Discover 江戸旧蹟を歩く
 
 八ツ見橋(一石橋)

  ○ 八ツ見橋
  ○ 現在の一石橋
  〇 銭瓶橋跡
  〇 国指定史跡「常盤橋門跡」
  〇 常盤橋
  〇 江戸桜通り


.八ツ見橋(一石橋)

 一石橋は、八つの橋を見渡せ、江戸の名所のひとつでした。
 西に道三堀の銭瓶橋、道三橋、北に外堀の常盤橋、南に外堀の呉服橋、鍛冶橋、
 東に日本橋川の日本橋、江戸橋、それと一石橋を加えて八橋が見えました。
 

「名所江戸百景 八ツ見のはし」(広重)

 「八ツ見のはし」(一石橋)から、道三堀の銭瓶橋と奥に道三橋が見えます。

  
 

「江戸名所図会 八見橋」

 日本橋と江戸橋は後に掲載するとして省略、六橋が描かれています。

  
 

「狂歌江都名所図会 八ツ見橋」(広重)

 日本橋と江戸橋は後に掲載されており、六橋が描かれています。

  
 

「絵本江戸土産 八ツ見橋の景 其二」(広重)

 「八ツ見橋の景」と「其二」を繋げました。全ての八橋が描かれています。

  
 

「東都名所 八ツ見之橋真景」(広重 都立図書館蔵)

 鳥瞰図ですべての八橋が描かれています。

  
 

「江戸城の昔と今」(東京国際フォーラム掲示)抜粋

 江戸橋以外の七橋です。

  
 

「富士三十六景 東都一石ばし」(広重)

 一石橋(手前)と銭瓶橋(奥)さらに奥に道三橋が描かれています。

  
 

「日本橋より一石橋を見る図」(国直)

 日本橋より見た一石橋です。

  
 

「一石橋夕景」(小林清親)

 明治初期の一石橋を小林清親が描いています。

  
 

「一石橋」(江戸の今昔 歌川広重 昭和7年)

  


現在の一石橋】 中央区日本橋本石町一丁目〜中央区八重洲一丁目

 日本橋川上流右岸からの一石橋
   
 

<一石橋の歴史> 中央区日本橋本石町1-1

 日本橋川左岸下流側に、「一石橋の歴史」碑があります。

(碑文)
「一石橋の歴史
 一石橋は寛永年間(一六二四〜一六四七年)またはそれ以前から存在した橋である。左の写真に見られる一石橋の姿は、大正十一年に架け替えられた当時の姿で、アーチ部分の石積み、重厚な石の高欄や親柱、照明などの細部に至るまでデザインの施された橋であり、当時の時代を感じさせる西洋的でモダンな印象をかもし出している。
 一石橋の上流半分は、昭和四十八年にスチール製の桁橋に架け替えられ、平成十一年には下流側半分についても架け替え工事が行われて今日に至っている。大正時代当時の一石橋の姿を残しているのは上流側の大きい親柱と小さい親柱(当時の袖柱)のみとなり、残りの施設については、平成十一年の下流側架け替え工事に伴い、当時の姿と印象を残し継承する意味で新たに造り替えられている。」

   

 左岸下流の親柱(旧袖柱) 左岸上流の親柱(旧袖柱)
   
 

<一石橋の親柱> 中央区文化財 中央区八重洲1-11

 日本橋川右岸上流側に、「一石橋の親柱」と説明板があります。
 大正11(1922)年に建造された親柱です。

     

(説明板)
「中央区民文化財 一石橋の親柱
   所在地 八重洲一町目十一番先
 皇居外堀と日本橋川が分岐する地点に架橋された一石橋の歴史は古く、江戸初期の「武州豊島郡江戸庄図」にすでに木橋として見えています。当時は西河岸町と北鞘町とを結ぶ橋で、橋名の由来としては、北橋詰近くの本両替町に幕府金座御用の後藤庄三郎、南橋詰近くの呉服町には、幕府御用呉服所の後藤縫殿助の屋敷があり、後藤をもじって五斗、五斗+五斗で一石と名付けたと「江戸砂子」に見え、日本橋地区と神田地区を結ぶ橋として重要でした。
 木橋としては最後となった明治六年(一八七三)の一石橋は長さ十四間、幅三間の橋でした。大正十一年(一九二二)に東京市道路局によって鉄骨コンクリート花崗岩張りのモダンな橋となり、堂々とした親柱四基をすえた白亜の橋となったのです。関東大震災にも落橋せず、その後も交通上の重要な橋として使われてきました。平成九年には大正十一年の橋本体は全て撤去されましたが、威風堂々とした花崗岩の親柱一基は残され、当時の姿を忍ばせています。
 平成十四年に中央区民文化財に登録されました。
  平成十五年三月  中央区教育委員会」

  
 

<一石橋迷子しらせ石標> 東京都文化財

 一石橋迷子しらせ石標があり、几号水準点が刻まれています。こちらで記載


銭瓶橋跡 千代田区大手町2-6先 日本ビル北側歩道(説明板)

