Discover 江戸旧蹟を歩く
 
 柳橋

  ○ 柳橋
  ○ 江戸時代の柳橋
  ○ 篠塚稲荷神社
  ○ 石塚稲荷神社


柳橋 中央区東日本橋2丁目〜台東区柳橋1丁目

<中央区側>

    

    

<かんざし>

 欄干の「かんざし」は、柳橋の芸者衆のかんざしにちなんだもので、
 青と赤のかんざしが交互に据えられています。

    

船宿小松屋 中央区東日本橋2-27-22

 柳橋の南詰、神田川に張り出して建っているかつての舟宿の屋形船の店です。

  

○柳通り〜両国広小路跡

 中央区側は「柳通り」となり、両国広小路跡に出ます。

    

○復興記念碑/柳橋銘板〜正岡子規 中央区東日本橋2丁目柳橋際

 碑銘「復興記念」(昭和4年12月)と、柳橋の説明モニュメントがあります。
 銘板に正岡子規の句が刻まれています。
 「春の夜や女見返る柳橋 子規」
 「贅沢な人の涼みや柳橋 子規」

    

(碑銘文)
「柳橋
 柳橋の下を流れる神田川は、三鷹市井之頭池を水源とし、都心部を流れて隅田川に注ぐ全長約25kmの都市河川です。
 この位置に初めて橋が架かったのは、元禄十一年(1698)のことで、「川口出口之橋」あるいは近くに幕府の矢の倉があったことから「矢の倉橋」と呼ばれていました。
 「柳橋」の由来については、
 (1) 矢の倉橋が矢之城(やのき)橋になり、さらに柳橋となる。
 (2) 柳原堤の末にあったことに由来する。
 (3) 橋の袂に柳の木があったことに由来する。
このように諸説ありますが、真説は不明です。
 明治維新後、柳橋は新橋とともに花街として東京を代表するような場所になり、新橋は各藩から出て政府の役人になった人々、柳橋は江戸以来の商人や昔の旗本といった人々が集まる所であったようです。
 区では平成3年度に、優美な形をしたこの橋を後世に傳えるため、傷んだ親柱を復元し、欄干は花街に因んで「かんざし」を飾り、歩道には御影石を張って再生しました。また、夕暮れより照明の演出をして、神田川河口に架かる「柳橋」の存在感をもたせました。
    平成4年1月  東京都中央区

 柳橋の諸元
 形式   タイド・アーチ橋
 橋長   37.9m
 有効幅員 11.0m(車道6.0m 歩道2.5m×2)
 建設年次 昭和4年12月(復興局施工)

 春の夜や女見返る柳橋 子規
 贅沢な人の涼みや柳橋 子規」

   

(説明板)
「中央区民文化財
 柳橋
   所在地 中央区東日本橋二丁目
       台東区柳橋一丁目  (神田川)
 柳橋は神田川が隅田川に流入する河口部に位置する第一橋梁です。
その起源は江戸時代の中頃で、当時は、下柳原同朋町(中央区)と対岸の下平石右衛門町(台東区)とは渡船で往き来していましたが、不便なので元禄十年(一六九七)に南町奉行所に架橋を願い出て許可され、翌十一年に完成しました。
 その頃の柳橋辺りは隅田川の舟遊び客の船宿が多く、“柳橋川へ蒲団をほうり込み”と川柳に見られるような賑わいぶりでした。
 明治二十年(一八八七)に鋼鉄橋になり、その柳橋は大正十二年(一九二三)の関東大震災で落ちてしまいました。
復興局は支流河口部の第一橋梁には船頭の帰港の便を考えて各々デザインを変化させる工夫をしています。
柳橋はドイツ・ライン河の橋を参考にした永代橋のデザインを採り入れ、昭和四年(一九二九)に完成しました。
 完成から七十余年、現在、区内では復興橋梁も少なくなり、柳橋は貴重な近代の土木遺産として平成三年に整備し、同十一年に区民有形文化財に登録されています。
  平成十四年三月  中央区教育委員会」

  

<隅田川テラス>

 こちらから、隅田川テラスに出ることができます。

     


○台東区側 台東区柳橋

     

