○ 台場築造土取跡
○ 緒明横町
○ 御殿山
○ 御殿山庭園
○ 権現山公園
<御殿山通り> 港区北品川3丁目〜4丁目〜5丁目
御殿山通りは、国道15号(第一京浜)から山の手通りへ、御殿山を横断する通り(670m)です。
<台場築造土取跡/英国公使館跡>
御殿山通りと北側一帯は、不自然に低くなっています。南からの道路は階段になっています。
階段下から先の品川女子学園一帯(北品川3-3・3-4)が台場築造土取跡です。
階段上の右手の北品川郵政宿舎の場所が、英国公使館跡です。
<土出場>
御殿山を始め泉岳寺境内及び高輪〜品川の諸侯宅の高地から土砂を調達し、土取人夫は5,000人に及びました。
土砂は土出場から1,400〜2,000艘の土船が運搬し、陸海とも大混乱しました。
【品川台場と御殿山】(こちらの再掲です)
「五十三次名所図会 品川」(広重)
「御殿山より駅中を見る」とあります。
桜が咲く御殿山から品川駅を見下ろし、海上には台場が見えます。
切崩された御殿山は崖となっています。
「江戸名所四十八景 御殿山満花 」(二代広重 都立図書館蔵)
海上に台場が見えます。
御殿山は、台場を築くために土を削り取り、崖となっています。
「名所江戸百景 品川御殿やま」(広重)
台場建造のため崩された崖の上に桜が咲く御殿山を海側から見ています。
手前は東海道で、人々が掘削によるぬかるみを通り、崖を登っていきます。
「絵本江戸土産 再出 御殿山 当時のさま」
挿絵には、
「嚮にこの図を出しし後 蕃鎮の為にとて 蒼々たる大洋に御台場を築かれしとき
この山の土を取り そのさま昔に変りぬれば 今また図して参考の便とす」とあります。
名所江戸百景のほうでは、削られた御殿山を海側から描いています。
「絵本江戸土産 御殿山の花盛」「其二」
削られる前の御殿山を「御殿山の花盛」「其二」として描いています。
御殿山通りの一本南に、国道15号から権現山公園に至る坂道「緒明横町」があります。
国道15号近くに、説明板「緒明横町」があります。
(説明板)
「緒明横町(おあきよこちょう)
この横町の奥(権現山公園下)に、明活時代の実業家の緒明菊三郎邸があったことが名称の由来である。緒明は伊豆下田出身で、明治十六年(一八八三)に、品川沖の御台場(第四砲台)跡を利用して西洋式造船祈を設け、盛況を極めた。邱宅の望楼から猪明造船所をみることができた。
旧東海道品川宿周辺まちづくり協議会品川礎会」
<緒明菊三郎邸跡>
坂上の権現山公園から見た緒明横町の坂上部分です。
石垣に囲まれたマンションが緒明菊三郎邸跡です。
「蘆川青年叢書「世渡上手の人々」(蘆川忠雄著 大正8年)より要約引用」
緒明菊三郎氏は、小さな造船所を火災で焼失したため、石川島の地を借りて造船所にしようとすると、当局は、囚人70人を使用するならば借地を許すとのことで、条件通りに造船所を運営しましたが、うまくいかず閉鎖して芝浦に移転します。次に明治16(1883)年に品川第四台場を借りて造船所を始めました。
緒明菊三郎氏の邸宅は、庭には松、檜の苗が槍のごとくに突出して殺風景でした。趣味は事業だったため、庭園の趣味なく、また書画や骨董品を弄ぶこともありませんでした。第四台場の造船所へ朝早く舟で出勤し、日没に帰宅していました。
ここから左手に進んだ奥の北品川郵政宿舎がイギリス公使館跡です。
御殿山の地名の由来は、太田道灌が館を構えていたためとも、徳川家康が建立した品川御殿があったためとも言われています。
江戸時代からの桜と紅葉の名所で、江戸名所図会で紹介され、また、多くの浮世絵にも描かれています。
幕末、御殿山は品川台場建設のために一部を削られました。
文久2(1862)年には、新築中の英国公使館が焼き打ちされ、全焼となる「御殿山焼き打ち事件」がありました。
明治となり、鉄道を海の上に通す高輪築堤の築造のため、御殿山はさらに削られ、また鉄道が御殿山を分断しました。
太田道灌の御殿山城の跡地は御殿山庭園ですが、遺構はありません。
御殿山のピークの一部が権現山公園に残っています。
「江戸名所図会 御殿山看花」
御殿山花見の賑わいが描かれています。
本文には「土人相伝へてこの地を太田道真居住の旧址なりといふ」とあります。
「江都名所 御殿山遊興」(広重)
御殿山花見、品川宿、品川湊が描かれています。
「東都名所 御殿山花見品川全図」(広重)
御殿山花見、品川宿、品川湊、右奥の海上には、海苔養殖のヒビが描かれています。
「冨嶽三十六景 東海道品川御殿山ノ不二」(北斎)
「江戸名所百人美女 御殿山」(豊国・国久)
こま絵に御殿山の花見の光景が描かれています。
「武蔵百景之内 品川見越ノ月」(小林清親 明治17(1884)年)
小林清親の時代は、御殿山は削られ無残な姿になっていたと思われ、
清親は、蚊帳を通して、品川港に満月が昇っている光景を描いています。
御殿山庭園は、太田道灌の御殿山城の跡地ですが、遺構は何もありません。
また、品川歴史館解説シートによると、東京マリオットホテル辺りが品川御殿跡とのこと。
<しながわ百景 桜の名所の御殿山>
御殿山庭園に面した御殿山通りの歩道に「しながわ百景 桜の名所の御殿山」があります。
<御殿山庭園内>
<原六郎銅像>
ガラスケースに覆われた像は、森の中にあって目立ちます。
四方が立ち入り禁止で近づけませんが、御殿山に広大な邸宅を構えていた明治の実業家、原六郎の銅像です。
「原六郎肖像」(国立国会図書館「近代日本人の肖像」)
天保13年11月9日〜昭和8年11月14日(1842年12月10日〜1933年11月14日)
緒明横町の坂道をのぼっていくと、坂上に「権現山公園」への階段があります。
あるいは、御殿山橋から線路沿い進むと線路沿いに公園入口があります。
<しながわ百景>
「14 権現山公園」
<権現山の桜>
(説明板)
「権現山の桜
この地は御殿山からの地続きの高台で、江戸時代には東海寺の境内であった。
維新後、官有地となり軍艦に飲料水を供給するための海軍用地となる。
明治初年の鉄道敷設工事によっては花見の名勝「御殿山」は切崩されたが、この地は大正七年(一九一八)、桜の名所を保存するために
品川町に払い下げられ、権現山公園として整備された。
旧東海道品川宿周辺まちづくり協議会品川礎会」
「江戸名所四季の詠 御殿山花見之図」(広重 都立図書館蔵)
御殿山花見、品川宿、品川湊が描かれています。
<遊具>
<権現山のピーク>
緒明横町坂上の階段を上がると、左手は階段があり、さらに高くなっています。
ピークの南は、崖下に品川区立品川学園があります。
<御殿山橋から見た権現山公園>
御殿山通りの御殿山橋(北品川4-8)から見た権現山です。