<江戸の銭湯発祥の地>
 銭瓶橋は、江戸の銭湯発祥の地でもあります。
 天正19(1591)年、伊勢出身の商人、伊勢与市が、銭瓶橋のたもとに銭湯を開業しました。

<本所・深川の給水源>
 上水の届かない本所や深川では、上水の「余り水」を水船が運び、住民は棒手振りの水売から飲料水を買っていました。
 上水は江戸市中に給水後、余り水は銭瓶橋及び一石橋の吐樋から放流されていました。
 上水記によると、銭瓶橋の北側に神田上水の吐樋、南側に玉川上水の吐樋があったようです。
 幕府の鑑札を受けた水船業者が水船に汲んで本所や深川に運び、あるいは廻船に売水していました。

   

(説明板)
「銭瓶橋跡
 銭瓶橋は、江戸城建設の物資補給路のために開削された道三掘・日本橋川と、1636年(寛永13年)に掘削された外堀の3本の水路が交差する場所(現在の丸の内一丁目付近)に架けられていました。
 銭瓶橋の由来は諸説あり、橋を架設する際に地中から銭の入った瓶が掘り出されたからとする説と、この付近で永楽銭の引換えが行われており、「銭替橋」と呼ばれたからとする説があります。
 江戸の名所の一つとして知られ、有名な景勝地でした。歌川広重の「名所江戸百景 八つ見のはし」には中央に銭瓶橋が描かれています。
 1909年(明治42年)、道三堀が埋め立てられ橋も姿を消しました。  千代田区」

    

 「江戸城を取り巻く地形と文化財
  
 

「名所江戸百景 八ツ見のはし」(広重)

 説明板に掲示されている広重の「名所江戸百景 八ツ見のはし」です。
 「八ツ見のはし」(一石橋)から、道三堀の銭瓶橋と奥に道三橋が見えます。

   
 

「江戸名所四十八景 一石はし夕景」(二代広重 都立図書館蔵)

 手前が一石橋で、奥に銭瓶橋が描かれています。
 さて、銭瓶橋には、上水懸樋が並行して架けられているように見えます?
 両側は吐樋だと思っていたので意外な一枚です。

   
 

「江戸切絵図」

 銭瓶橋部分の抜粋です。

  


○国指定史跡「常盤橋門跡」 千代田区大手町二丁目〜中央区日本橋本石町二丁目

 常盤橋公園内石垣、常磐橋、橋の石積が国史跡として指定されています(昭和3(1928)年3月24日)。

    

(標柱)
 「史蹟常盤橋門址」
 「昭和六年三月建設 東京市」
 「昭和三年三月」(よく読めません)

    
 

<常磐橋>

 国指定史跡「常盤橋門跡」内の常磐橋は、明治10(1877)年に木造から洋式石橋に架け替えられました。
 東日本大震災により橋の輪石が歪み、補修・修復工事が行われ、令和3(2021)年5月10日に工事完了・開通しました。

    

 橋の中央区側には、1896年に辰野金吾の設計により建設された日本銀行本店が建っています。
   

 橋の千代田区側には東京トーチタワーの建設が進められています。
    
 

「絵本江戸土産 神田明神」(二代広重)

 挿絵には「神田明神は江戸大祭の随一にして祭事は九月十五日也 惶くも大樹公の上覧あり 這は田安御門より繰込みたるを 常盤橋御門より引出すのさまを図せり」とあります。常盤橋御門から出てくるところが描かれています。

  
 

「常盤橋門址 東京市史蹟名勝天然紀念物写真帖」(東京市公園課 大正11年)

  
 

「常盤橋内紙幣寮之図」(小林清親 明治13年)

 常盤橋の皇居側に明治9年に竣工した紙幣寮(現・国立印刷局)の印刷工場が描かれています。

  
 

「東京名所 紙幣局」(井上安治 明治10年)

 紙幣局のタイトルで描かれています。

  
 

<青淵澁澤榮一像> 千代田区大手町2-7-2 常盤橋公園

 こちらで記載


常盤橋 千代田区大手町二丁目〜中央区日本橋本石町一丁目

 常磐橋に代わる幹線道路用の橋として、昭和元(1926)年に架けられた石橋です。

     上流(常磐橋)からの常盤橋          下流からの常盤橋
   


江戸桜通り 中央区日本橋本石町〜日本橋室町〜日本橋本町

 常盤橋から日本銀行と貨幣博物館の間を東へ、三井本館の横を通り、昭和通りまで、桜並木が続くのが江戸桜通りです。
 西端の日本銀行横(中央区日本橋本石町2-1)、三越本店横(中央区日本橋室町1-4)、コレド室町横(中央区日本橋室町2-2)、
 東端の昭和通り手前(中央区日本橋本町2-5)に石標が建っています。
 「江戸桜通り」は、市川團十郎の「助六由縁江戸桜」にちなんで名づけられ、石標は十二代目市川團十郎による揮毫です。

 日本銀行(辰野金吾設計 国重要文化財)
    
 

(石標)
 「江戸桜通り
   十二代目 市川團十郎
   平成十七年十月吉日
   名橋「日本橋」保存会 建立」

 日本銀行横(中央区日本橋本石町2-1)
   

 コレド室町横(中央区日本橋室町2-2)
    

 昭和通り手前(中央区日本橋本町2-5)
    


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