<猪牙舟>

 柳橋は、新吉原通いの猪牙船(ちょきふね)の発着所でした。
 柳橋から大川(隅田川)に出て遡ります。
 左手に浅草御蔵にある首尾の松を見て、山谷堀の今戸橋に入ります。
 ここで上陸し日本堤を徒歩か駕籠で新吉原に向かいました。
 なお、猪牙舟のモニュメントと説明板が山谷堀公園にあります。→こちら

<柳橋説明>

   

(説明板)
「柳橋
   台東区柳橋一丁目一番一号
 この橋は、元禄十一年(一六九八)に、神田川が隅田川に注ぐところに架けられ、最初は、「川口出口の橋」と呼ばれた。近くに幕府の矢の倉があったことにちなみ、矢の倉橋・矢之城橋と呼んだともいう。柳橋は享保頃からの呼称らしい。橋の名の由来には、「柳原堤の末にある」「矢之城を柳の字に書きかえた」「橋畔の柳にちなむ」など諸説ある。鉄橋に架け替えられたのは明治二十年で、現在の橋は昭和四年に完成した。江戸時代、橋畔は船宿が並んで賑わった。幕末・明治以降、柳橋は花柳界として名を知られ、多くの文人・墨客が題材に取り上げている。また、柳橋は落語にもよく登場し「船徳」等はこの地を舞台にした噺である。
〔柳橋ゆかりの人々〕
 成島柳北 蔵前生まれ。『柳橋新誌』を著わした。
 小林清親 「元柳橋両国遠景」で、往時の柳橋周辺の情景を描いた。
 正岡子規 句集『寒山落木』の中で「春の夜や 女見返る 柳橋」と詠んだ。
 島崎藤村 今の柳橋1丁目に住み、柳橋を題材にした随筆『新片町』を発表し、小説『沈黙』」の中では大正期の柳橋界隈を情景豊かに書いている。また、代表作の『春』『家』などの作品も柳橋在住のときに発表した。
 池波正太郎 『剣客商売』などの作品で柳橋界隈を取り上げている。
  平成二十八年七月  台東区教育委員会」

  

(説明板)
「旧町名由来案内 下町まちしるべ
 旧浅草柳橋
 いくつかの町が統合され、昭和九年(一九三四)に誕生した。
町名の由来は、神田川の隅田川合流点近くに「柳橋」と称する橋があったのにちなんだ。
 柳橋の名は、江戸中期の頃から花街として人によく知られ、橋のほとりには船宿が並んで賑わっていた。ひところは、料亭および芸者衆も多く、隆盛を誇ったものである。
 「柳橋」は、元禄十一年(一六九八)に初めて架けられた。
神田川が大川にそそぐところにあったことから、その当時は、川口出口之橋と呼ばれていたが、橋のほとりに柳が植えられていたことから、いつしか柳橋と呼ばれた。現在の橋は、昭和四年に架けられたものでローゼ形式の橋である。」

  


○亀清楼 台東区柳橋1-1-3

 「休業のご挨拶 平成29年11月吉日」
 配管・変電室の老朽化による建て替えのため、2017年10月いっぱいで休業との挨拶です。

    

小松屋 台東区柳橋1-2-1

 柳橋の北詰、神田川に張り出して建っているかつての船宿の佃煮の専門店です。
 岡地に営業していないマンション1階の店舗もありました。

    

   


江戸名所図会と錦絵で見る柳橋の賑わい

「江戸名所図会」

 柳橋部分の拡大です。
 花火は料理屋からよく見えるように打ち上げられています。

  

「絵本江戸土産 両国柳橋料理屋会席」(広重)

 柳橋を袂に石段と屋根船が見えます。
 吉原通いの猪牙船もここから出ました。

  

「東都隅田川両岸一覧 西」(鶴岡蘆水 天明1(1781)年)

 「東都隅田川両岸一覧」は、浮世絵師の鶴岡蘆水の作品で、隅田川両岸の連続絵巻となっています。
 柳橋部分の抜粋です。
 柳橋から両国広小路へ、舟宿料理屋が密集している中、広大なスペースに「上様御舟場」とあります。
 将軍のお上がり場がかつてここにもあったことがうかがえます。
 両国橋の下流側にも描かれています。

  

「隅田川両岸一覧 新柳橋の白雨 御竹蔵の虹」(北斎)

 にわか雨に降られ、傘を持った人々が新柳橋の上を走っている様子が描かれています。
 左奥の橋は御蔵橋で、幕府の材木蔵であった「御竹蔵」の入堀に架かっていました。
 右奥には百本杭が見えます。

