてきたら、鷹部屋の外に出て、歩き回ってみます。鷹は見慣れない人や物事に驚きやすいので、全て夜に行います。
〇十分な据え回しを行し、必要な合図を教えるとができれば、鷹(素直で癖のない物事に動じない鷹)に仕上げることが容易になると言われています。

様々な役割を持つ鷹道具
@策:鷹の嘴を拭いたり、翼と尾羽を整えるときに使う棒。
A大緒:鷹を据えたり架にとめたりするとき足革につなぐ絹製の紐。
Bえがけ:鷹匠が鷹を据えるとき拳につけるいぶし鹿革製の手袋。
C抉:鹿の角などの先端をとがらせ、足革の穴を広げたりする時に使うもの。
D隼頭巾:調教時や狩でハヤブサに被せる頭巾。
E餌合子:薄く切った餌を入れ、調教や狩に使うもの。
F鈴板と尾鈴:鈴の音で位置を確認できるよう鷹の尾に装着するもの。
Gロ餌籠:藤製の籠で、ロ餌を入れるもの。
H丸鳩入れ:丸鳩を入れるための餌入れ。
I鳩袋:調教時や狩で生きたハトを入れ携帯するための袋。
J忍縄:絹製の細い紐で、調教などに使うもの。
K爪嘴小刀:鷹の爪と嘴を削るために使う小刀。

鷹狩に使われる鷹
9月下旬から10月下旬にかけて南に向かう渡り鳥を追いかける野生の若鷹を捕獲しました。
雌のほうが体が大きく狩が得意だったと言われてます。
鷹の種類
鷹:ハイタカ、オオタカ
隼:ハヤブサ、オオハヤプサ」

  

(説明板)
「鷹が待機する鷹部屋
出番を待つ鷹
鷹の御茶屋には、将軍が鷹狩に訪れた際に、鷹か出番を侍うための施設として鷹部屋が作られていました。鷹が普段どこで飼育されていたのか、詳しいことはわかっていません。
繊細な鷹が過ごしやすい空間
鷹部屋は外側にしか出入口がなく、室内から鷹の様子を見ることはできません。
内部は鷹がおびえないように暗くなっていたそうです。鷹の御茶屋の鷹部屋は、絵図や数少ない鷹部屋の事例を参考に復元されました。

鷹の御茶屋に復元された鷹部屋」

  

(説明板)
「時代を経て変化した鴨猟の方法
江戸期ー鷹による獲物の捕獲ー
@大覗から水鳥の様子を確認
 水鳥の集まり具合や風向きなどを確認し、狩を行う引堀を決めます。
A小覗で板木を鳴らす
 アヒルに餌をあげる合図として、小覗の板木を鳴らします。
B鴨が引堀に入る.
 アヒルが引堀に入ると、水鳥もつられて入ってきます。
C小覗から鷹匠に配置につく合図を送る
 小覗から獲物が来たことこを確認し、手信号で隠れている鷹匠に合図します。
D鷹匠の登場
 合図を確認し、隠れていた鷹匠が引堀をはさんで配置につくと、水鳥が驚いて飛び立ちます。
E鷹で鴨をとらえる
 飛び立った水鳥めがけて鷹を放ち捕らえます。」

鴨場の仕組み
鴨場は水鳥の習性を把握して合理的に設計されています。
元溜り
鴨などの水鳥がいる池
大覗
元溜りを観察する場所
引堀
小覗
獲物を引堀におびき寄せるため音を鳴らしたリ、引堀の様子を観察するための場所。
普段は囮のアヒルに餌を与えています。

明治期ー叉手綱(さであみ)による獲物の捕獲ー
明治時代以降は、鷹に代わり叉手綱で鴨を捕まえました。しかし、空高く逃げた鴨は、仲間にこの池の危険を知らせるまえに、鷹が捕まえました。」

  

燕の御茶屋>

  

