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 六阿弥陀 第四番 与楽寺

  ○ 与楽寺
    ・六阿弥陀道標1
    ・六阿弥陀道標2
    ・奉献石燈籠
    ・六阿弥陀堂第四番
  ○ 与楽寺坂
  ○ 与楽寺西の庚申塔道標(六阿弥陀)


与楽寺(四番) 北区田端1-25-1

 六阿弥陀参詣の第四番札所の与楽寺(よらくじ)です。

   

「江戸名所図会 田畑八幡宮 与楽寺」

 全体図と与楽寺部分の拡大です。
 「與楽寺 六阿弥陀 第四番目」とあり、現在と同じ場所に阿弥陀堂と石燈籠が2基描かれています。

   

(説明板)
「賊除地蔵の伝承地
  与楽寺(田端一ー二五ー1)
 与楽寺は真言宗の寺院で、江戸時代には二○石の朱印地を領有していました。この境内には、四面に仏を浮彫にした南北朝時代の石の仏塔があります。また、阿弥陀堂には行基作と伝わる阿弥陀如来が安置されています。当時、これは女人成仏の本尊として広く信仰を集めていたことから、ここは江戸の六阿弥陀詣の第四番札所として、多くの参詣者を得ていました。
 さて、本尊は弘法大師作と伝わる地蔵菩薩で、これは秘仏とされています。この地蔵菩薩は、次のように伝承されています。
 ある夜、盗賊が与楽寺へ押し入ろうとしました。すると、どこからともなく多数の僧侶が出て来て盗賊の侵入を防ぎ、遂にこれを追い返しました。翌朝見ると、本尊の地蔵菩薩の足に泥がついています。きっと地蔵菩薩が僧侶となって盗賊を追い出したのだと信じられるようになり、これより賊除地蔵と称されるようになりました。
 仏教では、釈迦が入滅してから五六億七千万年後に弥勒が現われるまでの間は、人びとを救済する仏が存在しない時代とされています。この時代に、地蔵菩薩は、自らの悟りを求め、同時に地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天という六道の迷界に苦しむ人を救うと信じられてきました。そして江戸時代になると、人びとの全ての願望をかなえる仏として信仰されるようになり、泥足地蔵・子育地蔵・田植地蔵・延命地蔵・刺抜地蔵というように各種の地蔵伝説が生み出されました。与楽寺の賊除地蔵も、これらの地蔵伝説の一つとして人びとの救済願望に支えられて生み出されたものといえます。
  平成元年三月  東京都北区教育委員会」

  

【入口脇石塔群】

  

<一基目>

 宝暦7(1757)年銘の寺標で、道標を兼ねています。

 (正面)
  「伊豫國太山寺移」
  「御府内八十八ヶ所第五十六番寳珠山 與樂寺」
 (左側面)
  「自是右谷中観音寺 八町」
  「同左當所東覚寺 一町」
  (※当時は東覚寺は与楽寺の末寺でした)

    

<二基目>

 「六阿弥陀第四番與樂寺」

  

<三基目>

 「西國廿一番 丹波國阿のう寺写」

  

<四基目>(六阿弥陀道標1)

 明和4(1767)年銘の秩父坂東西国百箇所巡礼塔で上部に聖観音像が陽刻され、
 正面「秩父西國坂東、順禮供養佛」 右「天下泰平」 左「日月和順」 と刻まれています。
 下部には「右ハ江戸駒込道」「左ハ王子道灌山道」とあり道標を兼ねています。
 左側面は六阿弥陀道標となっており、 
 「右ハ六阿弥陀三番目道 左ハ六阿弥陀四番目道」とあります。

     

<五基目>

 安永5(1776)年銘の敷石供養塔です。
 (正面)「奉建立敷石□々為二世安樂也」

   

<六基目>

 「皇太子殿下御降誕記念」

  

<霊堂/関東大震火災遭難死者供養記念塔>

    

<大師堂>

  

<客殿>

  

