○ 台場公園(品川第三台場)
○ 品川台場(東京市
昭和2(1927)年)
台場公園(品川第三台場)へは、陸繋で歩いて行けます。
第三台場と第六台場が見えます。
<関東大震災東京大空襲犠牲者慰霊碑>
台場海浜公園から台場公園への陸繋、木々の中に慰霊碑があります。
(銘文)
「東京は、関東大震災及び第二次世界大戦末期の空襲により甚大なる犠牲を被った。二度の被災により隅田川河口近くに位置したここ旧防波堤にも、漂着した犠牲者が数多くみられたという。
これら諸霊に対し、故富川栄氏の呼びかけに共鳴した地元の心ある人々により、長い歳月に亘りたゆみなき供養が続けられてきた。
いま、当地周辺は未来都市に発展すべくまちづくりがすすめられている。そして、ここお台場海浜公園も新たな海上公園として再整備することとなった。これを受け平成五年九月二七日当地での最後の慰霊祭が行われ、その後は都の施設にて慰霊が続けられることになった。この事実を後世に伝えるべくここに記録する。
平成六年三月吉日 東京都港湾局」
<台場公園(第三台場)案内板>
(案内板)
「〜国指定史跡〜 台場公園(第三台場)
1853年、ペリーで知られる黒船の来航に備えて江戸幕府が品川沖に築いた砲台跡地です。
1926年には「品川台場」として国の史跡に指定されました。
公園内には青々とした芝生が茂っており、レインボーブリッジを最も近くで見ることができる穴場スポット。
春は桜の名所となります。
お台場に遊びに来た際には、歴史に触れあえる「台場公園」へぜひ足を運んでみて下さい。
台場公園はあちら→」
陸繋の西側に「係船柱」があります。陸繋の終端にさしかかります。
<台場公園入口>
石垣を木造階段で越えて、土塁を上がって台場公園内に入ります。
階段手前にはパンフレットが置いてあるのには感心しました。
<石垣>
木造階段を上がる前に石垣を観察します。
石垣の天端石がはね出ているのがわかります。武者返しになっています。
階段右の石垣は、海側の石垣と積み方が違っています。
<都立台場公園のあらまし>
(説明板)
「都立台場公園のあらまし
台場公園(第三砲台)
「お台場」の名で知られる品川台場は、江戸幕府が黒船来襲にそなえて品川沖に築いた砲台跡です。設計者は伊豆韮山の代官・江川太郎左衛門英龍で、ペリーが浦賀に来航した翌月の嘉永六年(一八五三)八月に着工、一年三ヶ月の間に六基が完成しました。
現在は大正十五年(一九二六年)に国の史跡に指定された第三、第六台場だけが残されています。
このうち第三台場は、昭和三年東京市(都)によって整備され、台場公園として解放されています。周囲には、海面から五?七mの石垣積みの土手が築かれ、黒松が植えられています。また内側の平坦なくぼ地には、陣屋、弾薬庫跡などがあります。
利用上の注意(省略)
所在地 港区台場1丁目10番
面積 29,963.40u
開園 昭和3年7月7日
史跡指定 大正15年12月20日(外周30間<約55m>の海面を含む)
(問い合せ先)東京都潮風公園事務所 電話5500-2455」
「第三台場の配置図
※砲台跡とかまど場は江戸時代のものではありません。」
<史蹟品川臺場参番碑>
立ち入り禁止エリアに建っているので、海を向いている正面は、レインボープロムナードから撮ったものです。
(正面) 「史蹟品川臺場参番」
(右側面)「天然記念物保存法ニヨリ
大正十五年拾月内務大臣指定」
(左側面)「昭和二年八月建設 東京市」
※第三台場は、大正4(1915)年に陸軍省から東京市に払い下げられ、東京市は塵芥焼却所とする予定でした。
東京府が大正13(1924)年に史跡の仮指定を行ったため、東京市は所管を衛生課から公園課に変更し、第三台場を公園にすることとしました。
大正15(1926)年に内務大臣が史跡として本指定を行いました。
<波止場跡>
波止場からは両脇が石塁となっている通路が続きます。
台場内からは、陥没か所あり危険通行止めの掲示があり、柵が設けられ通路は塞がれています。
<砲台跡 (復元品)>
昭和8(1933)年に復元された砲台です。
砲身はありませんが、VRで出てきます。
第三台場は、大砲を29門備えていました。