(説明板)
「継承される職人の技術
伝統的な技術を継承する職人により、当時の寸法や材料のほか工法まで可能な限り再現されています。
木工事 精緻な伝統技術
@原寸引き付け
 原寸大の図面で部材の納まりや寸法を確認
A柱のひかり付け
 礎石の形に合わせ隙間なく加工(ひかり付け)
B長押の加工
 磨き丸太の曲線に合わせ隙間なく削り合わせる
C軸組の組み立て
 加工した部材の組み立て
こけら葺
サワラ材の丸太を手割りし重ね合わせて葺く伝統的技法
@こけら板の拵え
 厚さ3mmの板に仕上げる
A軒付の確認
 定規をあて軒寸けの納まりを確認
B軸付けの取り付け
 竹釘で軒付け板を3段に重ねる
C平葺
 こけら板を1枚ずつ竹釘で打ち付ける
左官
大坂土を使った色壁による仕上げ
@内部色壁仕上げ(大坂土)
 宮中の建物などにも使われている赤みのある色土
A小舞掻付け
 割竹を藁縄で格子状にした下地(小舞掻付け)
B荒壁付け
 下地に荒壁土を塗り鏝で平らにする
C木摺壁の下塗り
 木摺壁には漆喰を塗り髭子を伏せ込む
燕の釘隠し金具
赤銅色に輝く24種類の形の燕
@型出し
 銅板を叩き出し立体的にする
A毛彫り
 鏨で羽や足の細部を仕上げる
B釘の蝋付け
 裏側に釘を蝋付けする
C煮色仕上げ
 溶液に漬け煮立てることで日に当たると赤銅色(青みがかった黒色)に発色する」

  

(説明板)
「燕の御茶屋の復元
「燕の御茶屋」は11代将軍家斉の時代の天保5年(1834)までに建てられたもので、室内には将軍が座るための上段が構えられ、将軍自身が接客・利用するための建物であったと思われます。
 「燕」の由来は燕型の釘隠金具が使われていたことや燕子花が由来とも言われていますが詳細は不明です。
歴史をひも解く
古写真、絵図、文献などの史資料調査や、発掘調査、類例調査など様々な調査から復元を行っています。
発掘調査
燕の御茶屋は戦災で焼失しましたが礎石などはそのまま残っていました。
平成23年に発掘調査を行い、礎石の位置から建物の規模や柱の間隔などがわかりましたが、古い図面に描かれていた内容とも一致しました。
歴史に忠実に復元する
史資料や遺構から江戸時代末期から創建された家斉の時代を志向した復元は可能と判断されました。
史実に沿った復元
 多くの歴史資料に基づき、できるだけ忠実に復元しました。
遺構の保存
 遺構を保護した上に鉄筋コンクリートの基礎を造り耐震性も確保されています。
建物と庭園との調和
 中島の御茶屋やお伝い橋など潮入の池の素晴らしい景色が眺められます。
見えない補強
 基礎や小屋裏、壁の内側など見えないところに構造補強が施されています。
特徴的な意匠
〇室内中央に上段を構えています。
〇上段には三角形の地袋と円形の棚板、背面張り出しの地袋が付いています。
〇三角地袋の小襖には白磁製の陶板を使用しています。
〇縁の欄間板は霞模様の透し彫りです。」

  

潮入の池

 庭園の池は、水門で東京湾とつながれた潮入の池です。

(説明板)
「潮入の池
 海水を取り入れ、潮の干満で水位が上下することにより、庭園の趣に変化が生じるように造られている池のことを「潮の池」といいます。この庭園は、約28,000 (8,500坪)の大泉水を中心として作られており、潮入の池を持つ代表的な大名庭園です。池では、ボラ、クロダイ、ハゼ、カニなどの姿をみることができます。秋・冬には、多くの鴨類が飛来します。」

   

(説明板)
お伝い橋 おつたいばし
 寛政5(1793)年(11代徳川家斉の時代)に架けられたものが最初といわれています。往時は、現在よりも藤棚が長く設けられていました。現在の「お伝い橋」は総檜造りで、全長約120mあります。」

    

 八景山からお伝い橋
    

(説明板)
小の字島
 この島を中心として左右に橋で結はれた2つの飛島が配置されている形が、漢字の「小」の字に似ているところからこの名称がつけられました。」

   

(説明板)

 中島の御茶屋は、明治12(1879)年に明治天皇が前米国大統領グラント将軍と会談を行った場所です。

中島の御茶屋
 宝永4年(1707)のちの6代将軍徳川家宣がてたもので、室内からの眺めが素晴らしく、最も立派な御茶屋でした。
 別名を「狎鴎亭(こうおうてい)」とも呼ばれていました。享保9年(1724)火災のため焼失し、64年後の天明8年(1788) 11代将軍家斉の治世に再建されました。明治維新後皇室の離宮となり、しばしば国賓等も迎えましたが、第2次大戦の空襲により焼失しました。その後、昭和58年(1983)財団法人日本宝くじ協会の助成事業として再建しました。
 御茶屋とは、茶室とは異なり、将軍の接待や休憩場所として建てられた建物です。」

    

<中島橋>

    

<三間橋/水路>

   


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