Discover 江戸旧蹟を歩く
 
 六阿弥陀詣 第二番 延命院/恵明寺

  ○ 延命院/阿弥陀堂
  ○ 恵明寺


延命院 足立区江北2-36辺り

 正式名は、「甘露山 延命院 応味寺」で、江戸時代の案内書には延命院・延命寺のほか、応味寺・応味院と案内されています。
 延命院から離れたところにある阿弥陀堂が六阿弥陀第二番でした。
 阿弥陀堂は小台村の飛地で沼田の六阿弥陀と呼ばれました(現在の江北2-46先荒川土手)。
 明治9(1876)年に延命院は廃寺となり、本寺だった恵明寺が阿弥陀堂を管理するところとなり、恵明寺が第二番となります。
 大正時代の荒川放水路開削工事により阿弥陀堂は河川敷地内となったため廃止され、阿弥陀堂にあった阿弥陀仏は恵明寺に移されました。

(参考)小台大門町
 この飛地から弥生時代の集落跡が発掘されており(足立区文化財)、古くから人が住んでいたと考えられています。
 荒川放水路開削で、飛地の区域はそのほとんどが荒川河川敷内となりました。
 足立区小台大門町として存続していましたが、平成元(1989)年に河川敷地内に住居表示が実施されその名称は消滅し江北2丁目となりました。

「江戸名所図会 六阿弥陀廻」

(どこを描いたのか)
 「江戸名所図会」に六阿弥陀廻の賑わいが描かれていますが、タイトルの明示がなく、場所は推測するしかありません。
 本文で、延命院と餘木阿弥陀如来が紹介されており、これらを巡拝する人々を描いたものと思われます。
 延命院が管理する阿弥陀堂近辺、熊之木の光景を描いていると推定します。
 熊之木の光景と仮定すると、描かれている光景にすべて合点がいきます。

(熊之木が描かれていると仮定して)
 奥に見えるのは荒川(豊島村からは豊島川、沼田村からは沼田川。現:隅田川)で、
 六阿弥陀の渡しを渡ってきた参詣者が見えます。杖を持つ参詣者が多く描かれています。
 手前の小川は神領堀で、橋が架かっています。川の縁に、食器の入った盥と鍋が置かれています。茶屋の主人が鎌を洗っています。
 茶屋では、藁草履・雪駄を売っています(六阿弥陀詣は長丁場です)。屋根には鶏がいてのどかな農村の雰囲気です。
 道端では近隣の農家が農産物を売っているのでしょう。
 茶屋も出ているので、ここは六阿弥陀詣の名所となっていた阿弥陀堂近くの熊之木でしょう。
 駕篭を止めている女性に、六阿弥陀詣の参詣者が、方角を指差しています。その先に阿弥陀堂があるのでしょう。
 これから神領堀の橋(江戸時代もあったか不明ですが熊之木橋と勝手に推定)を渡ろうとする駕籠の女性や参詣者が見えます。
 往来の多い道のようなので、弘法大師道で、西新井弘法大師に参詣してから反時計まわりに六阿弥陀を廻るのでしょう。
 橋を渡ってくる子どもは弁当箱を担いでいます(長丁場なので弁当持参なのでしょう)。

(昭和天皇も訪問)
 昭和天皇がご幼少の頃、車から降りて、荒川堤の五色桜を観覧され、熊之木橋を渡って西新井大師まで歩かれています。

(挿絵説明)
「春秋二度の彼岸には六阿弥陀廻とて日かげの麗かなるに催され都下の貴賎老いたる若き、打群つつ朝とく宅居を出るといへども行程遠ければ遅々たる春の日も長からず秋はことさら暮れやすうおもはるべし」

  クリックで拡大「熊之木」  

「江戸切絵図」

 豊嶋村に「六アミタ一番西福寺」があり、「豊島村渡場」が見えます。
 渡場の沼田村の左手に「六アミタ二番延命寺」とあります。
 「六アミタ木余如来性翁寺足立姫墓有」と「本木大田三嶋大明神」も描かれています。

