Discover 江戸史蹟散歩

 両国橋

  ○ 両国橋
  ○ 石尊垢離場跡
  ○ 旧両国橋・広小路跡 
  ○ 与兵衛鮨発祥の地
  ○ 百本杭跡



〇両国橋と両国橋児童遊園 墨田区両国1-11-2

<江戸名所図会 両国橋>

 其二の挿絵と連結しています。

 「壱両が 花火間もなき 光かな  其角」
 「この人数 舟なればこそ 涼みかな  其角」

 川面からは花火が上がっています。
 左下に「柳橋」、両国橋西詰と東詰に「広小路」、右端に「元柳橋」が見えます。
 両国広小路には、「料理や多し」「船宿多し」とあります。

  
 

<両国橋と両国橋児童遊園>

    
 

<両国橋と百本杭>

(説明板)

「 両国橋と百本杭   所在地 墨田区両国一丁目〜横網一丁目
 両国橋の風景を特徴づけるもののひとつに百本杭があります。昭和五年(一九三○)に荒川放水路が完成するまで、隅田川には荒川、中川、綾瀬川が合流していました。そのため隅田川は水量が多く、湾曲部ではその勢いが増して、川岸が浸食されました。
 両国橋付近はとりわけ湾曲がきつく流れが急であったため、上流からの流れが強く当たる両国橋北側には、数多くの杭が打たれました。水中に打ち込んだ杭の抵抗で流れを和らげ、川岸を保護するためです。夥しい数の杭はいつしか百本杭と呼ばれるようになり、その光景は隅田川の風物詩として人々に親しまれるようになりました。
 江戸時代の歌舞伎では、多くの作品の重要な場面に「両国百本杭の場」が登場します。「十六夜清心」でも、冒頭に「稲瀬川百本杭の場」が登場します。稲瀬川は鎌倉を流れる川の名ですが、歌舞伎の中では隅田川に見立てられることがあります。観客は「百本杭」という言葉から、この場面が実は隅田川を舞台としていることに気づくのです。百本杭はそれほど人々に知られた場所だったのです。
 また、明治十七年(一八八四)に陸軍参謀本部が作成した地図には、両国橋北側の川沿いに細かく点が打たれ、それが百本杭を示しています。
 明治三十五年(一九○二)に幸田露伴は『水の東京』を発表し、「百本杭は渡船場の下にて、本所側の岸の川中に張り出たるところの懐をいふ。岸を護る杭のいと多ければ百本杭とはいふなり。このあたり川の東の方水深くして、百本杭の辺はまた特に深し。こゝにて鯉を釣る人の多きは人の知るところなり」と富士見の渡の南側から見られた様子を綴っています。このほか、本所向島に親しんだ多くの文人が、百本杭と往時の記憶について書き留めています。
 しかし、明治時代末期から始められた護岸工事で殆どの杭は抜かれ、百本杭と隅田川がおりなす風情は今では見られなくなりました。
  平成二十三年三月  墨田区教育委員会」

   
 

<両国橋由来碑>

 碑にはめられているプレートには「名所江戸百景 両国橋大川ばた(広重)」が描かれています。

(碑文)

「 両国橋
 両国橋の名は、武蔵と下総との二国を結ぶところからこう呼ばれたが、正式の名はただ大橋であった。しかし新大橋なども造られたため、両国橋が正式の名となった。江戸一の大火である明暦の振袖火事(一六五七年)では、橋がなくて逃げられずに多数の死者が出た。そのため、大火のあと、この橋が架けられた。
 回向院は、その人々を弔うために建てられた。のちに勧進相撲が催されることとなったのである。
 この橋が架かったため、本所、深川が江戸の新市街として発展することとなった。橋詰の両側は、賑やかな遊び場所としても開けた。幕末からは、川開きの花火もあって、江戸の市民には喜ばれた。
 現在の橋は、昭和七年(一九三二年)に完成した。
  昭和五十九年三月  東京都 」

   
 

<大高源五句碑>

 大高源五は子葉と号し、俳諧・茶事に通じ、室井其角とも親交がありました。
 赤穂四十七士の一人で、討入りに参画。

 「日の恩や忽ち砕く厚氷」
 本懐を遂げたことを意味しています。この句の設定は諸説あります。

   
 

<表忠碑>

 日露戦役の大きな碑です。揮毫は大山巌侯爵。
 「戦没者弔魂祭兼凱旋軍人歓迎会」(海軍中将榎本武楊委員長)により明治四十年元旦建立。

   
 

両国納涼 一の橋弁天 - 絵本隅田川両岸一覧 - >

「すみだが誇る世界の絵師葛飾北斎の描いた風景をたどろう
 D 両国納涼 一の橋弁天 - 絵本隅田川両岸一覧 -

狂歌絵本『隅田川両岸一覧』三巻のうち、中巻の一枚です。納涼の人々で賑わう、昼間の両国橋の様子が描かれています。手前は当時、江戸屈指の盛り場であった両国広小路であり、掛け小屋や茶屋などが並んでいるのがわかります。絵本ならではの横長の構図が、この絵の大きな特徴と言えるでしょう。真ん中の上方に見える小さい橋が、今の竪川(両国一丁目と千歳一丁目)に架かる一之橋。森のあたりが一の橋弁天で、現在の江島杉山神社です。右の三角の建物は幕府の御船蔵です。」

