Discover 江戸旧蹟を歩く
 
 祐天寺

  ○ 祐天寺
  ○ 祐天寺墓所


祐天寺 目黒区中目黒5-24-53 HP

「江戸名所図会」

 挿絵には、「惣門」があり、「惣門」をくぐってすぐ左手に「地蔵」があります。
 「仁王門」をすぎると左手に「阿弥陀堂」、右手に「鐘」「手水や」があり、「本堂」に至ります。
 境内左手にも出入り口があり、その先に「祐天大僧正墓」があります。
 現在も江戸時代と変わらぬたたずまいです。

  
 

【表門】

 表門は、国の有形文化財(建築物)です。

  
 

<新東京八名勝 目黒祐天寺>

 昭和7(1932)年に報知新聞社が「新東京八名勝」を選定、その記念碑が建っています。

  

(参考)

【新東京八名勝】
 池上本門寺 西新井大師 北品川天王社 日暮里諏訪神社 赤塚の松月院 目黒の祐天寺 洗足池 亀戸天神
【新東京十六景】
 雑司ヶ谷鬼子母神の森 大井の大仏 水元の水郷 奥沢の九品仏 新井薬師 柴又帝釈天 目黒不動 篠崎堤の桜 堀切の花菖蒲 善養寺の松 哲学堂 三宝寺池 大宮八幡 滝野川の渓流 丸
子多摩川の丘 豊島園
 

<当寺開山祐天大僧正二百回遠忌報恩塔>

 大正6(1917)年の祐天上人200回遠忌に建立されました。

  
 

<祐天寺(浄土宗)>

(説明板)

「祐天寺(浄土宗)  中目黒5-24-53
 祐天寺は、享保三年(1718)祐天上人を開山と仰ぎその高弟祐海上人が創建した寺院です。当時新しい寺院の建立は幕府の厳しい制約があって困難でしたが、祐天上人のかねてからの強い希望と、祐海上人の大変な努力によって、享保8年「明顕山祐天寺」の寺号が許されました。以来、将軍吉宗の浄財喜捨や特別の保護を受けるなど、徳川家と因縁のある寺として栄えてきました。
 本堂には、「木造祐天上人坐像」が安置されています。この尊像は、将軍綱吉の息女松姫の寄進で、享保4年大仏師法橋石見の名作です(都指定文化財)。また、祐天寺第二世「祐海上人の木造坐像」(区指定文化財)等が安置されています。
 本寺所蔵の「般若心経」1巻、「紺紙金字法華経巻第三」1巻(ともに都指定文化財)の2点は類例の少ない逸品です。
 なお境内には、将軍綱吉息女竹姫寄進の「仁王門」(区指定文化財)および阿弥陀堂や稲荷堂、将軍家家宣夫人天英院寄進の梵鐘と鐘楼、地蔵堂など江戸時代の遺構を伝える建造物のほか、江戸消防ゆかりのもの、かさね供養塚などがあります。
 墓地には、「祐天上人の墓」や柳原愛子(大正天皇生母)の墓等の名墓及び「白子組並びに灘目の海難供養碑」(ともに区指定文化財)などがあります。
  平成3年3月  目黒区教育委員会」

  
 

<国の文化財>

「登録有形文化財
 第13-0298〜0308号
 この建造物は貴重な国民的財産です 文化庁

 0298 本堂   万延元年(1860)建立
 0299 書院   明治28年(1895)建立
 0300 地蔵堂  天明 8年(1788)建立
 0301 地蔵堂門 嘉永 4年(1851)建立
 0302 表門   明治時代前期
 0303 水屋   弘化 3年(1846)建立
 0410 鐘楼   享保14年(1729)建立」

  
 

<仁王門> 目黒区文化財

 享保20(1735)年に、五代将軍綱吉の息女竹姫が寄進しています。

     

(説明板)

