現在の水量は少ないのですが、歴史は古い湧水です。
湧水は「東京の名湧水57選」(平成15年1月)に選定されています。
赤塚城主千葉氏が、不動明王像を安置したといわれています。
江戸期には、富士山や大山への参詣に際して水垢離場として使用されていたといいます。
江戸市中の人々は、大山詣に出かける前に、両国橋東詰の袂の石尊垢離場で水垢離を行いました(こちらで記載)。
<不動の滝公園>
不動の滝の脇に「不動の滝公園」と「説明板」があります。
(説明板)
「赤塚不動の滝
かつて、板橋区内の崖下には、いたるところで水が湧き、人々の生活にうるおいを与えていました。
この滝もその一つです。山岳信仰が盛んになった江戸時代の中頃からは、地元の人たちが富士山や大山(現神奈川県伊勢原市)などの霊山に詣でる際に、身を浄める「みそぎ」場として使われていました。昔は、滝つぼの前に垢離堂(みそぎをする施設)が設けられていたそうです。
また、この滝の上には、あたかも守護神のように不動明王の石像が二体まつられています。
この滝水は、いかなる時でも涸れることはないと伝えられていますが、周辺の宅地開発に伴い水量は減少しています。それでも、自然の豊かだった時代をほうふつとさせる遺構として、いまも地元の人たちによって守られています。
平成十四年度に東京都の名湧水57選に選定されました。
平成15年3月 板橋区 板橋区教育委員会 板橋区観光協会」
<赤塚不動の滝>
令和3年12月の真新しい説明板が建っています。
(説明板)
「不動の滝
不動の滝は、江戸時代に龍公した富士詣・大山詣をはじめ、講と呼ばれる宗教的な集会に参加した人々によって、霊山登拜へ出発する際に心身を浄める水垢離(みずごり)の場として利用されてきました。滝の落ち口には寛政十一年(一七九九)に造立された石造不動尊像が祀られており、十八世紀末には水垢離場として利用されていたことがうかがえます。その後、幕末に赤塚地域で長野県の木曽御嶽山への霊山信仰が広がると、赤塚一山元講が盛んに利用するようになりました。明治三十五年(一九〇二)には滝の周りの玉垣が整えられ、昭和八年(一九三三)
には滝つぼの整備が行われるなど長年にわたって地元の人々に大切にされてきました。
かつて板橋区内の崖線では、いたるところに湧水があり、生活用水や信仰の場として利用されてきました。しかしながら、その多くは土地開発や宅地化によって消滅してしまいました。
そのような中で不動の滝は、地域の講の人々によって継承されており、地域の信仰の場として利用されていた当時の姿をとどめています。
令和三年十二月 板橋区教育委員会」
<荒澤大聖不動明王とは?>
ロウソク立と賽銭箱があり、賽銭箱に「荒澤大聖不動明王 赤塚不動の滝」とあります。
出羽三山、羽黒山の荒沢不動を勧請したのかと直感で思いました。
羽黒山の荒沢不動を勧請したのなら、赤塚不動の滝壺の池は「荒澤不動の池」でしょう。
参考までに、羽黒山の荒沢不動を勧請した荒沢不動尊と湧水の水垢離場である荒澤不動の池が北区十条にあります(こちらで記載)。
徳丸出羽三山神社(板橋区徳丸)に、「荒澤不動明王」碑があります(こちらで記載)。
裏見の滝(栃木県日光市)の滝裏にも荒沢不動明王が祀られています(こちらで記載)。
<不動の滝>
「奉納 瀧壺一式 昭和八年五月竣工 谷島新蔵」とあるので、滝壺は昭和8年に整備されたことが伺えます。
<階段脇の不動明王像>
階段脇に不動明王像が並んでいます。
<不動の滝上の不動明王像>
不動の滝上に2つの不動明王像が祀られています。
下の不動明王像は、寛政11(1799)年4月の建立。
上の不動明王像は、造立年不詳とされていますが、赤塚城主の千葉氏がここに不動明王像を設置したといわれています。
室町時代の造立には見えないし、「荒澤大聖不動明王」とされているので、江戸時代に勧進されたものと推測されます。
<不動の滝公園広場>
不動の滝の脇から階段を上ってみたら、遊具は滑り台が一基あるだけの広場に出ました。