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 千住宿歴史プチテラス(やっちゃ場)


○千住宿歴史プチテラス 足立区千住河原町21-11 土日開館

 元地漉紙問屋・横山家(千住4丁目)の土蔵を移築して「千住宿歴史プチテラス」として利用されています。
 国土交通省の平成6年度手作り郷土賞「ふるさとの文化を育む街角の広場30選」に選定されています。

     

<パンフレット>

    

<やっちゃばの地碑>

 芭蕉句碑が「千住奥の細道プチテラス」に移設され、代わりに「やっちゃばの地」碑が建っています。
 令和2(2020)年とあります。

 「元千住青物市場
  やっちゃばの地
  令和ニ年 創立四百四十四年記念」

    

「鮎の子のしら魚送る別哉」

 千住宿歴史プチテラスから千住奥の細道プチテラスへ移設されています。

    (移設前)         (移設先) 菖蒲園の句碑と並んで建っています。
    

(千住宿歴史プチテラス石板)
「千住宿歴史プチテラス
 この建物は、平成四年六月、足立区千住四丁目二十八番の元地漉紙問屋・横山家の土蔵を家主である横山佐吉氏から足立区へ寄贈されたものです。
 寄贈された土蔵は、間口が二間半、奥行き三間半のニ階建てで母屋と棟続きの内蔵として使われていました。この土蔵の「棟札」によると、「天保元年葵寅三月」(一八三○年)に建築されたものであり、江戸時代建築の証拠が残る都内では珍しい建築物です。
 この度、ここ千住宿歴史プチテラスに移築し、“歴史と潤いのあるまちづくり”のためのギャラリーとして活用することとなりました。
 プチテラス整備に伴い、横山佐吉氏から「庭石」、千住二丁目二十七番の山崎忠男氏から高さ八尺(ニ、四メートル)の「石灯篭」、千住四丁目氷川神社から「力石」の寄贈を受けました。
 また、この計画には当初から地域住民の方々の参画を得て、設計から工事、管理・運営について検討を重ねてきました。
 管理、運営については、地域住民の方々により組織された「千住宿歴史プチテラス維持会」が平成四年十二月十日に発足し、当プチテラスを多くの人々に喜んで利用されるよう、清掃、鍵の管理等を行っています。
 このように、地域の方々に多大なる御尽力を得て無事完成することができました。
 ここに深く御礼申し上げます。
  平成五年四月一日
  足立区都市環境部まちづくり課
  (財)足立区まちづくり公社」

  
 

【館内】

 やっちゃ場が賑わっていた時の品々や写真が展示されています。

  

<千住市場と文人たち>

 「初市に 宝船踊り 果てにけり 菖蒲園句」
 「永き日の 古き歴史の 市場かな 虚子」

 「やっちゃ場句会」(高浜虚子の命名)を創立した為成菖蒲園の他の句です。
  「やっちゃ場の 主となりて 昼寝かな」
  「学問が 無くて幸せ 大根糶る」
  「ころげたる トマト踏まるゝ 市場かな」
  「百頭の 飾り馬来し 市場かな」
  「街薄暑 奥の細道 ここよりす」(奥の細道プチテラスに句碑)

  

 プチテラス隣の建物に、やっちゃば句会の絵と句が掲示されていましたが、マンション建設で以下の掲示は消失しました。

 「千住出れば奥街道の青嵐 子規」
 「永き日の古き歴史の市場かな 虚子」
 「やっちゃ場の主となりて昼寝かな 為成菖蒲園」

  

<為也善太郎> 足立区千住河原町21-16 ベルグレード前

 やっちゃ場に為也善太郎が当主だった屋号の掲示があります。

「大喜 元青物問屋 新大阪屋
 当主為也善太郎は俳諧を良くし俳号を為也菖蒲園と称す。高浜虚子の指導を受け昭和十九年ホトトギス同人に推薦される。やっちゃ場では菖蒲園を先達として俳句会が生まれた。その名は高浜虚子の命名による「やっちゃ場句会」である。菖蒲園はやっちゃ場の青物問屋の主人の馬力で精力的に近隣地区の句会の指導を続けている。
 今でも千住の俳句界では菖蒲園の名は懐かしく語られ続けている。
  寄贈 株式会社大林組 あだちまちづくりトラスト助成」

  

<谷塚屋岡本午三郎と木彫家富岡芳堂/千住大橋の脚柱で作った品々>

     

「大橋舊橋」(足立区立郷土博物館蔵)

 千住大橋の最後の木橋は、明治19(1886)年に架けられ、昭和2(1927)年に現在の鉄橋に変わりました。
 架け替えの際、地元の有志が脚柱を譲り受け、仏像や縁起物に細工しました。

  

<富岡芳堂>  足立区千住河原町21-10 阿部メディカルクリニック

 やっちゃ場に「富岡芳堂」の説明板があります。

「やっちゃ場と千住の彫刻家 富岡芳堂
 明治二十三年 千住二丁目富岡呉服店の次男として生まれる。幼少より芸術を好み彫刻家吉田芳明氏に師事する。大正四年米国サンフランシコにて開催さた万国博覧会に国?代表作品として出展し二等銀牌を受けた。特に旧千住大橋の木橋材(高野槙)による作品は現在も千住の家々に千住の心として大切に保存されている。昭和三十二年没。

 やっちゃ場の家々に旧千住大橋の木橋材で作った作品が十一体確認されている。なぜやっちゃ場にはこの様に多いのか。元投師(出仲買人)「油清」の井出忠太郎さんは芳堂と大変親しかった。油清の主要仕入問屋は「谷清」谷塚屋である。谷清を仲介して問屋や仲買人への働き掛けがあったものと思われる。新築祝、誕生祝、快気祝といった時に作った。大橋の長寿にあやかったのではないか。面白いもので作品の残っているのはやっちゃ場の東西の位置の家である。旧陸羽街道に沿った南北の家並には見当らない。おそらく昭和二十年四月の空襲で焼失したのであろう。比の他に千住には掃部宿、一〜五丁目、大川町に十一体散在している。遠く横浜にも一体あり、冨岡家のご子孫の家には高さ1.2m巾1.3mの巨大な学問の神様菅原道真候の像が保存されている。何時の日か千住のしかるべき場所に祭り千往の子供達の学業向上に役立てばと考えている。実現すれば芳堂光生も喜ばれる事と思う。
  寄贈 阿部メディカルクリニック あだちまちづくりトラスト助成」

    

<奥庭>

 前庭のほかに、奥庭もあります。
 江戸時代の商家の税金対策としての特徴である間口が狭く奥行きが長い構造です。

    


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