Discover 江戸旧蹟を歩く
 
 江戸城外堀史跡展示広場(JR四ツ谷駅)

  ○ 江戸城外堀史跡展示広場
  ○ 四谷門の石材
  ○ 四谷門の枡形石


○江戸城外堀史跡展示広場 新宿区四谷1-5-25 四ツ谷駅四ツ谷・麹町口改札外コンコース

 四ツ谷駅改札外コンコースに「江戸城外堀史跡展示広場ー外堀と鉄道ー」が開設されています(2020年6月29日開設)。
 展示内容は「四ツ谷駅周辺の史跡案内」「外堀の構築」「甲武鉄道開業」「復興と発展」となっています。

    

    


「史跡 江戸城外堀跡 周辺案内図」「四ツ谷駅周辺案内図」「江戸城外堀跡散策案内図」
(説明板)
「この2枚の散策図は、飯田橋駅から四ツ谷駅周辺に残る江戸城外堀跡を中心とした文化財を示したものです。これらは、近世から近代までの東京の歴史を示しています。
 また、日本橋を起点とする五街道が四方に延び、江戸出入口の大木戸や宿場の位置を左の図に示しました。
 さらに江戸御府内を示した「墨引図(町奉行支配の町範)」は、概ね現在の山手線を中心として、東は隅田川を越えて錦糸町駅までの広い地域であったことが分かります。」

    

「「江戸城外堀史跡展示広場」−外堀と鉄道ー」
(説明板)
「この広場は、四ツ谷駅周辺に点在する江戸城外堀の遺構開設とともに、
外堀と明治期以降の鉄道の歴史を紹介する場として2020(令和2)年に開設しました。江戸時代の外堀を活用して近代都市東京の社会的基礎である鉄道が整備され、現代に継承されているという、歴史の重要性を感じて頂ければ幸いです。」

  

「石垣・レンガ・コンクリート(壁面)」

  


「江戸城築城と外堀普請」
(説明板)
「四谷という地名は、武州豊島郡村関戸という原野に百姓家が四軒あったことに由来するといわれます。1590(天正18)年、江戸に入った徳川家康は、江戸城と街道を整備しました。1603(慶長6)年に架けられた日本橋を起点とする五街道の一つ、甲州街道(現在の新宿通り)は、半蔵門から四谷門を通って武蔵府中に向かう幹線道です。江戸の出入口には、四谷大木戸が設置されました。1636(寛永13)年、江戸城外郭の四谷門と外堀の築造にあたって、半蔵門から四谷門に連なる麹町13町の内、十一丁目から十三丁目を四谷門外に、町や寺社も移転させられました。江戸城外堀の大部分は、谷地形や川を利用して造られ真田濠(現上智大学グラウン)は、台地を深く掘削して造られました。掘りあげた土で、四谷門外東西の谷を埋め、四谷伝馬町・四谷塩町・伊賀町等の場が形成されていきました。また、四谷門南の喰違門内外には、徳川御三家や譜代大名の屋敷が配置されました。」

    

 四谷門「旧江戸城写真帖」/江戸城外堀と城下町の拡大

  

 江戸城外堀構築に伴う麹町の一部移転

  


「四谷門と玉川上水」
(説明板)
「江戸は良質な飲料水を得にくいため、家康は江戸に入る前後から上水道の整備を進めたといわれています。江戸の拡大につれ井の頭池から引く神田上水や赤坂溜池では不足となり、幕府の計画を詰け負った町人庄右衛門・清右衛門兄弟により、1654(承応3)年、玉川上水が完成しました。
 玉川上水は、羽村(現東京都羽村市)に設けた堰で多摩川から取水し、約43kmの水路で四谷大木戸(右図)まで至り、ここから地下に埋設された木樋・石樋を通って江戸城や江戸市中へ給水する水道でした。四谷門の土橋を通る木槌と石樋が発掘で確認されています。1901(明治34)年、近代水道の整備により、神田上水とともに市内への給水が停止されました。」

   

「四谷門の土橋沿いに作られた水道橋」

  

「四ツ谷駅改築工事で発掘された木樋」

  

「名所江戸百景「玉川堤の花」」

  

「外堀の眺めと土塁の植栽」

  

「四ツ谷駅周辺の移り変わり」

  


「江戸城外堀を利用した鉄道」
(説明板)
「1872(明治5)年に、日本最初の鉄道が新橋駅・横浜駅間に開通しました。その後、東京の都市化が著しく進み、都市基盤整備が急務となりました。この動きにあわせ、現在の中央線となる甲武鉄道が計画されました。甲武鉄道は、まず1889(明治22)年に新宿駅・立川駅間で開業しました。その後、1894(明治27)年に江戸城外堀の空間を利用して、新宿駅?牛込駅(現在の飯田橋駅)間において市街線が開業すると、甲州街道の拠点であった四谷は交通の要衝として、さらに賑わうこととなりました。」

   

「陸軍省からの要請文」

 