     

  
 

「江戸名所道戯尽 二 両国の夕立 」(歌川広景)

 両国橋を描いた浮世絵は、川開きに関わる花火や舟、人の賑わい、百本杭などが定番ですが、
 こちらは、花火も舟も人々も描かれていません。向岸に柳橋が見えるので両国橋の隅田川左岸の光景です。
 夕立の中、雷神と河童が戦っています。

 この雷神様、雷を落とすのではなく、自分が隅田川に落ちたようです。
 太鼓が破損して隅田川に浮いています。
 隅田川から両国橋へ這い上がろうとする雷神様に対し、河童は足をつかんで川に引きづりこもうとしていると、
 雷神様が放屁、鼻をつまむ河童。雷神様は逃げられたのでしょうか。

   
 

 「雷乃怪我」(北斎漫画)

  北斎漫画に、怪我をした雷神が放屁する絵が掲載されています。
  雷雲から落ちて怪我をしたのでしょうか。こちらがネタ元ですね。

   



石尊垢離場跡 墨田区両国1-11

<大山詣>

 大山とは、神奈川県にある標高1,252メートルの山で、気軽に登れるので大山詣は人気がありました。
 大山詣に出かける前に、両国橋東詰の袂の石尊垢離場で水垢離を行い、
 「奉納大山石尊大権現」と書かれた納太刀を持って出かけました。

 小林一茶が石尊垢離場を句に読んでいます。
 「寒月や石尊祈る角田川」(七番日記 小林一茶 文化13年)
 

(説明板)

「江戸の町 石尊垢離場跡 24
 石尊とは、神奈川県伊勢原市にある大山のことです。山頂の阿夫利神社は、商売繁盛と勝負事に御利益があるので江戸中期、江戸っ子が講を組み、白衣に振り鈴、木太刀を背負った姿でお参りに出かけました。
 出発前に水垢離を取り、体を清めました。その垢離場が旧両国橋の南際にありました。川の底に石が敷いてあり、参詣に出かける者が胸のあたりまで水につかり「さんげさんげ、六根罪障、おしめにはったい、金剛童子・・・」などと唱えながら、屈伸を行い、そのたびにワラで作ったサシというものを流したのです。その賑わいは、真夏の海水浴場のようだったとされています。
 墨田区」

    
 

<浮世絵に見る水垢離場>

 国立国会図書館所蔵の錦絵だけから捜したので、他にもまだまだあるかと思います。
 

「東都両国夕凉之図」(貞房)

 錦絵の一番左に、納太刀を立てて水垢離する9名の姿が見えます。
 水垢離場には「大山石尊」の立派な立て看板が川中に見えます。

   
 

「江戸両国すずみの図」(豊国)

 複数の絵を連結しています。
 向岸に、納太刀を立てて水垢離する人々が小さく描かれています。

  

  
 

「両国橋川開きの図」(絵師不詳)

 人と舟が多く描かれている中、水垢離の光景も見えます。

   
 

「江戸年中風俗之絵」(橋本養邦)

 両国橋と思われる部分の抜粋です。
 隅田川左岸両国橋下から、3人の男たちが川から上がってくるところです。
 一人は納太刀を持っています。

  

  
 

「名所江戸百景 両国船中浅草遠景」(広重)

 左に大きく梵天が見えます。
 「両国船中浅草遠景」のタイトルから推察して、船に立てられた梵天でしょう。
 右の船上には、梵天を立てて、先達の修験者が法螺貝を吹いています。
 大山講中一行が柳橋の船着き場を目指すところです。

   
 

「隅田川両岸一覧 両国納涼・一の橋弁天」「隅田川両岸一覧 無縁の日中」(北斎)

 2つのタイトル絵を連結しています。
 両国橋で「奉納大山石(尊)大権現」の納太刀が見えます。
 手前は両国橋の西詰なので、東側の水垢離場に行くところと推測します。
 または、納太刀を納めて古い納太刀を持ち帰ったので、大山詣から帰ってきたところでしょうか。

  

 「奉納大山石(尊)大権現」部分の拡大です。
 右に、水の幟が見えます。氷かと思いましたが、冷やし水かと思います。

  
 

「東都隅田川両岸一覧 西」(鶴岡蘆水 天明1(1781)年)

 絵巻から両国橋の部分の抜粋です。
 川中に石が敷かれているのが水垢離場でしょう。

  

  



旧両国橋・広小路跡 墨田区両国1-11

 両国橋の両側に火除地として広小路が設けられ、江戸随一の盛り場として賑わいました。
 東側の広小路は、赤穂浪士休息の地だった場所でもあり、広小路と赤穂浪士の説明板があります。