奉献石燈籠>

 常陸国谷田部藩の第4代藩主細川興栄による常憲院殿尊前霊廟(寛永寺)への奉献石燈籠です。
 常憲院は、江戸幕府5代将軍徳川綱吉です。綱吉が亡くなった宝永6(1709)年の奉献です。

 「東叡山
  常憲院殿尊前
  宝永六年己丑正月十日
  従五位下 常洲長門守源興栄」

     

<仏像/賢信大僧正遺徳碑>

   

<本堂>

    

   

六阿弥陀堂第四番>

 本堂の左手に阿弥陀仏を安置する阿弥陀堂があります。

    

<燈籠型庚申塔>

 阿弥陀堂前の左右に石燈籠があります。
 左の燈籠下に、正面と左右に三猿が一匹づつ彫られています。燈籠型の庚申塔です。
 寛文9(1669)年銘で「庚申供養為菩提」とあります。

      

 右の燈籠は「阿弥陀念佛供養證爐」とあります。

   

<線刻阿弥陀如来>

 堂前には、線刻阿弥陀如来

  

<三基>

  

<日露戦役忠魂碑>

 明治39(1906)年12月の建碑です。

   

<五重石塔/巴連納札塚>

  

<大僧正慶信像>

  

<宝篋印塔>

  

<鐘楼/梵鐘>

 梵鐘には天女のレリーフが施されています。

   

【墓地入口】

 「六地蔵石幢」と不揃いの「六地蔵」が並んでいます。
 道標を兼ねているものもあり、ここに集められたものでしょう。

   

<六地蔵石幢>

  

<線刻石板>

  

<六地蔵>

・一基目 舟型光背型地蔵
 元禄13(1700)年銘の地蔵菩薩。
 光背右「六地蔵四番目 武州江戸講中」

    

・二基目 丸彫地蔵(六阿弥陀道標2)

 正面には元文4(1739)年銘(裏には寛保元(1741)年銘)の地蔵菩薩像で、道標を兼ねています。
 正面左脇「阿弥陀三番目道」
 左側面「右ハ六阿弥陀四番目道」
    「奉造立地蔵菩薩」
    「施主 本所林町四丁目 桔梗屋 清正」

     

・三基目 丸彫地蔵
 台座の裏に三猿がいます。背中に文字が刻まれています。

      

・四基目丸彫地蔵
 個人の供養塔かと思って撮らず。

・五基目、六基目 舟型光背型地蔵
 五基目の光背右「奉造立六地蔵」 左「武州江戸本江講中」

  

【墓地】

 板碑型庚申塔がありました(赤○)。

  

<板碑型庚申塔>

 墓地の奥にある無縁仏の前列の右端に、万治元(1658)年9月銘の板碑型の庚申塔があります。
 前面上部に「庚申」とあります。下部には願主名が列記されています。

      

<供養塔>

 供養塔中央に、享保10(1725)年銘の地蔵菩薩坐像があります。
 台石には「四番目地蔵」と刻まれています。
 地蔵に踏まれているのは邪鬼、脇に聞か猿がいるように見えますがどうなんでしょう。
 右脇「本郷四町目同丸山眞光寺門前」、左脇「講中」とあります。

     


与楽寺坂 北区田端1-25

   

(説明板)
「与楽寺坂
 坂の名は、坂下にある与楽寺に由来しています。『東京府村誌』に「与楽寺の北西にあり、南に下る、長さ二十五間広さ一間三尺」と記されています。この坂の近くに、画家の岩田専太郎、漆芸家の堆朱楊成、鋳金家の香取秀真、文学者の芥川龍之介などが住んでいました。
 芥川龍之介は、書簡のなかに「田端はどこへ行っても黄白い木の葉ばかりだ。夜とほると秋の匂がする」と書いています。
  平成5年3月  東京都北区教育委員会」

   


○与楽寺西の庚申塔道標(六阿弥陀) 北区田端1-13-10

 寛政12(1800)年銘の損傷が激しい庚申塔道標です。六阿弥陀の道標も兼ねています。

 (正面) 青面金剛立像
 (左面)「北 王□/上尾久道」
 (右面)「右 六阿弥陀 四□/日くらし□道/千住道□」

     

     


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