Discover 江戸旧蹟を歩く
 
 松月院(千葉氏菩提寺)/赤塚明神跡

  ○ 高島秋帆先生紀功碑
  ○ 伝千葉一族の墓
  ○ 下村湖人の墓
  ○ 赤塚明神跡
    ・旧赤塚村役場跡(赤塚村自治記念碑)
    ・怪談乳房榎記念碑


○松月院(千葉氏菩提寺) 板橋区赤塚8-4-9

 延徳4(1492)年に千葉自胤が寺領を寄進して中興したと伝えられています。

「江戸名所図会 松月院 大堂」

 右に「松月院」「赤塚明神」、左に「大堂」「八まん」が描かれています。
 2枚目は「松月院」と「赤塚明神」部分の抜粋です。

   

<新東京八名勝>

 昭和7(1932)年に報知新聞社が「新東京八名勝」を選定し、その選に漏れた十六名勝を併せて選定しています。
 「新東京八名勝」の記念碑です。

 「新東京八名勝
  赤塚 松月院」

(参考)
 【新東京八名勝】
   池上本門寺 西新井大師 北品川天王社 日暮里諏訪神社 赤塚の松月院 目黒の祐天寺 洗足池 亀戸天神
 【新東京一六景】
   雑司ヶ谷鬼子母神の森 大井の大仏 水元の水郷 奥沢の九品仏 新井薬師 柴又帝釈天 目黒不動
   篠崎堤の桜 堀切の花菖蒲 善養寺の松 哲学堂 三宝寺池 大宮八幡 滝野川の渓流 丸子多摩川の丘 豊島園

   

<石仏・石碑>

 地蔵菩薩像、忠魂碑(昭和30年)、地蔵菩薩像、無縁慰霊寳塔と並んでいます。

   

     

<山門>

 山門をくぐると、幼稚園の行事が参道すぐ右手の駐車場で行われていて賑やかでした。

    

<板橋区史跡 松月院>

 昭和45(1970)年の建立です。

   

<不許葷酒入山門>

 禅宗の寺の門前に立つ石柱で、臭気の強い野菜と酒を口にしたものは寺内にはいることを許さない結戒です。
 明和5(1768)年銘です。

   

(説明板)
「松月院 萬吉山宝持寺 曹洞宗
 延徳四(一四九二)年、千葉自胤はこの寺を菩提寺と定め、寺領を寄進し自ら中興開基となった。開山堂には開基の位牌をまつり、本堂西側墓地には自胤のほか比丘尼了雲の墓碑も建てられている。
 また、天正十九(一五九一)年、徳川家康は四十石の朱印地を当寺に寄進したが、これにならって歴代将軍が下付した朱印状正本が寺宝として秘蔵されている。
 天保十二(一八四一)年、長崎の人・高島秋帆は幕命により、徳丸ヶ原で洋式砲術の訓練を行ったが、その前夜、当寺を本陣とした縁故で遺品類が保存され、顕彰碑も建てられている。
  平成四年三月  板橋区教育委員会」

  

<萬吉山松月院案内図>

 松泉閣側の入口に「萬吉山松月院案内図」が掲示されています。

  

<松月院のシイラギ>

(説明板)
「松月院のヒイラギ
 樹種、ひいらぎ(モクセイ科)。樹高、約十メートル。目通り、約二百七十センチメートル。根回り約三百十センチメートル。樹齢、約百年(推定)。
 ヒイラギは厚い常緑の葉の鋸歯(ぎざぎざ)が鋭く、さわるとひいらぐことからこの由来が出ている。ヒイラギの小枝と鰯の頭を節分の門辺にさし、鬼の侵入を防ぐという習俗は最近までみられる。また、ヒイラギの葉は若木では鋸歯が鋭く、古木になると鋸歯は消滅して全緑となり丸くなることから、人間の成長の過程を象徴するとの説話ものこる。
 松月院のヒイラギは、上部の樹冠の葉は丸く、下部の若い枝の葉は尖った鋸歯をもっている。このような説話の葉の特徴を備えた古木は区内には珍しい。
 平成六年度、板橋区登録文化財の天然記念物(名木・巨樹・老樹等)とした。
  平成八年三月  板橋区教育委員会」

   

<馬頭観世音>

 松月院の参道左は幼稚園で、事務所の壁に、文久元(1861)年銘の「馬頭観世音」があります。
 右側面に馬持中とあるので、交通の要所だったことが伺えます。

     

<お地蔵さん>

 参道左手の幼稚園前のお地蔵さん。

  