「仁王門
  目黒区指定有形文化財(建造物)
  昭和55年2月12日指定
    中目黒5-24
 この仁王門は冶王像とともに、享保20年(1735)の建立で、5代将軍綱吉の息女竹姫が寄進されたものです。
 桁行8.5m(28尺)梁間4.3m(14尺)棟高9m(29.6尺)三間一戸八脚門切妻造本瓦葺型銅版葺(昭和6年本葺よりふきかえ)円柱は欅材です。
 正面の両脇間に享保20年法橋石見作の仁王像、背面の東脇間に持国天、西脇間に増長天像が安置され、ともに運慶の作と伝えられています。また、中央間の内側には正面に麒麟、背面に海馬の二獣神を配しています。なお、頭貫上の蟇股には十二支が彫られ、方位を示しています。
 各虹梁、木鼻、肘木、蟇股に施された渦紋、若葉紋の彫りは力強さを感じさせ、木割、細部絵様等の建築様式の特徴は江戸中期の性格を留めています。
 長い年月の間に幾度か修理・改修されていますが、軸部、組物、細部絵様等に変化なく創建当初の姿を保存しています。
  平成5年3月  目黒区教育委員会」

  
 

【境内左】
<荏原郡忠死者弔魂碑>

 山門脇にある日清戦争戦没者慰霊碑です。

 「明治二十七八年之役」
 「荏原郡忠死者弔魂碑」

  
 

<耆山上人衣鉢塔>

 天明3(1783)年造立の石塔です。
 耆山(きざん)上人は優れた学僧で、服部南郭の門人でした。
 大田南畝(蜀山人)は彼に深く私淑していました。

 隣にあるのは、江戸町火消や組の小次桜が安政5(1858)年に建てた句碑。
 その先にあるのは、左が瑞泰院殿(萩藩七代藩主毛利重就正室)、右が養源院殿(瑞泰院殿の娘)の功徳碑です。

   
 

<島崎七郎翁之像>

 昭和34(1959)年11月の建立です。

   
 

<海難供養碑> 目黒区文化財

 「白子組海難供養塔」文政4(1821)年に建立。
 「灘目の海難供養塔」寛政8(1796)年に建立。

   

(説明板)

「海難供養塔  灘目の海難供養碑  1基
        白子組の海難供養碑 1基
      目黒区指定文化財(昭和62年3月31日指定)
      中目黒5-24-53
 江戸時代に灘の樽回船と、関西の木綿問屋仲間白子組の回船が江戸に向かう途中、それぞれ相模灘や駿河湾、遠州灘で大風に遭い、度々沈没しました。
 この2基の海難供養塔は、その遭難者の慰霊のために江戸の商業問屋仲間が建立したものです。いずれも祐天寺住職であっ祐全・祐東自筆の名号が刻まれ、当初から当寺に建てられたものと推定されます。
 供養塔に刻まれた碑文により、度重なる海難の事実を知ることができます。またそれぞれの廻船および海難事故については、船籍所在地の史料からも史的事実の裏付けがなされています。祐天寺の海難供養塔2基は近世における商業経済史、海上輸送史、海難史研究において貴重な資料です。
  平成21年3月  目黒区教育委員会」

  
 

<地蔵堂> 国重要文化財

 天明8(1788)年の建立です。

  
 

<阿弥陀堂> 目黒区文化財

 阿弥陀堂は、五代将軍徳川綱吉の息女竹姫の寄進で、享保9(1724)年4月に上棟されました。

(説明板)

「阿弥陀堂
   目黒区指定有形文化財(建造物)
   平成5年6月29日指定
 阿弥陀堂は、五代将軍徳川綱吉の息女竹姫の寄進で、享保9年(1724)4月に上棟されました。
 同堂は、木割および細部絵様の簡潔でありながらしっかりとした線刻から考察しますと、江戸時代中・後期の特質を留めています。
 名棟札の記載事項は、建築様式および沿革から判断して各々建立時や修復時のものであり信頼度の高いものです。また、当阿弥陀堂は幾多の修補・修復が行なわれたにもかかわらず、回禄や倒壊などによる根本的な再造営は、行なわれなかったものと考えられます。
 祐天寺は由緒ある名刹として有名ですが、このお堂は創建時の姿を伝えるものとして仁王門とともに重要なものです。特に常行堂としての扱われ方やその基本的な空間構成は往時のままであり、江戸中期の三間四面堂を知る上で貴重なものです。
 〔注〕回禄とは火の神のこと。転じて火災のこと。
  平成7年3月  目黒区教育委員会」

   
 

<五社稲荷神社>

    
 