  

「江戸八景 両国橋の夕照」(英泉)

 万八楼で、書画会が行われています。
 万八楼は、江戸の文人墨客の書画会や句会などの場でもありました。

 正岡子規は柳橋を詠んでいます。
 「春の夜や女見返る柳橋 子規
  贅沢な人の涼みや柳橋 子規」

   

「江戸高名会亭尽 柳ばし夜景 万八」(広重)

 錦絵には「狂句合 万八の 二階夏とハ うそのやう」とあります。
 柳橋の北袂の料理茶屋「万八楼」を描いています。
 「亀清楼」に引き継がれ現在は亀清楼の入るマンションが建っています。

  

「江戸名所百人美女 柳はし」(豊国・国久)

 こま絵には万八楼が描かれています。
 隅田川には猪牙舟、屋根船、釣船が見えます。

   

「江戸高名会亭尽 両国柳ばし 梅川」(広重)

 柳橋南袂。
 「梅川へのつと月の出江戸芸者 錦糸」

  

「江戸高名会亭尽 両国柳橋 大のし」(広重)

 柳橋南袂。
 「狂句合 大のしと 貸上下の 小てうちん 株木」

  

「江戸高名会亭尽 両国柳橋 河内屋」(広重)

 柳橋南袂。
 「狂句合 おつな業平河内屋へ度々通ひ ヒトヒ」

  

「東京名所三十六戯撰 柳はし」(昇齋一景)

 柳橋を渡っていた人が商品の傘を落とし、
 柳橋の下を行く舟の女性の下半身に直撃するハプニングが描かれています。

  

「東京開化狂画名所 柳橋 書画會画工の狼藉」(月岡芳年 都立図書館蔵)

 書画会は明治に入っても盛んだったようです。

  

「東京名所 柳橋夜景」(井上探景(井上安治))

 明治初期の柳橋が描かれています。

  


篠塚稲荷神社 台東区柳橋1-5-1

「江戸名所図会 第六天 篠塚稲荷」

 挿絵には、「いなり」「本社」「金ひら」とあります。
 「いなり」が篠塚稲荷で、「本社」が第六天でしょう。

  

 第六天は遷座していますが、篠塚稲荷神社は昔の位置にあります。

    

<玉垣「両国花火組合」>

 両国花火組合は、柳橋料亭組合が運営していました。
 両国花火大会は、高度経済成長期に至り昭和36(1961)年を最後に終わります。
 昭和53(1978)年に隅田川花火大会と改称し台東区と墨田区が毎年交互に担当し再開されました。
 打ち上げ場所は隅田川上流に移っています。
 台東区「文化探訪」が参考になります。

    

<説明文>

 詳しい説明が掲示されています。

    

(説明文)右
「御祭神 倉稲魂命 御神徳 商売繁盛、火伏せ
 例大祭 六月第一土曜日、日曜日
毎年、氏子の役員や有志の方々が御奉仕誘導して江戸葛西囃子を先頭に、獅子頭、大太鼓の山車と子供神輿が氏子町内を巡行します。そして氏子の崇敬者が所々に設営した御旅所(おたびしょ、即ち御神輿がお立寄りして休む所)で子供さん達に飲物、菓子、玩具、文房具等を沢山に振舞います。

  

当神社の創建は非常に古くて確かな事は判りませんが、神社に伝わる古文書や伝記などに依れば、正中年間(1325年頃)に新田義貞の四天王の一人であった篠塚伊賀守重宏が、足利尊氏軍との四国での最後の戦いに敗れた後ひそかに東国へ逃れ、現在地近辺の茅原の里にあったと言う当稲荷の祠の傍らにて仏門に入り、日夜主家の再興を祈願していた事から、いつしか里人が篠塚稲荷神社と称する様になったと言われています。古来諸大名や高家及び庶民の崇敬厚く右の図は天保七年版(1836年)『江戸名所図会』に記載されている稲荷社の絵図ですが『篠塚稲荷神社。当地の旧社なり。昔、新田(義貞)の家臣篠塚伊賀守、当社を信仰し、晩年に入道して社の側に庵室を結びて住す。別当玉蔵院はその裔孫なりと言えり」と記してあります。当時は神仏混交の時代で篠塚伊賀守の子孫は京都醍醐寺から篠塚山玉蔵院宗林寺の三号を受けた真言宗の修験僧で稲荷社の別当を務め、且つ江戸期から大正末期までは神社境内に寺子屋(後に篠塚小学校)を運営し、また福井町にも分校を設けていましたが明治維新の際の廃仏棄釈により玉蔵院を廃止し、大正11年には篠塚学校も廃校致しました。