第三台場は忍藩が防備に当ったことから、埼玉県HPに第三台場が紹介されています。
<台場内>
<石階段>
台場内へ降りる石階段は多くあります。
<休憩所(陣屋)跡>
勤番者の詰所として建設されたのが休憩所(陣屋)です。
陸軍省が日露戦争の戦利品を運び入れたため、床が損壊していたところに、関東大震災で大損壊し、東京市が修理しました。
<かまど場跡(火薬庫跡)>
昭和3(1928)年7月に都市公園としての開園に伴い、東京市が設置した大谷石製の八角型のかまどです。
東京市民は、国史跡でレジャーとして飯盒炊爨を楽しんだということですね。
「品川台場」(東京市 昭和2(1927)年)によると、ここには関東大震災までは火薬庫が建っていました。
火薬庫跡なので、防火の上でうってつけなのでかまどを設置したのですかね。
<玉薬置所跡>
玉薬は、7か所に分散して格納されていました。
配布している資料では火薬庫跡としていますが、東京市の文献によると「玉薬置所」としています。
<玉置所跡>
図面には玉置所が2か所描かれていますが、痕跡はありませんでした。
<火薬庫跡>
案内図には白空白で囲まれていて、説明がないのでわからなかったのですが、
「品川台場」(東京市保健局公園課編 昭和2(1927)年)によると、木造平屋建瓦葺の火薬庫が建っていましたが、
関東大震災で火薬庫2つのうち一つは大破、一つは倒壊しています。
○第六台場(国史跡) 港区台場1-11-1
第三台場の西面から第六台場が見えますが、レインボープロムナードからのほうが良く見えます。
第六台場は帝国倉庫運輸会社が大正7(1918)年から倉庫として使用していましたが、
史跡仮指定を受けて、東京市は煉瓦造倉庫を取り壊させて賃貸契約解除としています。
その後は絶対保存により現在に至っています。
○鳥の島(旧防波堤) 港区台場1丁目
第三台場の南面から、鳥の島(旧防波堤)が間近に見えます。
○パンフレット
パンフレット「品川御台場の歴史」です。
(表)
(裏)
当時の東京市が、品川台場について、写真や図を入れて、詳細に記述しています。
本の表紙には台場とゆりかもめが描かれています。
<品川台場の築造>
品川台場築造のため、土砂を御殿山を始め泉岳寺境内及び高輪品川の諸侯宅の高地から調達しました。
土取人夫は5,000人に及び、土砂を1,400〜2,000艘の土船が運搬し、陸海とも大混乱しました。
東海道の高輪海岸部分は昼間は通行止めにして工事が行われました。
築造の予算額は98万両、決算額が75万両の大工事でした。
完成した台場は、「品川台場」あるいは「品海砲台」(芝区の住所地名)と呼ばれました。
第四台場は七割の完成で工事が打ち切られたため「崩れ台場」とも呼ばれ、また、緒明造船所があったことから「緒明台場」と呼ばれました。
「品川台場附近地図」
「御殿山下台場」「第四」「第一」「第五」「第二(燈明台)」「第六」「第三」と順に記されています。
「内海御台場本芝ヨリ品川宿マデ海岸図」
距離入りで台場と本芝から品川宿までの海岸が描かれています。土出場が2ヶ所見えます。
「江川坦庵肖像/江川坦庵筆蹟/台場模型」
江川英龍(通称:太郎左衛門、号:坦庵)の肖像と筆蹟が掲載されています。
また、江川が台場の模型を製作して老中阿部伊勢守に送った写真が掲載されています。
「一番台場」「二番台場」
二番台場に明治3(1870)年に点灯が開始された品川燈台が見えます。
「三番台場」
「第三台場内部 全景(震災前) 震災直後の休憩所 同上(修繕後)」
第三台場の関東大震災前と被災、修繕後の写真が掲載されています。
2枚目は、震災前の写真を注を入れて拡大しました。
修繕後の写真左下には物干し台に洗濯物が干されていて、生活感を感じます(管理人が常駐)。
「震災直後の三番台場 休憩所 同上屋根 沖側石垣」
関東大震災で大きな被害を受け、東京市が修繕しています。
火薬庫2棟のうち、1棟が倒壊しました。
「休憩所内部」
「火薬庫、波止場、玉置場」
波止場の先には柵門が見えます。
「三番御台場図」
現地を巡るのに役にたちました。
「四番台場」「五番台場」
「六番台場」「六番台場内部 震災前の休憩所 同上震災直後 全景(修繕後)」「六番御台場図」