八二神社は、銭湯「萩の湯」の裏手、ホテル街にあります。
八二神社は、旧加賀藩主前田公が明治5(1872)年に金沢から移住、屋敷内に八坂大神、稲荷大神、菅原大神を守護神として祀り三神社と称しました。
大正13(1924)年に前田公は屋敷を開放し土地を分譲、三神社を八二神社と改称して、住民が護持しています。
現在の社殿は昭和6(1931)年に竣工したものです。
八二神社の呼称は、旧番地が根岸82番地であったからという説と、八坂神社の八と他の二社を合わせて八二にしたとの説があります。
「八二」は、単純に「ハチニ」と読むのか、八坂(ヤサカ)神社から「ヤニ」と読むのか、どうなのでしょうね。
<狛犬>
<社殿>
加賀の前田氏は菅原道真の子孫と称していたため、家紋は菅原道真ゆかりの「梅鉢紋」を用いました。
社殿の左右の扉には「梅鉢紋」が刻まれています。
(説明板)
「八二神社由来記
当神社は明治五年四月(元加賀百万石藩主)前田公が当地に移住せられこの地を根岸の里と称し屋敷内に社殿を築造して
八坂大神(悪疫防護・無病息災・健康招運を祈る)
稲荷大神(商売繁盛・家内安全を祈る)
菅原大神(文教の守護と進歩発展を祈る)
殊に受験の神様でもある
この三神を守護神として祭り三神社と称しております
毎年祭典を挙行して住民の安全と幸福を祈願せられたのであります
大正十三年前田公は屋敷を開放し土地を住民に分譲すると同時に三神社を八二神社と改称し神社の守護を住民になさしめ毎年二月十一日を例祭日と定めたものであります
現在の社殿は昭和六年九月に竣工したものであります
関東大震災並びに大東亜戦争等にも少しの被害を受けなかったことは三神社の守護によるものと信じられ益々信仰を篤くするものであります
昭和四十一年七月二十二日 根岸二丁目町会 記之」
(参考1)
加賀藩主前田斉泰公(1811〜1884)は、慶応2(1866)年に長男慶寧公(1830〜1874)に家督を譲ります。
斉泰公は明治5(1872)年2月に、前年に購入し改築した根岸邸に移り住みます。
本郷邸は明治元年の上野戦争で焼失していたため、慶寧公とその家族も同年4月に根岸邸に移ります。
慶寧公は明治7(1874)年5月に没し、長男利嗣(1858〜1900)が家督を継ぎ、明治7(1874)年12月に根岸邸から本郷邸に移り、本郷邸が前田家本邸となります。
斉泰公は根岸邸を富有園と呼び明治17(1884)年に亡くなるまで隠居所として生活しました。
(参考2)
「懐徳館(旧前田侯爵邸)」