  

<阿弥陀堂>(現在の江北2-46先荒川土手)

 こちらは「東屋本店」(足立区江北2-46-13)で、店裏の荒川土手に阿弥陀堂がありました。
 東屋本店は江戸時代後期の創業(創業時は茶店)の酒屋で、店主は「荒川五色桜復活の会」の代表を務められました。
 五色桜にちなんだ酒類の、麦焼酎「咲いた咲いた桜が咲いた」、日本酒「五色桜」「荒川堤」を販売しています。

     

<荒川土手>

 荒川土手です。荒川放水路開削前は、隅田川はここら辺りまで曲がっていて、六阿弥陀の渡しがありました。

     

<あだち五色桜の散歩みち>

 説明板でもあるかと思ったら、「あだち五色桜の散歩みち」の「桜の配置案内板」です。
 散歩みちは、荒川左岸土手上の鹿浜橋から西新井橋まで続いています。

  

<延命院跡>

 延命院跡を見たところ。

  

<対岸>

 対岸(北区豊島)の説明板「阿弥陀の渡船場跡」(こちらで記載)から、阿弥陀堂跡方向を見たところですが、眺望悪し。

  


恵明寺 足立区江北2-4-3

 江戸時代、沼田村に存していたのが恵明寺(えみょうじ)です。
 末寺の延命院が管理する阿弥陀堂(延命院から離れたところ)が六阿弥陀第二番でした。
 延命院は明治9(1876)年に廃寺となり、本寺だった恵明寺が阿弥陀堂を管理するところとなり、恵明寺が第二番となります。
 大正時代の荒川放水路開削工事により阿弥陀堂は河川敷地内となったため廃止され、阿弥陀堂にあった阿弥陀仏は恵明寺に移されました。
 恵明寺は、荒綾八十八ヶ所霊場の第54番札所です。

<寺号標/札所標>

 右に寺号標です。
 「江戸六阿弥陀第弐番 宮城山恵明寺」

 左に大正8(1919)年銘の札所碑です。
 「第弐番 六阿弥陀如来霊場
  荒綾八十八ケ所第五十四番 弘法大師霊場
  宮城山恵明寺」

      

(説明板)
「恵明寺(えみょうじ)
 真言宗、宮城山円明院恵明寺と称す。本尊阿弥陀如来坐像は、造像の技法がきわめてすすんだころの等身大の寄木造りである。この阿弥陀如来は、江戸阿弥陀二番の札所として、古くは小台の延命寺にあったものを明治九年の合併の際移したものである。六阿弥陀仏の信仰は、平安後期以後に発生したものと思われる。
 当寺に伝わる六阿弥陀縁起、足立姫の伝説は広く知られており、江戸時代の天野信景の随筆「塩尻」にもその巡礼の様子がみられ、この地の人々の信仰を集めていたことがわかる。
  平成元年一月  東京都足立区教育委員会」

  

<庚申塔二基/地蔵道標>

 右は、文政8(1825)年6月銘の庚申塔です。「庚申」「青面金剛」とあります。

 中央は、元禄5(1692)年9月銘の舟型光背型庚申塔です。

 左は、貞享3(1686)年銘の地蔵道標です(移設)。
 正面上部に地蔵座像が浮き彫りされ、その下中央に「従是西六あミた」と刻まれ六阿弥陀の道標となっています。
 (読めないので「近世以前の土木遺産」(岡山大学名誉教授・馬場俊介)のデータベースを参照しました。)

    

<子育地蔵堂>

  

<板碑>

 子育地蔵堂の裏に、古い板碑が二基あります。

  

<宝篋印塔>

 文化6年(1809)4月銘の宝篋印塔です。

  

<本堂>

  

<大師堂>

  

<無縁塔>

  

<聖観音菩薩像>

 寛文9(1669)年12月銘の聖観音菩薩像ですが、台石に三猿がいます。

    

○恵明寺ぷちてらす 足立区江北2-3-16

 恵明寺の門前に「恵明寺ぷちてらす」があります。

  


戻る