「外堀における市街線路線計画図」

  

「甲武鉄道の汽車と電車」

  

「甲武鉄道のシンボル「甲」」

  

「甲州街道・四谷門の改変と市電と四谷見附橋」

  

「歴史的景観に配慮していた甲武鉄道」/「四ツ谷駅周辺の工事」

   

「個性的な隧道(トンネル)の坑門デザイン」

  


「広がる東京の鉄道網」
(説明板)
「甲武鉄道は1904(明治37)年に御茶ノ水駅まで延伸され、さらに万世橋駅(左上図)まで建設が進められました。建設には外堀と神田川という江戸城惣構の土地が活用されました。その間の1906(明治39)年に甲武鉄道は国有化され、中央線(中央東線)となりました。さらに、1919(大正8)年には東京駅(1914(大正3)年開業・右上図)まで延伸されました。現在も見ることができる御茶ノ水駅から東京駅を越えて新橋駅まで連なる高架橋(左下図)は、当時から使用されているものです。中央線の乗降客数の増加により輸送力の増強が求められたため、1922(大正11)年より複々線化工事が始まり、1929(昭和4)年に運行が開始されました(右下図)。」

   

「四ツ谷駅周辺における複々線化工事」

  

「外堀の桜並木」

  

「貨物線から急行線へ」

  


「都市化の波と史跡指定の動き」

   

「堀の埋め立てと外濠公園」「真田濠の埋め立て」「四ツ谷駅周辺の戦後のできごと」

    


「掲載図版出典一覧」

 1 外堀の構築

  

 2 甲武鉄道開業(明治時代〜大正時代)

  

 3 復興と発展(昭和時代〜現代)

  


四谷門の石材 千代田区麹町6 JR四ツ谷駅麹町口出口

 JR四ツ谷駅麹町口出口に、JR四ツ谷駅改修工事等で発掘された四谷門石材が置かれています。

   

(説明板)
「四谷門枡形石垣に用いられた石材
 江戸城外堀は、堀や土塁を佐竹家や上杉家など東国大名が、石垣を毛利家、森家、蜂須賀家など西国大名が御手伝普請で分担し築かれました。
 この石材は、JR四ツ谷駅改修工事等で発掘された、四谷門石垣の角の部分を構成していた石です。江戸城の石垣石は小田原から真鶴半島を経て、伊豆半島東海岸と西海岸の沼津周辺の石丁(切) 場で産出された安山岩で、石船で江戸城へ運ばれてきました。
 細川家では1636(寛永13)年の外堀普請で計13,452石が運び出されたと言われています。

四谷見附と周辺の地域
 半蔵門から四谷口に至る甲州街道沿いには、麹町13町が連なっていましたが、外堀が築かれる際に麹町十一丁目から十三丁目は四谷門外(現新宿区側)に移転しました。
 甲州街道は、四谷門を出て西へ麹町十一丁目に入り、十二丁目の角を南に下りますが、この「大横丁」は江戸の西側で最も繁華な地域であったといわれています。1873(明治6)年に、四谷門外土橋を通る玉川上水の掛樋修繕を行う時も、この土橋は東京の東西の大道で、馬車・人力車の通行のみならず、麹町・四谷近辺の住民の苦情もあって通行留めにすることはできず、仮橋を架橋することになったほど、交通量の多い道でした。
 1894(明治27)年に四ツ谷駅が設けられると、道路を行き交う市電とともに地域の重要な交通結節点として発展を続けることとなります。
  JR東日本旅客株式会社」

    


四谷門の枡形石 新宿区四谷1-5-25 JR四ツ谷駅麹町口出口

 四谷見附橋の橋詰から覗くと、四谷門の枡形石を見ることができます。

    

(説明板)
「現存する四谷門の枡形石
 江戸城には、内郭10、外郭26の城門があったとも言われ、赤坂見附など現在も地名に残る「見附」には番人が置かれていました。外郭の四谷門は、四谷口・外麹町口とも呼ばれ、甲州街道沿いで町人や物資が行き交う門として交通の要所でもありました。
 四谷門桝形石垣は、1636(寛永13)年の御手伝普請で萩藩(現在の山口県)主の毛利秀就によって作られました。四谷門の構造は、冠木門(高麗門)と渡櫓門からなる枡形門で、冠木門左手の石垣上には稲荷が祀られ、樹木も植えられていました。門の警備は3年交代で旗本が担当していました。
 四谷門枡形石垣は、明治期に市電の敷設に伴い撤去され、冠木門北面の一部を残すだけです。しかし、1988(昭和63)年JR四ツ谷駅改修工事等に伴う発掘で、渡櫓門石垣下段の内5段が発見されました。石には毛利家を示す「雁金紋」の刻印が確認されます。発掘された石垣の隅石部は、JR四ツ谷駅麹町口駅舎南側に保存されており、四谷見附橋の橋詰から覗くとその姿を見ることができます。
  JR東日本旅客鉄道株式会社」

   

「四谷見附橋」

  


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