○ 運上所跡(東京税関発祥の地)
○ 電信創業之地
○ 明石橋(寒橋)
○ 月島の渡し跡
江戸幕府は、鉄砲洲明石町の一帯を外国人居留地と定め、この地に税関業務等を行う運上所を設置し、これが東京税関の始まりとなりました。
運上所内には、明治2(1869)年に「傳信機役所」も設けられました。
料亭「治作」の場所が、かつて運上所があったところで、「治作」の門前に石碑「史蹟運上所跡 東京税関発祥之地」があります。
<史蹟 運上所跡 東京税関発祥之地>
(碑文)
「史蹟
運上所跡
東京税関発祥之地
「 江戸幕府は、 慶応3年(1867年)に、
江戸築地鉄砲洲明石町の一帯を外国人居
留地と定め、この地に税関業務等を行う
運上所を設置しました。
これが東京税関の始まりです。」
<隅田川テラス>
運上所跡(水たき治作)を隅田川テラスから見たところです。
下流側に5本柱とアーチのオブジェ。
その下流は、明石堀河口と明石橋はなくなりましたが、
東京都下水道局明石町ポンプ所の水門と隅田川テラスに架かる橋があります。
運上所を描いたタイル絵が聖路加病院前バス停脇にあります。
(歩道側)
「運上所」の看板が掲げられています。明石橋とガス街灯も描かれています。
(道路側)
遠景を拡大すると、カトリック築地教会聖堂らしきものが見えます。
道路側は教会を描いているのでしょう。
昭和15(1940)年に建てられた「電信創業之地」碑と、昭和53(1978)年に碑を移設した時に作られた「電信創業記念碑の由来」碑があります。
移設されており、元の場所は運上所跡です。
<電信創業之地 東京電信局跡>
(碑文)
「電信創業之地
東京電信局跡
明治ニ年十二月廿五日開始
紀元二千六百年
逓信省」
<電信創業記念碑の由来>
(碑文)
「電信創業記念碑の由来
明治2年9月19日(太陽暦10月23日)横浜裁判所と東京築地運上所内に設けられた「傳信機役所」を結ぶ約32キロメートルの電信線架設工事が開始され、同年12月25日に業務を開始した。これが、我が国における公衆電気通信の最初である。
この記念碑は、先駆者の業績を後世に伝えるため、昭和15年に建立されたもので、昭和53年、南南東約40メートルの地点から当地へ移設されたものである。」
「最初の電信」(実写奠都五十年史 大正6年)
最初の「回針式電信機」と、最初の「電信柱」「電信線路」の写真です。
解説「上は明治二年十二月廿五日東京と横濱とに電信局を開きたるときの回針式電信機にして
下は東京横濱間の電信線路を騎馬にて監視するところなり」
「東京三十六景 築地明石はし」(昇斎一景 東京都立図書館蔵)
電信柱と電線が見えます。
「東京名所四十八景 築地明石はし」(昇斎一景 東京都立図書館蔵)
電信柱と電線が見えます。
2枚目はその部分を拡大しています。明石橋の上を電線がこえていきます。
「江戸名所図会 寒橋」
江戸名所図会に寒橋が描かれています。
明石橋は、江戸湾の海風にさらされることから「寒橋」(さむさばし)の俗称で呼ばれていました。
挿絵には「青海や 浅黄になりて 秋のくれ 其角」とあります。
「江戸百景余興 鉄炮洲築地門跡」(広重)
広重が江戸名所図会と同じアングルで描いています。
図会より視点が低いので明石橋(寒橋)は見えません。
「江戸切絵図」
明石橋部分の抜粋です。明石橋には「サムサハシ」の注記があります。
紀伊殿のところが、後に、軍艦操練所とその後の築地ホテル館の場所です。
「東京築地鉄炮洲景」(歌川国輝 明治2(1869)年)
「東京築地鉄炮洲景」から、「明石橋 サムサハシ」と「御役所」の部分の抜粋です。
「東京築地ホテル館」(二代歌川国輝 明治2(1869)年)
画題は「東京築地ホテル館」ですが、左手に明石橋と運上所が描かれています。
「築地外国居留地図」(旧幕府引継書)
国立国会図書館が所蔵する「築地外国居留地図」(旧幕府引継書)に、
「明石橋」の先に、「東京運上所」と、運上所の一画に「傳信局」が記されています。
かつて明石橋の西詰に月島の渡しの渡船場が設けられました。
説明板「月島の渡し跡」がある場所です。
<月島の渡し跡>
(説明板)
「月島の渡し跡
所在地 中央区築地七丁目一八番地域
明石町一四番
「月島の渡し」は、月島一号地の埋め立てが完成して間もない明治二十五年(一八九二)十一月、土木請負業の鈴木由三郎が、南飯田町(現在の築地七丁目一八番)から月島(現在の月島三丁目二四番)へ手漕ぎの船で私設の有料渡船を開始したことに始まります。
明治三十四年(一九〇一)月島への交通の重要性を考慮した東京市が渡船の市営化を決め、翌三十五年に汽船曳船2隻で交互運転を開始し、渡賃も無料となりました。明治四十四年には、臨海工業地帯へと発展した月島への乗客増加に対応するため、徹夜渡船も開始されました。
月島の渡しの渡船場は、当初、明石橋詰の南飯田町にありましが、東京市に移管されて運営が開始される明治三十五年以降には、明石町(現在の明石町一四番)に渡船場を移設し、大いに利用されてきました。
昭和十五年(一九四〇)に勝鬨橋が架橋されたことにより、渡船の運航に終止符が打たれましたが、明治から昭和にいたるまで住民や工場へ通う人々の重要な交通機関として活躍しました。
月島の渡しは、月島工場地帯の発展ひいては日本の近代化に寄与した渡船として語り継がれています。
平成三十年三月 中央区教育委員会」