○ 姥ヶ池
○ 一ノ権現社/十社権現社
○ 助六歌碑
○ 履物問屋街発祥碑
○ 旧町名由来案内「旧浅草花川戸」
○ 歴史と文化の散歩道
○ GTS観光アートプロジェクト作品
○ 嬉乃森稲荷神社
<姥ヶ池伝説>
姥ヶ池は隅田川に通じた大池で、浅草寺の子院妙音院所蔵の石枕にまつわる伝説があります。
浅茅ヶ原の一軒家で、旅人の頭を石枕で叩き殺す老婆がおり、ある夜、娘が旅人の身代りになって、天井から吊るした大石の下敷になって死にます。
それを悲しんで悪行を悔やみ、老婆は池に身を投げて果てたので、里人はこれを姥ヶ池と呼びました。
姥ヶ池は明治24(1891)年に埋め立てられ、現在は花川戸公園となり、園内には人工の池が作られ碑が設置されています。
「五元集 石の枕に 鮨やありける 今の茶屋 其角」
<姥ヶ池碑>
「姥ヶ池之旧跡」
(説明板)
「東京都指定旧跡
姥ヶ池 所在地 台東区花川戸二丁目四番 花川戸公園内
指 定 昭和十四年十二月
姥ヶ池は、昔、隅田川に通じていた大池で、明治二十四年に埋立てられた。浅草寺の子院妙音院所蔵の石枕にまつわる伝説に次のようなものがある。
昔、浅茅ヶ原の一軒家で、娘が連れ込む旅人の頭を石枕で叩き殺す老婆がおり、ある夜、娘が旅人の身代りになって、天井から吊るした大石の下敷になって死ぬ。それを悲しんで悪行を悔やみ、老婆は池に身を投げて果てたので、里人はこれを姥ヶ池と呼んだ。
平成八年三月八日 建設 東京都教育委員会」
<姥ヶ池福寿稲荷大明神/姥宮沙竭羅龍王>
池の中に石造りの小祠が2基あります。
「江戸名所図会 一権現祠 姥ヶ池」
中央に顕松院敷地の「一ノごんげん」「槐(えんじゅ)」が描かれています。
上の方に妙音院敷地内の「うばが池」「弁天」が描かれています。
「東都旧跡尽 浅茅が原一ツ家石の枕の由来」(広重)
広重が一ツ家石の枕の由来を描いています。
天井からつり下げられた大きな石が描かれています。
「月百姿 孤家月(ひとつやのつき)」(芳年)
「江戸切絵図」
「姥ヶ池」が見えます。池の南に「顕松院」「妙音院」があります。
池の東に「一ノ権現」があります。
「妙音院」
現在は浅草寺の裏に移転しています。石枕は非公開です。
「江戸名所図会 観音大士の仮御堂」
浅草川で観音大士の霊像を感得したとき、此地の草刈の童十人が集まって仮御堂を作り、
御本尊を槐(えんじゅ)の切株に安置したという伝承を描いています。
観音さまからは後光がさしています。
仮本堂は一ノ権現社の旧跡となり、十人の童は後に神として十社権現として祀られました。
なお、顕松院は明治20年に廃寺、医王院に合併しています。また、一ノ権現社と十社権現社は現存していません。
十社権現社は観音堂の裏手にありました。
現在は浅草神社に合祀されています。
1枚目は「江戸名所図会 浅草寺其四」から抜粋です。
2枚目は「東都金龍山浅草寺図」(魚屋北渓)から抜粋です。
花川戸公園内に「助六歌碑」があります。
碑表「助六にゆかりの雲の紫を 弥陀の利剣で鬼は外なり 団洲」
台石「花川戸鳶平治朗」
碑裏「明治十二年六月五日」
碑横「昭和三十三年秋再建
鳶花川戸桶田」
(説明板)
「助六歌碑 台東区花川戸二丁目四番十五号 花川戸公園
碑面には、
助六にゆかりの雲の紫を
弥陀の利剣で鬼は外なり 団洲
の歌を刻む。九世市川団十郎が自作の歌を揮毫したもので、「団洲」は団十郎の雅号である。
歌碑は、明治十二年(一八七九)九世市川団十郎が中心となり、日頃世話になっている日本橋の須永彦兵衛(通称榛彦)という人を顕彰して、彦兵衛の菩提寺仰願寺(現、清川一‐四‐六)に建立した。大正十二年関東大震災で崩壊し、しばらくは土中に埋没していたが、後に発見、碑創建の際に世話役を務めた人物の子息により、この地に再造立された。台石に「花川戸鳶平治郎」、碑裏に「昭和三十三年秋再建 鳶花川戸桶田」と刻む。