<仏舎利殿>

 大絵馬「祐天上人かさね済度」が奉納されています。
 累の物語を描いたもので、昭和61(1986)年に日本美術院同人の月岡栄貴らによって制作されています。
 雲に乗った祐天上人が導いています。

   
 

【境内右】
<子まもり地蔵尊>

  
 

<歌碑>

 平成11(1999)年に建立されています。
 「寝ぬれはほとけのみ胸に 覚むれば佛のみ手に」(知恩院86世中村康隆)

   
 

<かさね塚>

   

(説明板)

「かさね塚の由来
 祐天上人は増上寺第三十六代の大僧正で徳川家五代〜八代まで歴代将軍の帰依を受け、四海に響く名僧であった。
 寛文八年の頃、上人飯沼弘経寺に在住の頃、累一族の怨霊を化益された事跡あり。
 文政年間、鶴屋南北が歌舞伎に脚色上演し、天下の名作との誉れ高く、上人の遺徳愈々高まる。大正十五年、六世尾上梅幸、十五世市村羽左衛門、五世清元延寿太夫等が施主となり、現在地にかさね塚を建立し、累一族の霊を弔い、上人の遺徳に浴することになった。
 爾来、歌舞伎清元の上演者は必ず、この塚に詣で累一族を供養して興行の無事と、上演の盛会を祈願することが慣習となっている。
  以上」

  
 

梵鐘(時の鐘)> 国重要文化財・目黒区文化財

 この梵鐘は、享保13(1728)年に徳川6代将軍家宣(文昭院)の17回忌の追善供養のため、
 正室の天英院が発願し翌享保14(1729)年に完成したものです。
 元文3(1738)年に時の鐘に加えられました。今日でも撞かれているのは、上野、浅草寺、祐天寺と3つです。
 鐘楼は国の重要文化財、梵鐘は目黒区文化財です。
 

(説明板)
「梵鐘
   目黒区指定有形文化財(工芸品)
   平成26年9月26日指定
     中目黒5-24-53
 総高179.6cm、口径102.2cm。この梵鐘は、享保13(1728)年に徳川6代将軍家宣(文昭院)の17回忌の追善供養のため、正室の天英院(近衛熙子)が発願し、翌享保14年に完成したものです。鋳造は祐天寺の敷地内で行われたことが記録に残り、鋳身には何回かに分けて鋳造されていった痕跡が見られます。鐘には、祐海上人が撰文した「明顕山祐天寺鐘銘并記」をはじめ南無阿弥陀仏の名号および願文、時の将軍吉宗、願主天英院、御用掛、工匠の名などが刻まれています。
 また鐘の上部には徳川家の家紋の三葉葵、下部には天英院の実家である近衛家の家紋の牡丹が陽鋳されています。徳川家と祐天寺の関係を示すだけでなく、目黒区の郷土資料として貴重です。
 元文3(1738)年の27回忌追善を期に時の鐘として撞かれることになり、現在でも朝6時と正午前に撞かれています。
  平成27年3月  目具区教育委員会」

   
 

<木遣り塚>

 南無阿弥陀仏の名号が刻まれています。

  
 

<地蔵菩薩像>

 平成29(2017)年5月の開眼で、地蔵堂の本地身である地蔵菩薩像の模刻です。

  
 

<安住敦の句碑>

 安住敦(1907-1988)の七回忌に句碑が建てられました。

 「てんとむし一兵われの死なざりし 敦」

  
 

<寺務所>

  
 

<御本堂>

  
 

(説明板)

「木造祐海上人坐像
  区指定文化財(昭和53年3月22日指定)
  中目黒5-24-53
 この像は祐天寺2世祐海56歳の姿を写した寿像です。元文2年(1737)に弟子たちが発願し、大仏師法橋石見により製作されました。
 本堂に安置され、像高48.3cm。寄木造、彩色、一部金泥塗り、玉眼、円頂、頭部は襟際で挿首。法衣に環付の袈裟をかけ、合掌、趺坐の姿をしています。
 祐海自著の銘文が墨書され、文化5年(1808)に胎内に祐海の遺言とともに納められました。
 江戸時代中期の紀年を有する入念な肖像彫刻として貴重であり、内刳の内部に箔押を施しているのは本尊祐天上人坐像にならったもので、大変珍しい遺例です。
  平成21年3月  目黒区教育委員会」