  

↓左手前が新田義貞公、背後は篠塚伊賀守、 ↓伊賀守が敵の軍船を奪うの絵
篠塚伊賀守重宏については太平記や徳川光圀公の大日本史などに詳しく記述されていますが、大変な強力無双な武将で新田義貞公が福井で戦死した後は、義貞の弟、脇屋義助に従って各地を転戦し、四国で新田一門が滅亡する時、単騎で敵の軍船を奪い、現在の魚島を経て関東に向ったとあります。魚島やその他には様々な史跡が残存していますがその没年は不確かです。その豪傑振りは歌舞伎の演目にもなり左図の如き武者絵にもなりました。後年出生地の群馬県邑楽町篠塚の大信寺境内に御廟が建立され、毎年4月は篠塚一門の者が集まりご供養しています。」

  

(説明文)左
「当神社は小社ですが境内に古跡地としての由来を記した石碑と、宗祇が詠んだ句碑があります。
(句碑)
「代地川岸永住栞 涼風や月雪 はなの隅田川 宗祇」
「(註)
「宗祇」は室町後期の歌人(一四二一〜一五○二)
 平安末期の「西行法師」(一一一八ー一一九○)及び江戸時代末期の「芭蕉」(一六四四ー一六九四4)と共に漂泊の三歌人として名高い」

(石碑・表面)
「篠塚稲荷神社 社歴
 御祭神 倉稲魂命。
 例祭日 六月初旬
 御由緒
当社の創起年代は詳らかではないが、古記に大川辺に高き丘あり篠生い茂り里人ここに稲荷神を祀るとあれば悠久の昔より奉斎し奉りあり 正平年間新田義貞の家臣篠塚伊賀守重廣、主家再興の祈請をなし来国光の刀を神前に捧げ、社傍に庵を結びて出家し日夜参篭怠らず、為にいつしか篠塚稲荷大明神と尊称するに至った。
延宝九年三月神社別当僧たる伊賀守の子孫に醍醐寺三宝院御門跡より篠塚山玉蔵院宗林寺の称号を賜り、元禄六年二月本多紀伊守殿寺社奉行の折には御府内古跡地と定められたが、明治初年神仏分離の際、玉蔵院は廃せられた
古来より商売繁昌火防神として厚く尊崇奉る」
(石碑・裏面)
「をしからぬ 身を東路に めぐり来て 神に誓いを 申しおくなり」
「正平年中(西暦一三四○年頃)篠塚伊賀守重宏神前に詠みて捧げたる一首と伝う」

  

<境内・社殿>

     

<篠塚稲荷神社社歴と句の石碑>

    

<宗祇句碑>

    

「芳年武者无類 篠塚伊賀守貞綱」(月岡芳年)

 篠塚重広は、南北朝時代の南朝方の武将。新田義貞の側近で、新田四天王の一人に数えられました。
 北朝方が立てこもる近江三井寺攻略に参戦。三井寺を南朝方が攻めあぐねていた時、
 篠塚重広が寺の外にあった卒塔婆を持ち上げ、それを堀に渡して橋とし、攻め込んだと言われています。
 (刀剣ワールドを参照しました)

  

「大日本六十余州之内 越前 篠塚伊賀守重広」(一陽斎豊国)

  


石塚稲荷神社 台東区柳橋1-1-15

 柳橋から柳橋大川端通りを北上すると、右手に石塚稲荷神社があります。
 石塚稲荷神社は、かつての柳橋花柳界の火伏として信仰を集めました。

     

<玉垣>

 玉垣には、亀清、柳光亭、柳水、津久松・・・、料亭の屋号等が並びます。
 門柱には、左「柳橋料亭組合」、右「柳橋藝妓組合」とあります。

    

<鳥居>

 鳥居の額「火伏神 石塚稲荷神社」

  

<境内>

 境内には「二葉」の石碑。玉垣にも「二葉」とありますが、料亭「二葉」の碑なのでしょうかね?

     

「旧町名由来案内 下町まちしるべ 旧浅草柳橋」

 柳橋の東北詰と同じ案内板があります。

  


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