歌舞伎十八番の一つ「助六」は、二代目市川団十郎が正徳三年(一七一三)に初演して以来代々の団十郎が伝えた。ちなみに、今日上演されている「助六所縁江戸桜」は、天保三年(一八三二)上演の台本である。助六の実像は不明だが、関東大震災まで浅草清川にあった易行院(現、足立区伊興町狭間八七○)に墓がある。
平成十一年三月 台東区教育委員会」
※花川戸助六の墓が足立区東伊興の易行院にあります。(こちらで記載)
※歌舞伎の興業は、近世初期には長吏頭・弾左衛門の支配下にありました。
歌舞伎「助六」の髭の意休のモデルが五代目弾左衛門(集誓)であるとの説(塩見鮮一郎「弾左衛門の謎」)があります。
平成2(1990)年建立の「履物問屋街発祥碑」があります。
碑表
「浅草花川戸
履物問屋街発祥碑
内山栄一書」
碑裏
「浅草履正会協同組合(五十音順)
理事長発起人 田中 亨
発起人 (70名近くの発起人と組合員の氏名、省略)
先人の偉業を顕彰し建立
平成二年八月五日」
(説明板)
「旧 浅草花川戸一・二丁目
本町は、昭和九年(一九三四)、この地にあった町を整理統合し誕生した。浅草花川戸一丁目は、浅草花川戸町大部、同馬道四丁目東部、同馬道六丁目南側一部、山ノ宿町大部からなった。南隅を合した。浅草花川戸二丁目は、浅草馬道六丁目東部、同猿若町一丁目南側一部、同山ノ宿町大部からなった。
町名の由来ははっきりしないが、川や海に臨む地に戸を付けることが多いという。花川戸の地は、桜の並木あるいは対岸の墨堤に咲く桜など桜と隅田川に結びついていたので、この名が付いたのではなかろうか。
昭和四十年(一九六五)、住居表示の実施で浅草花川戸一・二丁目は、浅草の二文字を略しそのまま花川戸一・二丁目になった。 台東区」
<石の舟>
GTS観光アートプロジェクトの作品「石の舟」。
巨大な石に無数の顔が配置されています。
(説明板)
「石の舟 ISHI no FUNE 2011年度制作
旧福井中学校の礎石を基盤として、その上に大きな玉石を設置しました。その石には浅草小学校の子供たちと制作チームスタッフが造ったブロンズの人や動物の頭部(顔)が埋め込まれています。台東区の公共施設の礎石を過去として、玉石を地球とみたて、皆で造った人間や動物がその地球に生きる多くに生物の今を意味して、それらが東京スカイツリーを眺め見つめることで未来に思いを巡らします。」
<ササエル>
GTS観光アートプロジェクトの作品「ササエル」。
(説明板)
「GTS Bench ササエル
このアートベンチは、GTS(藝大・台東・墨田)観光アートプロジェクトの一環で、12基の環境アート作品が置かれる観光アートラインに沿って設置をしています。
2011年度は台東区の花川戸公園と墨田区の源森橋付近に「ささえる」をテーマにベンチを製作しました。
ベンチの色は、東京スカイツリーのカラーデザインをベースに、周辺の景観との調和やデザインコンセプト「時空を超えた都市景観の創造:日本の伝統美と近未来的デザインの融合」を考慮したオリジナルカラー「スカイツリーホワイト」を塗装しました。「スカイツリーホワイト」は日本の伝統色、最も薄い藍染の色である「藍白(あいじろ)」をベースにしたオリジナルカラーで、白を基調に、藍染職人の技法に倣い青みを加えており、白磁のようにかすかに青みがかった白が、繊細な輝きをはなっています。高くそびえるタワーの色を近くでみて比べて見てください。」
「嬉乃森稲荷神社」は馬道通りと花川戸公園(南側)の間の路地にあります。
伝承によれば、江戸時代浅草三大池といわれた花川戸近辺の「達磨池」そばの嬉の森に祀られていたといいます。