<板橋十景>

「板橋十景
 平成15年2月に区制施行70周年を記念して区民応募により
   「板橋十景」を選定しました。(板橋区)
 1.赤塚溜池公園周辺(赤塚5丁目)
 2.板橋(本町)
 3.いたばし花火大会(荒川河川敷)
 4.志村一里塚(志村1丁目)
 5.石神井川の桜並木(石神井川沿い)
 6.松月院
 7.田遊び(徳丸北野神社/徳丸6丁目)
   田遊び(赤塚諏訪神社/大門)
 8.高島平団地とけやき並木(高島平2・3丁目)
 9.東京大仏(乗蓮寺/赤塚5丁目)
 10.南蔵院のしだれ桜(蓮沼町)」

    

<中雀門>

 山門、中雀門、本堂、鐘楼の屋根瓦には、千葉氏の月星紋が刻まれています。

   

<庚申塔/塩地蔵>

 中雀門をくぐらず左手に進むと、小堂に石造物が4基あります。
 一番左に造立年不詳の庚申塔、続いて地蔵尊が3基並びます。
 右から2番目が塩地蔵のようです。

  

    

     

<宝篋印塔>

 境内にある宝篋印塔です。
 板橋区内最古の宝篋印塔は墓地にあります。

  

<鐘楼>

 事前に調べたところ、梵鐘に「庚申」の文字が刻まれているとのこと。
 上に登って近寄ることができず確認はできなかったものの、
 時々活用させてもらっている「墓碑史蹟研究」(磯ヶ谷紫江 昭和5年 国立国会図書館蔵)に2ヶ所「庚申」の文字が確認できました。
 よく探し当てたものだと感心します。

     

  

<松宝閣  (宝物殿)>

  

<高島秋帆先生紀功碑> 板橋区史跡

 紀功碑は、「安政4(1857)年鋳造の銅製二十四斤加農砲砲身」を中心に、付属品「火焔砲弾4発」を配置した記念碑です。
 高島秋帆が徳丸ヶ原の調練時に本陣とした松月院に、大正11(1922)年に設置されました。

     

 「火技中興洋兵開祖
  正二位勲一等 文学博士
  男爵 細川潤次郎書」

     

(説明板)
「高島秋帆先生紀功碑
 この紀功碑は、別名火技中興洋兵開祖碑とも呼ばれ、ここ松月院に本陣を置き、徳丸原で日本最初の本格的な西洋式砲術を指揮した、高島秋帆 を顕彰する目的で大正十一年十二月六日建立された記念碑である。
 高島秋帆は、寛政十年長崎町年寄の名家に生まれ、長じて出島のオランダ人より西洋の砲術を学んだ。天保十一年、中国清国と英国との間で阿片戦争が勃発し、西洋の進んだ軍事技術に清国が大敗すると、その危惧が日本に及ぶことを恐れた高島秋帆は、天保上書を幕府に上申、日本の従来からの砲術技術の変革を唱え、西洋列強諸国に対する防備の一環としての西洋式軍事技術の導入を説いた。
 天保十二年五月七日〜九日までの三日間、高島秋帆は赤塚の朱印寺として名高い松月院に本陣を置き、門弟一〇〇名と起居を共にしながら、現在の高島平、徳丸原にて洋式砲術調練を公開し、世にその名声を得たが、間もなく讒言にあい永牢に繋がれた。
 嘉永六年夏、十一年に及ぶ幽閉を解かれた高島秋帆は、江戸幕府の肝いりで講武所を開設し、支配及び師範に出仕し幕府あるいは諸藩の西洋式軍事技術普及に貢献した。慶応二年正月江戸小早川にて六十九歳の生涯を閉じた。日本陸軍創設者の一人として名高い。
 紀功碑は、安政四年に鋳造された銅製二十四斤加農砲を砲身に火焔砲弾四発を配した大理石製の台座にのせた特異な形をとり、砲術に長けた高島秋帆を象徴する。総高六メートル。
 平成二十六年度区登録文化財」

  

<豊川閣>

 「萬吉山松月院案内図」によると豊川閣と案内されています。

    

<本堂>

   

伝千葉一族の墓>

 墓地に入って右手の石畳を少し行くと、右手に千葉一族(武蔵千葉氏)の墓地である「伝千葉一族の墓」はあります。
 中央左は、比丘尼了雲の宝篋印塔で、元徳元(1329)年の年号が刻まれている板橋区内最古の墓碑です。
 中央右は「松月院殿南州玄参大禅定門」と号する千葉介自秀の墓で、永正3(1506)年の年号がありますが、後世に造立された墓碑であるとされています。

