○ 徳丸ヶ原公園(徳丸原遺跡碑)
○ 高島秋帆先生紀功碑(松月院)※再掲
高島秋帆像「近世二十傑 第5巻」(伊藤痴遊 昭和11年)
江戸幕府の鉄砲稽古場が徳丸原にあり、徳丸ヶ原公園に「徳丸原遺跡碑」があります。
公園内には「こども動物園」が設けられています。
<徳丸ケ原>
(説明板)
「徳丸ケ原
東京都旧跡(大正八年)
区登録記念物(昭和六十年度)
高島平・三園・新河岸一帯は、江戸時代徳丸原と呼ばれ、台地寄りに水田がありましたが、荒川寄りには近在の村々の入会地として秣や肥料のための草刈場が広がっていました。
当地は、当初幕府の鷹場でしたが、のちに鉄砲稽古場として大砲や鉄砲の稽古が行われるようになりました。天保十二年(一八四一)には、五月七〜九日の三日間にわたり、長崎の町年寄高島秋帆によって初めての西洋式砲術調練が行われました。
秋帆は、弁天塚(現、新高島平駅)付近に陣を構え、門弟らに筒袖上衣に裁着袴、頭に黒塗円錐形のトンキョ帽という兵装束をさせて、砲兵・騎兵・歩兵の三兵による銃陣を行いました。この時の演習の様子は、区立郷土資料館で所蔵する「高島四郎太夫砲術稽古業見分之徳丸図」に描かれています。
明治時代になると、徳丸ケ原は民間に払い下げられて開墾が行われ、最終的に約四百ヘクタールの徳丸田んぼ・赤塚たんぼと呼ばれる一大水田地帯が出現しました。
昭和四十年代になると、東京周辺の住宅難の解消を目的に開発が行われ、高層団地や地下鉄の建設、住宅地の分譲が進められて現在の街が形成されました。高島平の地名は、当地で砲術訓練を行った高島秋帆にちなんで付けられたものです。
平氏二十五年三月 板橋区教育委員会」
<徳丸原遺跡碑>
天保12(1841)年に高島秋帆が徳丸ヶ原で行った洋式調練を記念して、大正11(1922)年に弁天塚(高島平6-2番地内)に建てられた碑です。
「徳丸原遺跡」の篆額は徳富蘇峰の筆とされています。
昭和44(1969)年、この地が「高島平」と名付けられ高層住宅団地となり、碑は現在の徳丸ヶ原公園に移設されています。
(碑文)
「徳丸原遺跡
此より北荒川に至る南北一千米突東西約二千米突の地域は古の所謂徳丸原なり天保十二年五月高島四郎太夫先生が幕府の命を承けて門人百餘人を指揮し始めて洋式の歩砲兵隊操練等を行ひし處とす
大正十一年六月 高島秋帆先生紀功碑建設首唱者」
(説明板)
「東京都指定旧跡 徳丸ケ原
所在地 板橋区徳丸・高島平・西台・赤塚・四葉附近
標識 大正九年三月
指定 昭和三○年三月二八日
徳丸ケ原は板橋区中西部、現在の高島平、新河岸、三園などかなり広い地域の荒川南岸低地一帯の総称です。徳川幕府の鷹場でしたが、八代将軍吉宗の時代から鉄砲の試射場となり、寛政四年(一七九二)に幕府の正式な大筒稽古場となります。徳丸ケ原は、天保十二年(一八四一)、江戸時代後期の砲術家であった高島秋帆によって西洋砲術の実射訓練が行われたことで一躍有名になりました。
天保十二年(一八四一)、アヘン戦争などの情報を得た秋帆は西洋砲術の採用などを幕府に建議、砲術の実力を確認するための洋式調練と実射がこの地で行われました。この徳丸ヶ原での調練の成功で、高島流砲術の名声が高まりました。
この碑は秋帆が訓練の際に指揮した弁天塚に建てられていたものを移したものです。
平成二四年三月 建設 東京都教育委員会」
○板橋区立郷土資料館展示(再掲)
<鉄砲稽古場徳丸原>
鉄砲稽古場徳丸原と高島秋帆関連の展示があります。
「高島四郎太夫砲術稽古業見分之図」(天保12年(1841)5月)
天保12(1841)年に徳丸ヶ原で行われた砲術演習を描いた絵図です。
高島秋帆が指揮し、多くの大名や鉄砲方が見学に訪れました。
徳丸原出土砲弾(砲術調練の不発弾)が展示されています。
<モルチール砲>
展示室入口に、モルチール砲が展示されています。