○ 御殿山下台場跡(東品川)
○ 品川第四台場跡(天王洲アイル第一公園)
○ 品川第一台場跡(品川埠頭)
○ 品川第五台場跡(品川台場食堂)
○ 品川第五台場石垣石(港区立みなと図書館)
○ 品川第二台場跡(東京港)
○ 品川第七台場跡(レインボーブリッジ下)
「御殿山下台場」は、現在は品川区立台場小学校の敷地となってます。
校庭入口に台場の石垣として使われた真鶴石と第二台場にあった品川灯台のレプリカが置かれています。
(説明板)
「御殿山下台場(砲台)跡
嘉永6年(1853)、アメリカ合衆国のペリーが4隻の軍艦(黒船)を率い、日本に開国を求めるため浦賀(神奈川県)に来航しました。鎖国をしていた当時の日本は大騒動になり、徳川幕府は江戸の町を守るため、急いで品川沖から深川洲崎にかけて11の台場を造ることにしたのです。
伊豆韮山(静岡県)の代官・江川太郎左衛門英龍がオランダの書物をもとに砲台づくりの指導にあたり、第一から第三台場と第五・第六台場は完成させましたが、残りの第四・第七は中途で工事を中止し、第八以下は着工にも至らなかったのです。その代わりとして、陸続きで五角形の砲台を造ることになりました。これが御殿山下台場(砲台)です。明治になると埋め立てられ姿を消しましたが、幸いなことに台場の輪郭は道として残り、今でもその位置と形を知ることができます。跡地に建つ台場小学校の敷地はこの台場の半分ほどの面積を占めています。
台場跡からは石垣が発見され、小学校にはその石垣を使った記念碑が建てられました。石垣の上に立つ灯台は、明治3年(1870)、日本で3番目の洋式灯台として第二台場に造られた品川灯台を模したものです。
品川灯台は、現在は国の重要文化財として愛知県犬山市の博物館明治村に移設されています。
平成18年3月31日 品川区教育委員会」
<プレート>
「品川
御殿山下台場跡
明治百年記念
昭和四十三年四月吉日」
(銘文)
「嘉永六年(一八五三年)、アメリカ合衆国のペリーが四隻の軍艦(黒船)をひきいて日本に開国を求めてやって来ました。鎖国をしていた当時の日本は大さわぎとなり政治の実権を握っていた徳川幕府は江戸を守るため急いで品川沖に十一の砲台(台場)を造る事になりました。しかし全部でき上がらないうち中止となりました。砲台を設計したのは伊豆の代官江川太郎左右門に学んだ洋学者武田斐三郎と言う人です。海防の必要のためオランダの書物をたよりに海の中に砲台を築く大工事をしたそうです。当時としては北海道の五稜郭のように洋式築城の一つです。その時ただ一つの陸続きのお台場としてこの土地に造られたのが御殿山下台場(またの名を稜四番)と言われるものです。台場小学校と言う校名はこの台場にちなんで名付けられました。
一九六□年記」
「品川台場」(東京市 昭和2(1927)年 国立国会図書館蔵)
御殿山下台場の図です。
プレート碑文に「御殿山下台場(またの名を稜四番)」とあるようにタイトルは「四番御台場図(御殿山下台場)」です。
稜形の海側には、波除杭が見えます。
第四台場の石垣は、天王洲アイル第一公園のボードウォーク(板張りの遊歩道)の護岸に再利用され、残されています。
天王洲アイル第一公園は、(株)シーフォートコミュニティが管理する公園です。
第一ホテル東京シーフォートホテルの「シーフォート」とは海上要塞です。
<天王洲大橋から>
天王洲運河に架かる天王洲大橋から第四台場の石垣石を見たところです。
<ボードウォーク>
「天王洲アイル1号公園」の表示から、ボードウォークに張ります。
モノレールの橋脚に石垣石が野積みされています。
天王洲運河沿いのボードウォーク
シーフォートと京浜運河沿いのボードウォーク。京浜運河の向こう岸は、品川埠頭です。
「品川台場」(東京市 昭和2(1927)年 国立国会図書館蔵)
第四台場の写真です。
第四台場は七割の完成で工事が打ち切られたため、その後「崩れ台場」とも呼ばれました。
明治維新後に陸軍卿から緒明造船所主緒明(おあき)菊三郎氏が借受け、明治16(1883)年に緒明造船所を設立し、「緒明台場」と呼ばれました。
その後東京府の所有を経て、大正元(1873)年に東京府から緒明菊三郎氏の婿養子の緒明圭造氏に払い下げらました。
第四台場は、埋め立てにより旧天王洲町(東品川二丁目)と陸続きとなり、昭和30(1955)年に港区から品川区に編入されています。
品川埠頭のバンプール(輸送コンテナ置き場)のこちらが品川第一台場跡となります。
ここの現地には、歴史を示すものはありません。
「品川台場」(東京市 昭和2(1927)年 国立国会図書館蔵)
第一台場の写真です。
第一台場は、大正3(1914)年に陸軍省から東京府に引き渡され、さらに大正6(1917年)に緒明造船所主緒明圭造氏に払い下げられました。