     

  

<元徳元(1329)年銘の宝篋印塔と板橋区立郷土資料館展示の複製>

    

<千葉介自秀の墓>

    

(説明板)
「伝千葉一族の墓
 松月院は、康正二年(一四五六)に下総国での戦いに敗れ、市川城から武蔵国の赤塚城・石浜城へと移った千葉一族の菩提寺です。また、この墓も同一族を弔ったものと伝えられています。
 当墓については、文化九年(一八一二)に斉藤幸孝が記した『赤塚紀行』に挿絵入りで記されるなど、当時から広く知られていました。
 向かって中央右側にあるものが千葉介自秀の墓とされ、松月院殿南州玄参大禅定門の法名と、永正三年(一五○六)六月二十三日の忌日が刻まれています。この墓碑については、すでに江戸時代の段階で後世に造立されたものと指摘されています。また、松月院ではこれを開基檀越である千葉自胤の墓碑としており、文化・文政期(十九世紀前半)に成稿した地誌、『新編武蔵風土記稿』でも墓銘にある自秀は自胤を誤記したものとしています。
 左側には比丘尼了雲の宝篋印塔があります。『赤塚紀行』では、これを自秀室の墓としていますが、時代的にはそれ以前の、元徳元年(一三二九)の年号が刻まれています。これは、区内最古の墓碑であり、境内の発掘調査成果と合わせて、武蔵千葉氏が当地に移る以前の段階で、当所に寺院が存在していたことを証明する貴重な資料となっています。
  平成二十に年三月  板橋区教育委員会」

  

下村湖人の墓>

 『二郎物語』を著した下村湖人の墓があります。
 「萬吉山松月院案内図」に記載があります。

(説明板)
「下村湖人の墓
 下村湖人(本名 虎六郎)は、教育者・小説家など、はば広い分野で活躍しました。とくに主人公の次郎が少年から青年へと成長していく様を描いた自伝的教養小説『二郎物語』は、不朽の名作として今なお多くの読者に親しまれています。
 湖人は、明治十七年(一八八四)、佐賀県神埼郡千歳村(現神埼市千代田町)に生まれました。東京帝国大学卒業後、教員となり、中学校長、高等学校長、大日本連合青年講習所長を務めるなど、一貫して社会教育に従事しました。
 その湖人が、社会教育活動の集大成として著したのが『次郎物語』です。これは、昭和十一年(一九三六)より連載が始まり、同二十九年の第五部まで刊行されています(全七部の予定が未完)。
 湖人は、ここ松月院や赤塚地蔵をこよなく愛し、『次郎物語』第五部に登場する青少年教育施設「友愛塾」の舞台として描写しています。また、絶えずこの地域を訪れ、松月院で作品の構想を練り、一部はここで執筆されたともいわれています。さらに、当寺を妻菊千代の墓所に選んでおり、湖人と松月院、赤塚地蔵の深いつながりが窺えます。
 昭和三十年四月二十日、湖人は七十歳でその生涯に幕を下ろしました。そして、心のふるさとであり、妻菊千代が眠るここ松月院の地に葬られました。法名は覚性院文園徳潤居士。
  平成二十二年三月  板橋区教育委員会」

    

<山岡家の墓>

 立派な墓碑がずらりと並んでいます。

  


赤塚明神跡】

 江戸銘所図会の赤塚明神の抜粋です。
 塚の上に、赤塚明神の祠が見えます。

  

 赤塚明神の跡は、現在は松月院の壇信徒会館が建っています。
 道路に面して「自治記念碑」と「乳房の榎」があります。

  

怪談乳房榎記念碑 板橋区赤塚8-3 松月院檀信徒会館

 「怪談乳房榎記念碑」と「乳房榎の由来」碑の二碑が建っています。
 三遊亭円朝の怪談噺『怪談乳房榎』の記念碑です。
 昭和61(1986)年に怪談乳房榎保存会によって建立されました。

<怪談乳房榎記念碑>

   

<乳房榎の由来>

    

<榎>

   

旧赤塚村役場跡(赤塚村自治記念碑) 板橋区赤塚8-3 松月院檀信徒会館

 旧赤塚村役場跡に、「赤塚村自治記念碑」が建っています。板橋区の記念物に指定されています。

 赤塚村は、明治22(1889)年の町村制の施行により、上・下赤塚、成増、徳丸脇,四ツ葉および徳丸本の6か村が合併して成立し、
 昭和7(1932)年10月の板橋区成立まで村役場が松月院に置かれました。
 この碑は赤塚村の事跡を記録するために建てられています。

   


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