Discover 江戸旧蹟を歩く

 河原稲荷神社

  ○ 足立区内最大の狛犬
  ○ 千住青物市場創立三百三十年祭紀念碑


○河原稲荷神社 足立区千住河原町10-13 HP

<西鳥居>

 国道4号線に面して鳥居があります。こちらは裏です。

    
 

<東鳥居>

 大師道側に鳥居があり、こちらが表参道です。鳥居は文政13(1830)年の造立です。

    
 

<神社も由来を知らない句碑>

 「句碑
   誓いての 後のたのみや 夏木立
 揮毫は元掃部宿対嶋薬局のご隠居さんで 雅号は冨雪
 やっちゃ場の問屋四十三軒の人々が檜樹を奉納した記念に建立した。
 どうして奉納したかは定かでなく、俳句の作者も不明である。
 どなたかご存知の方は当神社へお知らせ下さい。
  河原稲荷神社」

   
 

<足立区内最大の狛犬>

 足立区内最大の狛犬がいます。
 「この狛犬は何でも大きなものが好きなやっちゃ場の旦那衆が造りあげたものである」
 浅草神社の狛犬と同じ石工の作としか思えないとのことで、浅草神社の狛犬より大きいです。
 浅草神社の狛犬奉納者は江戸の火事の特に吉原再建で、かなり羽振りが良かったと思っていますが、
 やっちゃ場の問屋は浅草神社の狛犬よりさらに大きな狛犬を奉納できたのですから、
 かなり羽振りが良かったと思われます。

(説明文)
「狛犬
 狛犬は高麗犬とも書くコマというのは異国を意味しているので高麗の字を宛てたようである。
 狛犬は石などで造り御殿や神社の前に据え置くもの、鬼魅を避けるためといふ。起源については種々の説があって一定しない。
 一般に狛犬を唐獅子と言ったりするように、本来は獅子ではないかと思われる節がある。
 当神社の狛犬は足立区内最大の狛犬で自然石を組み上げた上に鎮座させている阿吽の一対。
 口を開けている方が阿で雄という口を閉じているのが雌。
 何でも大きなものが好きな「やっちゃ場」の旦那衆が造りあげたものである。
 残念ながら石工は疎か献納者の名も刻んでいない。良く似た兄弟狛犬がある。
 浅草寺隣り三社祭で知られる浅草神社の狛犬。
 台座の石組みもそっくり同じ手法でダイナミックなノミ捌きも同じ石工の作としか思えない。
 皆様も是非浅草神社でご覧下さい。
   河原稲荷神社」

   

     
 

千住青物市場創立三百三十年祭紀念碑>

 明治39(1906)年建設の紀念碑が建っています。

   

(説明板)
「千住市場創立三百三十年碑
明治三十九年五月二十ニ日千住市場創業三百三十年の祝賀祭が盛大に挙行された。その模様は広場に三百三十台の盤台を積み上げ神宮皇后の山車と大蕉の山車を造り各々に大鼓を備えつけこれを打鳴らして町中を引き廻した。他に千貫神輿と呼ばれる大神輿をニ天で担ぎ少年は中神輿、子供は小神輿の三基の神輿が市場中を練り歩いた。神社境内には四米もの記念碑を「浅草北口睦」の十七名の人達が建立した。「浅草北口睦」とは吉原遊郭を中心にして南千住寄り一帯で橋場、今戸、吉野、地方、今戸、日本堤などの青果商の同業組合である。
記述の頭取とは会長、組合長で伍長は取締幹事長の様な役職である。因みにこの祭りで問屋が三軒潰れた。昔からやり出したらとことんやるのが河原気質と云いお祭りともなれば当番の問屋がニ、三軒潰れた。千貫神輿は現存する。
  河原稲荷神社」

   
 

<福禄寿>

 千寿七福神の開運福禄寿です。

   
 

<手水鉢>

 とても大きな手水鉢です。福禄寿の後ろにあります。

  
 

<力石>

 拝殿の下に、力石が3基並んでいます。

     
 

<石燈籠>

 右の石燈籠には「日露戦捷紀念」とあります。
 日露戦役紀年は、石碑のほかに、鳥居、燈籠、砲弾など色々です。

   

 左の石燈籠には「昭和五十年大祭紀念」とあります。

  
 

<天水桶>

(説明板)
「天水槽
水槽は鋳鉄製で高さ八五cm直系九八cm上部の円周二八一cm下部の円周二六二・五cmでやや下へつぼまり上部に幅六cm厚さ六cmの縁取りがある。
千住の青物問屋街は戦前「千住のヤッチャバ」と呼ばれ東京の北門市場としてその名を馳せていた。
嘉永三年(一八五○年)の水槽は千住で熱心に行われていた成田講千住総講中傘下の一派御乎長講による寄進である。
水槽には青物問屋等の構員名が記名されている。右水槽二十九名、左水槽二十一名(重複除く)総計五十名。鋳造工らしき者二名、書は徹斎である。
御乎長講の遺物として大幟が現存している。いつの日か掲揚する。
  河原稲荷神社」

   
 

<社殿>
          夏                 冬               本殿裏
    
 

<神楽殿>

  
 

<神輿庫>

 昭和44(1969)年の建立。
 金銅装神輿(通称やっちゃ場の千貫神輿)と、
 天保5(1834)年作の黒漆小形厨子(ともに足立区文化財)が保管されています。

  

(説明板)
「金銅装神輿(千貫神輿)  足立区登録文化財
金銅の金具で一面に装飾された木造漆塗の大型神輿である。屋蓋は照り起り露盤上に鳳凰が据えられ、降棟の先端は円形の蕨手となり頂に飛燕がついている。胴部の前と左右面の中央には浮彫りになった登龍立浪の打出金物が飾られている。基部上は玉垣を巡らし四隅に高欄、中央に鳥居がついている。基部の後方右側に「明治未四年五月吉祥日」と制作年代を示す陰刻銘がある。明治初期の作品だが江戸神輿の形式を受けつぎ細工や装飾も見事で美しい総高二三八・五センチ胴部高七ニ・五センチ基部方一二三・〇センチと大きく通称千貫神輿と呼ばれているが実際の重量は四百五十貫でありこの大袈裟な通称はむしろその豪壮な装飾から生じたのであろう。九月十四・十五日は千住の祭りである。稲荷神社は千住の中心河原町の市場の鎮守なので、神輿は宮を出て市場内に入り町内を渡御するのが大祭の慣わしとなっている。河原稲荷の祭礼では昔はやっちゃ場の各問屋に力自慢の若衆が大勢いたので二天で担いだ神輿である。
  河原稲荷神社」

  

(説明板)
「神道厨子
文化財登録名称「木造黒漆小型厨子二基」二基同じようだが彫物がそれぞれ違う。小さなお宮だけにその精巧さが何とも魅力的である。昭和四十年代に旧神輿倉の中に埃にまみれて発見された。祭礼の神輿が町内巡行の際行列に加わった道具の一つである。内部に御神酒を容れる二本の瓶子を納め二基を天秤棒の両端にさしこんで肩にかついで御旅所で信者に内容物を分けたのである。
江戸後期の造形性がよく現れていて特に製作年代が明記してある点が資料としても重要である。中央に金銅扁額があり陰刻銘で表に「千住川原町」裏に「天保五甲午歳細工人錺師宮清」とある。
  河原稲荷神社」

  


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