  
 

(説明板)

「東京都指定有形文化財 旧崇源院霊屋宮殿
  所在地 目黒区目黒五の二四の五三
  指定 平成二七年三月十六日
 旧崇源院霊屋宮殿は、徳川二代将軍秀忠の夫人で三代将軍家光の生母、江(宗源院)の位牌を祀るために寛永五年(一六二八)に建立された宮殿で、元々は家康の側室である愛の菩提寺の、駿府(静岡市)金米山宝台院龍泉寺の崇源院霊屋にあったものです。その後、八代将軍吉宗の治世(一七一六ー四五)にこの霊屋が畳まれた際に、目黒区の明顕山祐天寺に寄付されました。現在は徳川家康像を安置します。
 本宮殿は、正八角形を基本とする変形六角形の特異な形式です。これは将軍夫人の宮殿に限定的に用いられた形式と考えられ、類似の宮殿が芝増上寺の徳川家霊廟にありましたが戦災焼失したため、本件は存在が知られるものとしては現存する唯一の遺構です。禅宗様の建築技法や豊富な金具による豪華な装飾は、徳川将軍家にふさわしい顕著な特徴で、その典型例でもあります。
 本件は、歴史的・文化的意義を有するとともに、学術上・芸術上の価値が極めて高いものです。
  平成二八年三月 建設  東京都教育委員会」

  


祐天寺墓地

<宝篋印塔>

 墓地に入って石畳の先に、巨大な「宝篋印塔」があります。

   
 

柳原愛子墓>

 「宝篋印塔」を右に曲がって進むと「祐天上人墓」があり、
 墓正面左手前に大正天皇御生母の柳原愛子(やなぎしまなるこ)さま墓はあります。

 掲示に「大正天皇御生母 柳原一位局之墓」とあります。

     
 

 (正面) 「従一位勲一等柳原愛子墓」

 (左側面)「智孝院殿法譽妙愛日實大姉」
      「安政五年五月二十六日生
       昭和十八年十月十六日薨

    
 

「美人七陽華 正五位柳原愛子」(月岡芳年 明治11年)

 浮世絵にも取り上げられています。

  
 

<柳原愛子> 大正天皇御生母

 ※出典「大正天皇と塩原温泉」(塩原もの語り館展示)

   
 

(参考)大正天皇と塩原温泉について、こちらで記載
 

<柳原家之墓>

 左隣りは、「柳原家之墓」です。
 柳原愛子の兄である柳原前光(柳原白蓮の父)が葬られています。

    
 

<祐天上人墓> 東京都旧跡

   
 

「江戸名所図会」

 祐天寺の挿絵に、「祐天大僧正墓」が描かれています。

  
 

(説明板)

「東京都指定旧跡 祐天上人墓
  所在地 目黒区中目黒五の二十三の十七 祐天寺墓地内
  仮指定 大正十四年六月六日
  指 定 昭和三十年三月二八日
 祐天上人は江戸時代中期に活躍した浄土宗の高僧です。陸奥国岩城郡(福島県)四倉村に生まれ、伯父の芝増上寺内池徳院休波を訪ねて江戸に上がります。その後檀通を師として修学し、諸国修行の旅に出ました。
 牛島で念仏生活を続けていたところ桂昌院の帰依を得て、将軍綱吉との関係も深まります。元禄十二年(一六九九)に下総国生実大巌寺の住持となり、宝永元年(一七○四)には伝通院住持となりました。たびたび江戸城に召され、とりわけ大奥の人々が深く帰依しました。正徳元年(一七一一)将軍家宣より芝増上寺住持を命じられ、三十六世となり大僧正に任ぜられました。多数の寺院の復興などを行い、多くの人々の帰依を得ました。
 正徳四年(一七一四)隠居し、享保三年(一七一八)入寂しました。
 祐天寺は、祐天上人の遺言により高弟祐海が念仏道場を建立したことに始まります。祐天を開山とし、祐海は二世となりました。
 墓はいわゆる無縫塔で、倒卵部分の高さは九○センチメートルを計ります。六角板状の基部があり「当寺開山 祐天大僧正」などと記されています。
  平成二十四年三月 建設  東京都教育委員会」

  


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