道海道(古奥州街道)は、下妻道の起点である足立区の千住を発し、現在の四家交差点で下妻道から分かれます。
中央本町と青井の境界を進み、一ツ家に入り、一ツ家から東六月町と保塚町の境界を進み、
保木間に入り道海道公園の西から斜めに水神橋に向かいます。
○ 道海道
○ 由来記
○ 竹塚橋交差点
○ 道海公園
○ 陣川戸公園
○ 水神橋
「千住花又瀬崎辺之図」足立区文化財(足立区立郷土博物館所蔵)
元禄11(1698)年〜享保3(1718)年と推定される絵図です。
千住から花又(現花畑)・瀬崎(草加)周辺に至る当時の主要道が描かれています。
もっとも西側(左側)の道が日光道中、並行している蛇行した道が古い奥州街道と口伝がある道海道(どうけみち)、
右端が綾瀬川、下端は千住宿北端の千住五丁目です。
回転して(上が西、左が南で千住、右が北で日光道と道海道の合流点)拡大抜粋しています。
日光道がほぼ直線なのに対し、道海道はうねった道です。
<四家交差点> 弘道一丁目、青井一・二丁目、中央本町二・三丁目
六差路の「四家交差点」から、花畑大橋通りに入り「道海道」をたどります。
ベルクスの手前の右手の民家に、個人が建てた、道海道の「由来記」があります。
(碑文)
「由来記
此の道は日光街道の裏街道で道海道と稱した
附近の地名は梅島村道海東耕地と稱していた
四ツ家の高つ橋より一ツ家道海橋迄を稱し水神橋に至る道であった。
当時は部落名を島根、二ツ家と呼び人家は計九軒学校は梅島小学校に通学した。
昭和六十三年四月吉日
建立 平田藤次郎 明治三十八年八月三十一日生」
<平田農園> 足立区青井6-1-2
シェア畑です。
<一方通行>
環状七号腺に交差する手前で一方通行となり細道となります。
<幹線道路補助線街路第256号線>
地図にある道海道が拡幅されます。
<東栗原町交差点> 足立区中央本町五丁目、青井六丁目、一ツ家一丁目・三丁目
環状七号線には、「東島根町歩道橋」が架かっています。
<境界道>
平野と保塚町、東六月町と保塚町の境界道が道海道として残っています。
花畑大橋通りからずれていく道です。
平野3-24と保塚町1の間から道海道が姿を現します。
続いて東六月道と保塚町の境界が続きます。
都営六月町アパートの横を進むと、丁字路の信号(竹塚橋交差点)で道は消失します。
竹塚橋は、竹塚堀が赤山街道から日光街道に曲がるのに対し、そのまま東進する竹塚堀の末流部に架かっていた橋です。
竹塚堀末流は、坊屋堀と吉右衛門堀の2つの堀の源でした(あだち広報を参照しました)。
<ニッポン放送足立予備送信所> 足立区東六月町7-11
寄道して、竹塚橋交差点を左へ行くと、ニッポン放送足立予備送信所があります。
昭和6(1971)年6月に木更津送信所に移転するまで、送信所として使用されました。
敷地内にポニーキャニオンエンタープライズ足立営業所、隣接地にニッポン放送足立野球場がありましたが、
平成23(2011)年に取り壊され、野球場跡地は住宅となっています(ウキペディアより)。
道海道に由来して銘名された「道海公園」があります。
(碑文)
「この公園は 渕江土地区画整理組合事業として 組合員の土地提供により整地造成したものである
この附近に 古く日光に通ずる道海道(どうかいどう)と呼ばれた街道があった これに由来し道海公園と銘名す
昭和五十五年三月吉日建之 渕江土地区画整理組合」
<どうかいこうえん>
公園の注意板によると「どうかいこうえん」と読みます。
<境界道> 保木間と花畑
足立区保木間4-53と足立区花畑1-1の間から、道海道が始まります。
右手のトランクルームの敷地内に稲荷神社があります。
流山道(→)と交差します。
「花畑フラワーロード」手前で道は消失します。
道海道は、陣川戸公園が開設される前は、公園の中を斜めに進んでいたようです。
この地は八幡太郎義家が奥州討伐のおりに布陣した跡地で、陣川戸(じんかと)と称します。
恐竜の遊具があることから「恐竜公園」とも呼ばれます。
(碑文)
「陣川戸公園
この公園は 淵江土地区画整理組合事業として 組合員の土地提供により整地造成したものである
この地は 古くより八幡太郎義家が奥州討伐の折布陣した跡地で陣川戸(じんかと)と称する由来により陣川戸公園と銘名す
昭和五十三年三月吉日建之 渕江土地区画整理組合」
公園の注意板によると「じんかどこうえん」と読みます。
<境界道> 保木間と花畑
足立区保木間5-20と足立区花畑4-17(コープ花畑店)の間から、道海道が始まります。
東京足立病院を左手に過ぎます。
バス通りとの交差点を越えます。
都営住宅の横を過ぎ、毛長川で突き当ります。
道海道と日光道の合流点にある「水神橋」です(水神橋はこちらでも記載)。