(説明板)

「江戸の町 旧両国橋・広小路跡 22
 旧両国橋は現在の両国橋の下流約五十メートルのこの辺りに架かっていました。完成は万治二年(一六五九)十二月。明暦三年(一六五七)の大火が大災害となったため、幕府が防災上の理由から架け、武蔵と下総の国を結ぶ橋なので、両国橋と呼ばれました。
 橋の上は、四方が眺望できる絶景の場所で、近くは浅草の観音堂、遠くは常陸の筑波山まで見えたようです。橋が架かったことで交通の要衝となるとともに、橋の袂には火除け地としての広小路が設けられました。西側(日本橋側)は「両国広小路」といわれ、芝居小屋や寄席、腰掛茶屋が立ち並び、東側は「向こう両国」と呼ばれ、見世物小屋、食べ物屋の屋台が軒を連ねる繁華街となりました。
 寛保二年(一七四二)の調査では一日に二万人以上が往来したとされています。
 (広小路における水仕掛け大からくり引札)
 墨田区」

    



与兵衛鮨発祥の地 墨田区両国1-8

(説明板)

「与兵衛鮨発祥の地 
   所在 墨田区両国一丁目八番
 この横町の左手に、江戸握り鮨発祥といわれる与兵衛鮨がありました。文政の始めに、初代・小泉与兵衛(一七九九?一八五八)により大成されました。
 小泉与兵衛は、霊岸島の生まれでしたが、次々と商売を替えて、本所で暮らすようになりました。その頃に、大阪風の押し鮨にあきたらず、これを江戸風に鮮度を保ち、手早く造る方法を工夫しました。初めは、毎日岡持に鮨を入れて売り歩きましたが、評判を呼ぶようになり、屋台を出し、後には店舗を開くほどになり、殺到する注文に追いつけない繁盛ぶりだったと伝えられます。
 当時の狂歌にも、「鯛比良目いつも風味は与兵衛ずし買手は見世にまって折詰」などと人気のほどを伺うことができます。
 また、食通の武士の注文に応じて与兵衛が創案した「おぼろの鮨」も大変な人気となりました。屋台で山本のお茶を出したことも人気に拍車をかけました。
 以後、昭和五年に惜しくも廃業しました。
平成十二年三月  墨田区教育委員会」

    



百本杭跡 墨田区両国1-2-25

 両国疫西口交差点前のビルの植栽の中に「百本杭跡」の説明板があります。
 百本杭は、隅田川の護岸のために、縦杭が埋め込まれていたところです。
 他に両国橋東北詰と隅田川テラスにも説明板があり、3か所です。

(説明板)

「江戸の町 百本杭跡 12
 百本杭とは、総武線鉄橋あたりの隅田川の湾曲した東側の部分に打たれていた護岸のための杭で、ここからほど近い川中にありました。川の流れを和らげて、土手を保護する役目を負っていました。その辺りは、明治中頃までは鯉の釣り場として有名で、釣り好きの幸田露伴もよく出かけたといわれています。
 その風景も見事だったため、広重の「東都名所」にも描かれていますし、最後の浮世絵師といわれる小林清親が「千ぼんぐい両国橋」や「東京両国百本杭晩之図」として浮世絵に描いています。
 また、歌舞伎の「色街模様薊色縫」の「稲瀬川百本杭の場」で、かなわぬ恋をした二人が身を投げて心中する場所とされています。
  墨田区」

   
 

<隅田川テラスのモニュメント>

  
 

「仁山智水帖 両国百本杭」(光村写真部 明35.6)

  
 

「千ほんくい両国橋」(小林清親)

 説明板に掲載されている版画です。

  
 

「両国百本杭之景」(井上安治)

  
 

「東京両国百本杭晩之図」(小林清親)

  
 

「百本杭ノ三日月」(井上安治)

  
 

「日本名勝図会 隅田川」(小林清親 明治30年4月)

  

 隅田川アートギャラリ(両国地区)に掲示があります。

  
 

「隅田川小春凪」(小林清親)

 どこの光景を描いたのか不明ですが、土手が途切れて屋敷が見えます。土手には杭が見えます。
 向岸は木橋の手前に橋が見え、さらに手前には石垣が見えるので浅草御蔵かも。
 木橋は両国橋かと思われます。

  

 江戸切絵図で確認すると、御蔵橋辺りからの両国橋方向を眺めた光景のようです。

  
 

「東京名所三十六戯撰 大川はた百本杭」(昇齋一景 明治5(1872)年)

 釣りをしていて、釣れた鰻が百本杭に絡まって、おおあわてです。
 雨が斜めに降っているので風が強い様子で、女性は前かがみです。
 右下には三人の子どもがいて、人力車には三人は乗れないので車夫が困っています。
 三人とも杖を持っているので、近くの杉山検校の学校で学んでいる子どもたちであろうことが想起されます。

  


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