戦後、第一台場には昭和23(1948)年から昭和25(1950)年まで、養護施設「水上園」が置かれました。
第一、第五台場は埋め立てにより、昭和37(1962)年に品川埠頭として埋没しています。
<品川台場(第五)遺跡>
品川台場食堂に、出土の石垣石とともに説明板が掲示されています。
(説明板)
「品川台場(第五)遺跡
発掘調査の概要
港湾労働者品川総合休憩所があるこの地は、嘉永7(1854)年(11月、安政に改元)、江戸幕府が外国船の江戸湾侵入を防ぐために、海上に構築した第五台場の一画に当たります。
平成24(2012)年1月に、東京都埋蔵文化財センターが、品川台場(第五)遺跡の発掘調査を行いました。その結果、台場の内部に構築された下水溝、一文字堤、休憩所の建物基礎や、台場を一周する堤の法面が、極めて良好な状態で発見されました。下水溝は石組によってつくられ、一文字堤や法面は、対岸から運び込まれたローム土を盛り上げて築かれていました。また建物基礎が、土台木、枕木、杭などによって構築されていることも分かりました。
発掘調査は、建築工事によって止む無く撤去しなければならない部分のみを対象とし、その他の部分は、遺構等の残り具合を確認し、併せて記録に留めた後、遺構等が傷まないよう砂で覆い、現状保存が図られました。」
「品川台場」(東京市 昭和2(1927)年 国立国会図書館蔵)
「五番台場」の写真と、「五番御台場図」です。
台場図には、下水と井戸の記載があります。
二番台場と五番台場は、大正3(1914)年に陸軍省から海軍省に引き渡され、昭和9(1934)年に東京市に払い下げられました。
(参考)品川第五台場石垣石(港区立みなと図書館)
港区立みなと図書館に品川第五台場石垣石があります。(こちらで記載)
<児童保護施設「水上園」>
昭和21(1946)年9月に水上警察署は、品川第五台場(後に第一台場に移設)に児童保護施設「東水園」を設置しました。
その後、児童福祉法が制定され、養護施設として、「戦災者救護会児童施設東水園」となりました。
昭和23(1948)年8月、第一台場の建物に移りましたが、昭和24(1949)年10月のキャスリン台風で建物が破壊され、
翌年の昭和25(1950)年1月をもって閉園しました。(「港区のあゆみ」「港区教育史」を参照しました。)
○品川台場食堂 港区港南5-11-25 03-3472-1338 7:00-14:00 定休日曜
港湾労働者休憩所を併設している品川台場食堂です。
東京港湾福利厚生センターが運営しています。
エントランスから入ると第五台場の展示があり、右手へ行くと休憩所、直進すると品川台場食堂です。
<朝定食>
朝定食(450円)は7:00〜11:00の販売です。2品をチョイスします。種類は豊富です。
肉と魚をチョイスしました。作り置きなので冷えています。そのまま食べるとまずいと思う。
ラップがかかっているので、電子レンジに入れて温めました。
第二台場と第五台場は、大正3(1914)年に陸軍省から海軍省に引き渡され、昭和9(1934)年に東京市に払い下げられました。
昭和36(1961)年に、船舶の航路を塞ぐ形で浮かぶ第二台場は撤去されました。
「品川台場」(東京市 昭和2(1927)年 国立国会図書館蔵)
第二台場の写真です。
明治3(187)年に第二台場の西に設置された品川燈台が見えます。
品川燈台は、明治村に移転保存、レプリカが御殿山下台場跡に設置されています。
「東京名勝高縄鉄道之図」(三代広重 明治4(1871)年)
海上には台場が描かれています。明治3(1870)年フランス人の設計で完成した品川燈台が見えます。
「東京蒸気車鉄道一覧之図」(孟斎芳虎 明治4(1871)年)
高輪海岸の海の上に石垣を築いて鉄道が走っていました。
海上には台場が描かれています。第二台場に、明治3(1870)年フランス人の設計で完成した品川燈台が見えます。
「東京八ツ山下海岸蒸気車鉄道之図」(三代広重 明治4(1871)年頃 都立図書館蔵)
左端に明治5(1872)年の大火で焼失した築地ホテル館が見えます。
海上に連なる台場には。明治3(1870)年に点灯を開始した品川燈台が見えます。
八ツ山下の高輪築堤を走るマッチ箱のような蒸気車は、明治5(1872)年開業前に創造で描いているのでしょう。
レインボープロムナード入口横の駐車場、あるいはレインボープロムナードからから第七台場跡が見えます、というか何もありません。
未完成(3割の出来)のまま海面下に水没した状態で残っていました。
大正3(1914)年に陸軍省から東京府が払い下げを受け、東京府の牡蛎養殖所として使用されていました。
昭和40(1965)年に浚渫撤去されました。