地福寺は、日光御成道に面していて、将軍の日光社参の際には、休憩所となっていました。
<山門>
山門は文化5(1803)年の造立です。
<地蔵>
王子の三地蔵の1つ、「鎌倉街道のお地蔵さま」(移設)と呼ばれていた石仏が山門脇の一番左に佇んでいます。
この石仏は庚申塔でもあります(後述)。
<水琴仏>
<奉献石燈籠>
寛永寺徳川将軍霊廟への奉献石燈籠が二基あります。
右は「常憲院殿 尊前」 四代将軍、徳川綱吉です。
右は「有徳院殿 尊前」 八代将軍、徳川吉宗です。
<出羽三山供養塔>
出羽三山供養塔があります。年紀は確認せず。
「月山 湯殿山 羽黒山 大般若 供養塔
天下太平 國土安穏」
台石には「大乗院講中」とあります。先達大乗院はよく見るところですが、これは初めてみました。
大乗院の活動範囲を知りたいですね。
<四種の庚申塔>
四種の庚申塔の説明板があります。このような説明板には感謝します。
(説明板)
「四種の庚申塔
庚申信仰は、道教(中国)の三尸説を基として生まれ、これが日本に伝わるや、仏教、神道、民間信仰などと結びついて、ほぼ全国津々浦々にまで広まってゆきました。
当寺にも左の通り、四種の庚申塔がまつられており、郷土の人々の熱心な信仰振りをうかがわせています。
一.青面金剛立像
<本体・正面>
奉造立大青面金剛庚講
(日輪) (鶏) (見ざる)
(ウーン)(青面金剛)(邪鬼)(聞かざる)
(月輪) (鶏) (言わざる)
享保五庚子天霜月吉日同行八人
二.閻魔大王坐像
<本体・正面> <基壇・正面> <壇・側面>
(閻魔大王) 庚申 貞享二年三月
三.阿弥陀三尊種子文字庚申塔
<本体・正面>
(サ) 武州豊嶋郡十条村
(キリーク) 奉供養庚申待現當二世安樂
(サフ) 承應二癸巳天七月吉日敬白
四.地蔵菩薩立像
<本体・正面> <基壇・正面> <基壇・右側面>
(地蔵菩薩)(蓮弁)(見ざる) 地蔵
(聞かざる) [三]
(言わざる) □
念佛
[一][切]
三夜□ □
<基壇・左側面>
寛保元辛酉歳
十月吉日
庚申」
<青面金剛立像(庚申塔)>
真新しい台石の上に建つ、享保5(1720)年銘の庚申塔です。
<閻魔大王坐像(庚申塔)>
裏の墓地入口にある、貞享2(1685)年銘の閻魔大王坐像の庚申塔です。
台座に説明板「四種の庚申塔」があります。
<阿弥陀三尊種子文字庚申塔>
承応2(1653)年銘の阿弥陀三尊種子文字庚申塔です。
庚申塔としては古い時代のものです。
<地蔵菩薩立像(庚申塔)>
寛保元(1741)年銘の地蔵菩薩立像で、庚申塔です。
基壇に三猿が見えます。
<慰音堂>
貞明皇后(大正天皇の皇后)像が祀られています。
ハンセン病救援事業の草分けとなった貞明皇后の御事跡を永く世に遺すため平成12(2000)年に建立されました。
(説明板)
「貞明皇后像
貞明皇后御製
つれづれの友となりてもなぐさめよ
ゆくことかたきわれにかはりて
ハンセン病に対する偏見が社会に根強く残る昭和の初め、大正天皇の妃・貞明皇后は不運な病に見舞われた人々に深くお心を痛められ、温かい励ましのお言葉と共に多額のお見舞金を?々全国のハンセン病療養所にお贈りになられた。
後年、そうしたお見舞いが、一足の足袋を縫っては履き縫っては履くという陛下御自身の御暮らしをきびしく切り詰めた上でなされたものであることを知り、病者たちの感激は一入であった。(『全生今昔』「縫われた足袋」)
平成八年、らい予防法の廃止を機に、近代皇室によるハンセン病者救援事業の草分けとなった陛下の御事跡を永く世に遺すため、国立療養所多磨全生園内に「貞明皇后像建立委員会」を結成、財団法人・藤楓協会の御協力を得て製作の運びとなった。
完成されたお像は、広く一般の方々に御覧頂くため地福寺境内に一宇「慰音堂」を建立し、これにお納めることとした。
幾そ度御下賜給ひし皇后陛下の
ほつれ縢れるしろき足袋かも
お像は、全生園駐在布教師・三輪照峰師詠の右の歌をテーマに、縫いを重ねた足袋を時の林芳信園長にお譲り渡しになっているお姿を表現した。又、彫刻は同園療養者で元船大工・永見謙吉氏の勤刻である。
平成十二年三月吉日
国立療養所多磨全生園
貞明皇后像建立委員会」
<弘法大師一千五十年遠忌>
<ビルマの竪琴/東日本大震災供養碑>
<四国八十八ヶ所お砂踏み>
<太閤千代しだれ>
<郷土の語り部ーお寺の椎の木(樹齢三百年)>
<本堂>